第9話 戦神たらしめたもの



 エイダは読み終えたファイルを閉じ、しばらく動くことさえできなかった。

 「歴史上最も愚かな時代」「暗黒期」。戦神が生きた時代はさまざまな文献や歴史書・創作物で、言葉を表現を変えそう表されてきた。数字で転機となった戦や事件で、その凄惨さと惨たらしさを示されてきた。

 でもそのどれもが時代を切り取り大局を表したもので、その時代の一滴を集めてできた大河を遠くから眺めたのもの。その大河を作る一滴を掬い上げてみれば、その一つ一つはこれほどまでに残酷で、これほどまでに心を引き裂く。

 過ぎ去りし過去は許されざる罪もささやかな願いも、全てを押し流し飲み込んで現在いまになった。どれだけ思いを馳せても、手を伸ばしても届きはしない時の流れ。


「こんな……」


 知っていたつもりだった。理解したつもりだった。今生きるこの国が歩んだ歴史を学んだはずだった。でもこの時代を生きた人が残した記録に、頭を殴られたような気がした。本当に知っていたのか、理解していたのか、学んだのかと。

 手記に無敗の英雄はどこにもいなかった。無力な少年がいるだけだった。か弱く不安げな少女がいるだけだった。悲しいほどに、あらゆるものに飢えていた。

 獣だった少年は一人の少女と出会い、人になった。少女は手に入れた温もりに必死に縋っていた。二人は手を取り合って生きることだけを望んでいた。エイダの知らない歴史があった。

 エイダは震える手でもう一度ファイルを開く。読み返しては泣き、泣いては読み返した。何に泣いているのか、どうしてそうするのかも分からないまま。胸を引く裂くような痛みに耐えて、湧き上がる使命感にも似た思いに突き動かされる。そうしている間に陽は昇り、朱に傾き、夜を迎えた。

 手をつけなかった食事はいつの間にか下げられ、何度か聞いた気がするノックに応えることもしなかった。そして日がまた昇る。


「……エイダ!」

「レナルド……」


 叱りつけるような声とともに揺さぶられ、エイダはぼんやりとしたままレナルドを見上げた。顔を見た途端、涙が溢れた。レナルドは舌打ちをすると、乱暴にエイダを抱き込んだ。


「……だから言っただろ、もう「過去」だって!」

「でも……でも……だって……」


 怒ったような口調とは裏腹に、優しく宥めるような手つきにエイダはしゃくりあげた。

 頭から離れない凄惨な記録が、虚無にも似た無力感を。燃え上がるような使命感を。怒りのような悲しみを。寄せてはかえす波のようにエイダの心を絶えず襲った。すっかり疲れ切っても、それでも頭から離れない。


「もう過去なんだ!」


 両肩を掴まれ押し離したレナルドが、エイダの目を鋭く射抜きキッパリと言い聞かせる。そのまま肩から手を離すと、傍らに置いたワゴンからまだ温かいスープを突き出す。


「食え!」

「でも……」

「いいから食え!」


 憤慨したように手を取られ、スープのボウルを無理やり渡される。冷え切っていた手のひらが、じわりと木のボウルの持つ熱を伝えて、エイダの張り詰めていた心が緩んで瞳が潤んだ。


「……あった、かい……こんなあったかいスープ、二人は……」

「今お前がこのスープを食わなくても、過去の二人の腹が膨れるわけじゃない!」


 レナルドに怒鳴られ、エイダは一瞬押し黙りヘニョリと顔を歪ませた。

 

「でも……でも……だってぇ……」


 ボロボロと泣き出したエイダの隣に腰を下ろした。

 

「温かい食事にありつけることに罪悪感を抱いても、今平和であることをに後ろめたさを感じても、過去は過去で何一つ変えられない。例えお前が断食して飢えて死のうが、なんの意味もない。だから食え。今を生きろ」


 レナルドの顔をじっと見つめて聞いていたエイダは、スンスンと鼻を啜りながら湯気がゆらめくスープを見つめた。レナルドがスプーンを差し出そうとしたが、それより前にエイダがボウルに口をつけてごくごくと飲みだす。


「お、おいしいぃ……あったかいぃ……」


 飲み干したエイダが顔を上げ、わんわん泣き出す。


「……そうだな」


 呆気に取られてエイダを見ていたレナルドが、安堵したように息を吐き小さく呟いた。子供のように泣くエイダの頭を引き寄せ、肩に寄り掛からせる。遠慮なく肩に縋って泣くエイダを、ぽんぽんと慰めながらレナルドは静かな声で囁いた。


「心配ない。今この時だっていつか過去になる。歴史の一部になる。その繰り返しだ。でもいつか僕が歴史になるまでは、覚えておいてやる。あの二人を思って、エイダが心を痛めたことは……」

「うえぇぇ〜〜」


 凄惨な歴史の事実。壮絶に生きた幼い二人。今この時すらいつか過去となる無常感。色んな感情が渦巻き荒れ狂う虚しさを、吐き出すようにエイダは泣いた。苦しいのか悲しいのか、もうよく分からなかった。


(きっと、こういうものを分け合って、守ろうとしてたんだ……)


 食事もしないエイダを心配し、突撃してきたレナルド。感情の迷路に迷い込んだエイダを叱咤して、スープを飲ませる。心の置きどころが見つかるまで、こうして肩を貸してくれる。そういう温もりや、言葉や、心を。あんな時代に出会い、見つけ、二人は守ろうとした。そういうものを。


「守れた、かな……守れていると、いいな……」


 どうかそうであってほしい。囁くように呟いて、とろりとエイダは瞳を閉じた。頬に一筋涙が伝った。そのまま泣き疲れて眠るまで、レナルドはエイダに肩を貸してくれた。


※※※※※


 ほとんど寝ていなかったエイダは、それから半日たっぷり眠った。レナルドの監視のもと、食事をすること二日。三日目のディナーから、食堂で摂ることになった。


「エイダ嬢は三日だったか」


 久しぶりに顔を合わせた古狸は、エイダにニコニコと笑みを向ける。予想されていた気恥ずかしさを堪えながら、持ち前の負けん気でエイダはにっこりと笑みを返す。


「レナルドは一週間かかったな……」

「お祖父様……!」


 慌てたようにビリーを嗜めるレナルドに、エイダは丸くした目を向けた。バツが悪そうに視線を逸らしたレナルドに、エイダはちょっとだけ安堵を覚える。あの手記に心を乱されたのは自分だけではない。それが少し嬉しかった。

 白い髭を撫で付けながら、ビリーは飄々と続ける。


「私がいくら部屋に行ってもメソメソと泣くばかりでね……」

「お祖父様!」


 目元を染めたレナルドが、ビリーの滑らかすぎる口を遮る。くすくすと笑うエイダに、レナルドは苛立たしげに夕食を口に放り込み、むっつりと咀嚼する横でビリーはワインを傾けながらエイダを見つめた。


「戦神は派手に大刀で敵を薙ぎ倒す、怪力の巨人で描かれる。でも彼の本当の強さは……」

「誰よりも鋭敏な感覚と大胆な戦略、ですね。「バラカルトの英雄」を読みました」

「あぁ、さすがだね。あの著作の戦神の戦略考察は、発刊されている書籍の中ではまともと言える」

「はい。戦神は敵兵の奇襲をことごとく見破ったと。それほど感覚が鋭く、だからこそ大胆な戦略が生きた」


 見上げるほどの巨躯と、持てる者がほとんどいなかった大剣。その大剣で敵を薙ぎ倒す姿は勇猛で爽快。戦神を題材にした演劇などでは、戦闘シーンの勇壮さが評価を分ける。

 大剣を易々と振り回せるほどの怪力と、恵まれた体躯こそが戦神の強さの本質とする論調の中で、「デラカルトの英雄」だけが別の論説を提唱した。

 幾つのも文献を引用して、いち早く奇襲を見抜いていた事例を提示。それを根拠として敵方の動きで先を読んでの、不敵な戦略こそが戦神の強さだと主張している。巨躯と怪力はその常人ではなしえない大胆な戦略を、可能にするおまけでしかないと。

 エイダも今まではそう思っていた。


「でも……」


 俯いたエイダに、ビリーはグラスを置くと静かに問うた。


「さて、エイダ嬢。もしもセスがヘイヴンに生まれていなかったとしたら、彼は戦場を駆け抜け戦神となり得たと思うかね?」


 エイダはまっすぐに顔を上げ、ビリーを見つめると首を振った。

 

「……いいえ」


 彼がヘイヴンに生まれなかったら、生き残れなかった。異国の血の恩恵とも言える、恵まれた体躯と驚異的な回復力をもってしても。彼は獣だったから。がむしゃらに力任せに暴れるだけの獣。

 鋭い感覚と大胆な戦略。それは戦神の強さの本質なのは間違いない。でもその本質は哀れな少年が、ヘイヴンに生まれたからこそ得たものだった。レイラと出会い、獣から人となって。

 僅かな夜風にも目を覚ますほど常に感覚を研ぎ澄まし、弱い者を見定め強い者を出し抜き糧を得る日々。その全てはレイラと共に生きる明日のために、手に入れたもの。


「戦神はヘイヴンに生きたからこそ、戦神だった」

「ふふっ。エイダ嬢。次の手記をレナルドから受け取るといい」


 穏やかに微笑むビリーに、エイダはレナルドを振り返る。レナルドは静かに頷いた。

 生まれ持った天性の素質と、絶えず研ぎ澄ませ思考を巡らせ身につけたもの。それは強さのおまけにすぎない。戦神・セスが生きる意味を見出した、あの瞬間のその存在こそが、戦神を戦神たらしめた。

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