第71話 呪文おじさん
移動教室。階段を上って三階の美術室を目指していると、前を歩いていた生徒がくしゃみをした。左隣で話している生徒を避けてか、その顔は彼の右手、手すりを持っている方を向いていた。
僕はなんとなく手すりから離れて階段を上る。
すると突然立ち止まったその生徒にぶつかり、転げ落ちて踊り場の壁にぶつかった。
痛みを堪えて、上を見ると。
そこは屋上へ向かう階段。周りには誰もいなかった。
◆
駅のホーム。電車を待つ間、彼は噂の男の隣に座った。
「不備でばルリ赤茶まし円鳶レゴ仕手箆須广がれ酪酸たぐ置列ごもう」
隣に座っている男はぼそりとそう呟いてから、さらに長々と呪文を唱える。その男は近辺の学校に通う生徒や主婦たちから、こう呼ばれていた。
呪文おじさん、と。
◆
「どうしたの?続けてよ」
僕は屋根裏部屋の怪異に続きを促す。しかし。
「以上だよ。めでたしめでたし」
怪異は無慈悲に語りを打ち切った。
……僕は何か機嫌を損ねるようなことをしたのだろうか?
「くくっ、察するに、あまりに短い話だったから、何か気に障るような事でもして邪魔しちゃったかも、なんて考えているんだろうね」
僕の困惑と疑念をすぐに理解した天井裏の語り手だが、それでも続きは語れないという。例によって、この先は知らないということらしい。
「えっ、じゃあなに。なんか近所に不気味な人がいる、くらいの話なの?これ」
上からの声はただ短く一言、「そのとおり」と肯定する。
いよいよ怪異の怪談のストックも底を尽こうとしているのだろうか。今回の話は、事によってはただ脳機能に障害を抱えた男性が実際にそこにいただけ、という線だってありうる。それを面白おかしく怪談に仕立ててしまっていいのだろうか。
……それはさすがに一線を越えている気がする。
「これだけは確認したいんだけど」
「なに?」
「これって、実話?」
「うーん…………」
屋根裏部屋の怪異は唸る。懊悩する声を長々と響かせて、天井の上を右へ左へ移動する。
それが突然ピタリと止んで、一言。
予想外の言葉を言った。
「神話」
? 理解ができず、聞き間違えかと思った。
「安心してよ。怪談として語った以上は、そこは保障されていると思っていい。これは霊現象だ。そこにいたのはどの町の戸籍謄本を調べても出てこない、父親もいなければ母親もいない、過去もなければ未来もないただの影法師だよ。君は安心してこの続きを創っていい。……それとも」
その事象それ自体が持つ不気味さから目を逸らすつもりかい?
「それが障がい者の特徴の一つに重なるから」
……僕は悩んだ。さっき屋根裏の怪異が悩んだよりもっと多くの時間を悩んだ。
それは不気味ではないと否定し、当たり前の日常と認めるのか。
それは不気味であると認め、その上で当たり前の日常と認めるのか。
何が障害で、何が健常か。何が異常で、何が通常か。どこまでがそうで、どこからがそうじゃないのか。
思考の順路は複雑に絡み合い、問題と問題は頭と尾が入れ替わって、正しさの背をなぞるものの正体を見失う。
そしてやがて、一高校生の脳内議論で決着する問題ではないと、知恵熱にのぼせた頭が決着した。
そうだ。僕はただ、今このときだけ。この部屋のこの天井裏に棲む何かにだけ捧ぐ怪談として。
その続きを創ればいいじゃないか。
◆
次の日。彼は電車を待つ間、またも噂の男の隣に座ることにした。
独り言がなんだ、それくらい俺だって家でさんざん喋ってるわ。
彼は学校の風説や生徒から伝え聞く巷説を疎んでいた。
隣の男はまたぼそりと呟く。
「暦元のゆクセ離別お手タフ血エル米とら羽生ヅン太鳳ウじやもうす」
そして一息置いてから、また長々と意味のわからない呪文を続ける。よく聞いていると、ずいぶん長く息が続くんだなあと思った男だった。
次の日も隣に座った。
「しぁ後得るな久賀フィアお歌いづ城ねう会え罪ぐ羅カルテもうすぐ」
次の日も隣に座った。
「御上ふり師トア女府や食い顔飢え治安木須ベル通信是がもうすぐし」
次の日も隣に座った。
「ホラ多おぁ部位レツ鼻炎いけ巣濾紙ヴェかて干具ウラもうすぐしぬ」
……あれ?
隣の男の呟きが最後に意味を結んでいた気がした。しかし、彼は聞き流してしまってわからない。
隣に座った男はいつものように一息置いて、また長々と呪文を続ける。
しかし、その日は彼にもその呪文が何なのかわかった。
「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌身意無色声香味触法無眼界乃至無意識界無無明 亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得以無所得故菩提薩埵依般若波羅蜜多故心無罣礙無罣礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢想究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提故知般若波羅蜜多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等呪能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜多呪即説呪曰羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶般若心経」
唱え終わった男はすうっと、煙のように消えた。
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