イーリス王国記

あったかい肉

序章

ゲーラス歴 570年6月2日



嵐の様な横殴りの雨の中、ローブを纏う女性が小さな子供を抱きかかえ深い森の中を歩いていた。

風は強く暴れる魔獣のごとくローブをはためかす。辺りは日が落ち暗く、彼女の持つ燭台の明かりだけが辺りを照らしている。

遠くから落雷の音が響き、その音は徐々に近づいているようにさえ感じた。


腕の中で抱かれる子供はまだ幼く息も絶え絶えで、その命は風前の灯火の様であった。

元々体が弱い上に病を患った幼子は医者には今晩が峠だと宣告を受け、藁をも縋る思いで一人息子を抱え家から飛び出した。


―― この子の命が尽きる前に辿り着かなければ


ローブで我が子にかかる雨風を防ぎながら向かい風を必死で耐え、時折濡れた大地に足を滑らせそうになりながらも一心不乱に足を前へと進めた。


後方の家々の明かりはいつの間にか見えなくなりしばらく経った頃、突然風が弱まるのを感じた。

辺りを見回すと、不思議な事にその一帯だけ雨風がまった吹いておらず、風が穏やかに流れていた。

まるでその空間だけ切り取られ全く別の場所に存在しているようだった。

数歩背後では先ほどまで自分が歩いていた場所に相変わらず横殴りの雨が絶え間なく流れている。

摩訶不思議な光景に呆気に取られていたが、ふと正面にいつの間にか雄大な巨木が姿を現していることに気が付いた。


―― ついに辿り着いたんだ!


一瞬その大きさにあっけにとられるも一目でそこが目的の場所だと確信し、急ぎ巨木の根本へと走り寄った。

子供の様子を一瞥し命の炎が消えていないことに安堵すると燭台を足元へ置き、すぐさま腰に差した剣を抜き地面に広がる巨大な根に突き立て、剣に魔力を込めた。

栗色の髪とローブは魔力の奔流になびき、辺りを魔力で満たしながら力強い生命力が広がっていく。


「この森に住まう大樹の精霊よ!どうか私の願いを聞き入れてくれ!」


森中に響き渡る程に声を張りあげ、見えない存在に呼びかけた。

剣を突き立てる手と我が子を抱きかかえる腕に、より一層力が入る。


精霊はすぐに呼びかけに応じてくれた。

遥か上方から白い影が枝から枝へ軽やかに飛び移りながら巨木の根本へと降りてくるのが見えた。

白い影の足場となった枝は微動だにせず、まるでそれにはまったく重さというものがないようであった。

目の前まで降りてきた精霊らしきものは、瞬く間に姿を雌鹿と変え淡々とした口調で話し始めた。


「こんばんは、名も知らぬ人の娘よ。こんな大雨の夜更けにいったい何の御用かな。」


動物の姿で、まるで幼い子供の様な声で話す存在に驚きながらも、意を決して腕の中の幼子を掲げた。


「私の名はセルア・イグレット。この子、ノルジス・イグレットの母親だ。死にかけているこの子の命をどうか助けてほしい。」


切実なセルアの訴えに精霊は興味を示したのか、三歩ほどピョイと飛びセルアの傍まで歩み寄ると、腕に抱かれるノルジスをまじまじと覗き込んだ。


「これは今人里で流行っている病が原因だね。普通の人ならば自分の力で回復するところだけど、この子は生まれつき体が弱いからそれも無理そうだ。」


精霊は視線を子供からセルアに移した。


「ボクなら確かにこの子の命を助けることはできるよ、でも、それ相応の代価をもらう事になる。それでもいいかな?」

「元より覚悟の上だ。この子が人並の人生と幸せを得られるためならどんな代償でも支払おう。」


セルアは一片の迷いもない真剣な眼差しを精霊に向けた。


「わかった。じゃあ、君からは二つの代価を頂こう。一つはこの子を生き長らえさせるために君の魂の半分をこの子に与えるんだ。」


精霊はわずかに笑うように目を細め続ける。


「そして、もう一つの代価として君の魂の一部をボクがもらう。うん、君の魂はなかなかに力強くて美味しそうだね。」


セルアは初めて感情をあらわにした精霊に、まるで捕食者に狙われる小動物のような恐怖を感じ冷や汗をかいた。

しかし、同時に命すべてまで差し出す必要がないことがわかり、わずかに表情が緩んだ。


「この子が助かるのであればそれで構わない。ただし、この子を家に連れて帰るまでの力を残しておいて欲しい。」

「よし、では契約成立だ。心配しなくて良いよ。今すぐ倒れて動けなくなるまでは取らないさ。」


精霊は嬉しそうに語ると、すかさずノルジスに口元を近づけ何やらモゴモゴと動かし、ゆっくりと夜空を仰いでみせた。

するとセルアの腕からは次第にノルジスの重みが失われていった。

そのままノルジスの体は徐々に精霊の頭上まで浮かび上がるとピタリと静止した。


「では始めようか。」


その一言を合図に、キラキラと周囲の魔力が目に見えるくらいに輝きを放ち凝縮していった。その光景は星空が地上にまで降りてきたかと思うものだった。

輝きは次第にセルアとノルジスの元へ集まっていく。


「汝セルアの力強き魂をノルジスの元に。そして、ボクからは大樹の祝福も授けよう。」


セルアの集った輝きはノルジスの元へ魂の欠片を少しずつ運んでいく。

愛しい我が子に少しでも力を分け与えるため、セルアは手を掲げ掌をノルジスに向けた。

輝きが自分の体から離れていく度に、徐々に疲労感が増していくのがわかった。

段々と立っている事さえ辛くなりつつあったが、それでもその手を下げることはしなかった。


すべての輝きがノルジスに受け渡されると、セルアは初めて膝をついた。

今までに感じたことのない程の脱力感を体中に感じ、いつの間にか大量の汗をかき肩で息をする程だった。

儀式が終わるとノルジスはゆっくりとセルアの腕の中に舞い降りた。

顔色を見ると先ほどとは打って変わって血色が良くなり穏やかな寝息をたてて眠っている様子だった。


「感謝します、偉大な精霊よ。」


息子の無事を確認し、セルアは初めて穏やかな表情を浮かべ精霊に顔を向けた。


「例には及ばないよ、こちらは貰うものは貰ったし久しぶりにとても良質な魂を貰えてとても満足だ。ではこれで契約は完遂だ。」


精霊はとても満足そうな表情でセルアの傍に腰を下ろした。


「森の入り口までボクの背に乗せて行ってあげよう。今はとても気分が良いからね、特別だよ。」


機嫌の良さそうな精霊はそう言うと地面に置いた燭台を咥え、親子を背に乗せ歩き出した。

いつの間にか、嵐のような雨風は止み、辺りには静かな森の音だけが響いていた。

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