第11話・井戸

「え、な、なに……」


 何が起きたの、と言いたかったのかもしれない。しかし彼女が状況をはっきりと確認するより前に、事態は悪化していた。

 玲愛の手首を掴んだ腕が、凄まじい勢いで――彼女の体を、井戸の方に引っ張りこんだのである。


「ぐぎっ!」


 バキバキバキバキ!と勢いよくべニヤ板が割れる音がした。真織が気付いた時にはもう、板のすき間から玲愛の両足が飛び出しているような状態になっていたのである。

 どぼん、と上に乗っていた石が井戸の中に落ちるような音がした。足をばたつかせて抗おうとする玲愛。しかし、腕は二本、三本、四本と増えていき、ものすごい力で彼女を井戸の中へと引きずり込んでいく。


「んんんんんんんんんんんんん!んんんんんんんんんんんんんんんんんんん!?」

「れ、玲愛!玲愛ああああああああああああああああ!!」


 真織が我に返り、駆け寄ろうとした直後。ずるるるる、と彼女のジーパンの足が、井戸の中にひきずりこまれていったのだった。暴れた拍子に片方のサンダルが脱げ、ごろん、と真織の足元に転がる。

 ぼちゃぼちゃぼちゃ、と重たいものが水に落ちるような音がした。まさか、井戸の中は水で満たされているのだろうか。こんな場所にあって、とても水が枯れていないとは思えないのに。


「ごぼぼおぼぼおおおおおおお!おぼれ、おっ……だ、だ、だずっ……がぼおおおおっ!」

「玲愛っ!」


 慌てて井戸の中に手を突いて、中を覗き込んだ真織は見た。深い深い井戸の底の方。真っ黒な水の中に引きずり込まれていく玲愛と――その全身に絡みつく、青白い何本もの腕を。


「あ、あああ、あ……」


――やっぱり……やっぱり、いたんだ。この村の地下に、封印されてる怨霊!本当の、本当に……!


「あ、ああああ、あああ……!」


 意味を成さないうめき声が喉から漏れて溢れていく。やがて、玲愛の苦痛に満ちた顔が完全に闇の中へと消えてしまった。助けなければ。もう叱られるだとか、そんなことを気にしている余裕などない。早く人を呼んで、彼女を助けて貰わなければ。

 そう、頭ではわかっているのに、体が動かない。理解がおいつかない事態の中、完全に凍り付いてしまっている。


「!」


 ばちゃん、と大きな水音が鳴った。はっとして顔を上げた真織は見てしまった。玲愛の姿が沈み、何も見えなくなったはずの井戸の底。闇の中から、明らかに水音が聞こえてきている。ばちゃん、びちゃん、ぼちゃん、と魚でも跳ねるような音。

 いや、この状況で――跳ねているのが魚であるだなんて思うのは、あまりにも希望的観測がすぎるだろう。


「あ、ああ……っ」


 よくよく考えたら、明かりも届かない井戸の底。ものがはっきり見えるなんてこと、あるはずがないのである。

 それなのにどうして、それ、は浮かび上がっているのだろう。

 まるで仮面のような――真っ青に濡れた、子供の顔が。


「ひっ」


 濡れた黒髪が額にはりついている。おかっぱ頭のように見えるが、男なのか女のかは判別がつかなかった。ただ、やけに黒目がちの瞳が、じい、とこちらを睨みつけてくるのである。黒い水の中、ぽっかりと浮かび上がる異常な、顔。

 次の瞬間、その顔の両脇から――何本もの子供の腕が突き出して、こちらに伸びてきたのだ。


「や、やああっ!」


 今度は自分の番だ。ようやくそれに思い至った。逃げなければ、と井戸の淵から飛びのくものの、足に力が入ってくれない。どすん、とそのまま石畳の上に座り込んでしまう。お尻が痛いなんて考えている余裕はなかった。ハーフパンツが脱げそうになるのもいとわず、ずりずりと後退りするように井戸の傍から離れようとする。

 立ち上がって逃げた方が速い。わかっているのに、体がまったく言うことを聞いてくれない。理解の追いつかない恐怖に、全身ががんじがらめに縛られてしまっているかのよう。


――に、に、逃げなきゃ!逃げなきゃ、逃げ、逃げ、逃げっ……!


 腰がひけながらも、四つん這いになって出口へ向かおうとする。とろとろとしたオレンジ色の光が見える。出口まで、数十メートル程度しかないだろう。急いで走ればすぐに出られるはず。早く立ち上がらなければ、走らなければ。そしてここから、逃げて、逃げて、助けを。


「やっ」


 べちゃり、と左足首に何かが巻き付く感触。それが何なのか、なんて考える余裕はない。ずるるるるると一気に体が引きずられ始めた――井戸がある方へ。玲愛が、地下へ引きずり込まれた方へ。


「ぎゃああああああああああああああああああああっ!」


 石畳を、まるで体を削るように引っ張られる。掴まれた足首も痛いが、勢いよく擦られる頬や胸も痛くてたまらなかった。きっと酷い擦過傷になっている。だが、擦り傷ができようが顔が傷つこうが、そんなことより大事なことがあった。

 あの井戸に引きずり込まれたら終わりだ。懸命に左足首に絡みつくものを、右足で蹴った。


「やあああああ、ああああああっ!やめて、やめてえええええええええええ!」


 ぶよぶよとしたゴムを蹴っているような嫌な感触。まったく手ごたえがない。そうこうしているうちに、体が勢いよく井戸の壁面にぶつかった。そして、一瞬ふわりと浮かび上がるような感覚。ああ、井戸の中へ、体が。


「ああああああああああああああああああ!!」


 石壁を掴もうとした手が宙を掻いた。右手は僅かに石をひっかき、がりがりがり、と嫌な感触と痛みが指に伝わる。爪が剥がれたかもしれない。

 真っ暗な中を、落ちる、落ちる、落ちる、落ちる。体中を、白いぬめぬめとした手が掴み、絡みついていく。

 ぼちゃん、と水に落ちるのと、僅かな衝撃。溺れるのを少しでも遅らせようと閉じる口を、しかし数多の腕たちは許さなかった。

 ぶよぶよと水を吸って腐った指が、真織の首を上へ傾けた上、口と鼻をこじ開ける。ごぼごぼごぼ、と水が容赦なく入ってきた。鼻孔を鋭い痛みが突き差す。あっという間に口の中も汚水が流れ込み、苦い味が広がった。


――やだやだやだ、死にたくない、死にたくない死にたくない死にたくない!


 むちゃくちゃに両手を暴れさせても、手が絡みついてくるばかり。さほど大きな井戸ではなかったはずなのに、もはや石壁もぶつかることがない。どこまでもどこまでも沈んでいく。しかも明らかに綺麗な水ではない。泥と、恐らくそれだけではない濁った水。目がつんと痛み、暗い視界の中かろうじて見えたのは――あの子供の顔だったのだ。

 子供は大きな口を開けて笑っていた。楽しくてたまらない、これこそが快感だと言わんばかりに。


――なんで、どうして……あ、アタシたち、そんな、悪いことした?ねえ、なんで……。


 気管にも流れ込む汚水。全身が、死の世界へと飲み込まれていく。

 脳が窒息の苦痛と恐怖、嫌悪感でいっぱいになり弾けると同時に――ゆっくりと、真織の意識も消失していったのだった。




 ***




「……どうしよう」


 紗知は腕時計を見る。それから、部屋に飾られている時計も、スマホの時計も。

 どれを見ても時間は同じ。ホテルで予約した晩御飯の時間は八時だ。遊んだ後、先に御風呂に入ってからご飯にした方がいいだろうということで、今日のご飯の時間は遅めに設定したのである。

 紗知も少し気分が落ち着いてきたところで先に御風呂に入らせてもらった。そのあとは部屋でテレビを見たり、アプリゲームをしたりして過ごしていたのだが。

 時刻は七時五十五分。五分前になっても、玲愛と真織が戻ってこないのだ。時間にルーズな玲愛はともかく、真織が一緒ならいつもなら十分前には戻ってきてもいいはずだというのに。

 いや、そもそもお風呂に入ってからご飯を食べる予定だったのだ。本来の予定ならば、六時くらいには部屋に帰ってくることになっていたはずである。

 それなのに、紗知のLINEに連絡はない。メールも電話もだ。電波が少し不安定とはいえ、通じないわけではないというのに。


――そもそも、この村の周辺、コンビニとかもないんだし。お祭りやってるエリアを覗けば……真っ暗で、とても女の子二人で歩けるような場所じゃないのに。


 ひょっとしてどこかで迷子になっているのではないか。それもそれでありそうだ。テンションが上がるとひたすら探検に突き進んでしまう二人である。村の妖怪を封じる礎?みたいなものを探し回っていたようだし、入ってはいけない場所に入ってしまい、迷子になっているなんてこともあり得るだろう。


――探しに行った方がいいかな……やっぱり。ああ、でも部屋で待ってないと鍵がなくて困るかも……。


 悩んだ末、ひとまず紗知は部屋を出ることにしたのだった。とりあえず、フロントの人に相談しておくべきだろう、と思ったがゆえに。

 まだ頭がくらくらする。明るい部屋にいて少し落ち着いたが、それでも悪夢の余韻が残っていると感じる。本音をいうと、あまり一人でいたくもなかった。あの夢と同じように、誘拐されて殺されるのでは――なんてことを思っているわけではないのだけれど。

 二階の部屋から階段を降りていく。食事処は一階なので、ご飯を食べるにしても一階に行く必要はある。


――実は先に食事処に行って待ってる可能性とか、あるかなあ。……それだったらいいけど……あれ、でもチケットって紗知が持ってるし……。


 つらつらとそんなことを考えながら一階へ。すると丁度、食事処から出て来た女性二人組を発見した。

 あの人、と紗知は目を見開く。確か、この村の伝説について尋ねた人だ。もう一人のポニーテールの人は少し怖そうだったが、ボブカットのお姉さんはなんだか優しそうだったと思い出す。


「あ、あの……」


 こわごわと、紗知は彼女達に声をかけることにしたのだった。


「わ、私の友達……レストランにいましたか?部屋に戻ってきてないんですけど……」

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