第2話・小説
一体、いつになれば此処から出られるのだろう?
このマンションのエレベーターに閉じ込められてから、恐らく既に二時間は経過している。正直なところ、さっきからトイレに行きたくて困り果てているのだった。喉が渇くとかお腹がすくのも問題だが、それ以上に生理現象は死活問題だと言える。さっきからお腹が張ってつらい。少し体を揺するだけで、ぽこぽこと嫌な水音がしてきそうだ。
『もう、何なのよ……』
頭を抱えて、思わずぼやいていた。
『なんでよ。なんで、連絡取れないの。圏外なの。意味わかんない。ここ私のマンションじゃん。自分の家じゃん。なんで?なんで一人ぼっちでこんなところに閉じ込められなきゃいけないの?いつになったら出られるの?ずっとここで、びくびく怯えながら過ごしてなきゃいけないの……!?』
もう一度、エレベータのベルのマークがついたボタンを押してみようか。そう思って、すぐにやめた。どうせ無理に決まっている。あんなに連打しても、うんともすんとも言わなかったのだから。
それよりも部屋に物音を立てて、またガンガンと五月蝿く扉を叩かれる方が恐ろしい。一体、あの怪物は何だったのだろう?この箱は今、階と階の間に止まっているはず。それなのに、エレベーターのドアを叩けるような存在が人間だとは到底思えない。
怖い。
恐ろしい。
気持ち悪い。
それから、それから、それから。
『もう嫌ぁ……!』
このまま干からびて死ぬのか。トイレの問題だって深刻だ。最悪小はペットボトルですればいいとして、大きい方がしたくなったらどうすればいいのか。
蹲って嘆いたその時だ。とん、とドアの向こうに、何かが降り立つような音が聞こえたのである。
『ひいっ!』
聡子は思わず、座ったまま後退りした。まさかまた、おかしな現象が起きるというのか。もう勘弁してほしい。自分は、何一つ悪いことなんてしていないというのに――!
***
「……うーん」
コピー用紙に印刷された原稿。ゆっくりと文字を辿る彼女の表情は渋い。
これは駄目か、と
アドバイスをお願いした彼女――文芸部部長、
「……えっと、ごめん」
やがて、貴子は中盤程度まで読んだところで、原稿をテーブルの上に置いてしまった。首を上げたところで、紬とは違う長いポニーテールが揺れる。
「本当に言っていいの?正直な感想」
「……お願いします」
紬はぺこりと頭を下げた。
この大学の文芸部に入った最大の理由は、ここが“本格的に作家を目指す場所”であると有名だったからだ。中学生のころから、紬の夢は小説家だった。しかし、何度公募やWEBコンテストに応募しても箸にも棒にもかからず、気づけばもう大学生。このまま独りよがりで小説を書いていてもいけない、と一念発起してこの文芸部に入ることを決意したのである。
この部には、公募で成果を出している先輩が何人もいる。目の前の貴子も、書籍化こそしていないものの、とある新人賞で“佳作”に入ったことのある実力者だった。筆も早く、書けるジャンルの幅も広い。同時に、人へのアドバイスや添削も上手いときている。今回も無理言って、過去作の批評をお願いした形だった。
「最後まで、読めなかったんですよね?……読めなかった理由も含めて、教えて下さると嬉しいです。私、次の公募では……少しでも成果、出したいので」
間違いなく、厳しい意見が来る。わかっていても、紬は忌憚のない意見が欲しかった。
世の中の作家志望には、“誉め言葉だけ欲しい”なんてことを言ってしまう人も少なくない。厳しい意見を言われて、それで筆を折ってしまうのが怖いからだという。きもちは分からないでもない。でも、実際プロになったら、編集からも読者からもダメだしなんてバンバンに来て当たり前なのだ。ちょっと何かを言われたくらいで落ち込んでいるような人間では、到底プロになどなれるはずもないと思うのである。
何より、自己満足だけ積み重ねて書き続けても、いい作品が書けるようになるとは思えない。
自分は日々研鑽を重ねたくて、本気で小説家になりたくて此処に来たのだ。駄目出しが怖くては、何のために入部したのかわからないではないか。
「んー……わかった。じゃあ、正直に言うわ」
貴子は苦笑いをしつつ、語り始めた。
「まず……紬ちゃんのテーマ選びは悪くないと思ってるの。ホラーって、“読み手が怖いと思うもの”を扱わないと意味がないでしょう?紬ちゃん、自分でもエレベーターが怖いと思っていて、閉じ込められたらどうしようって怯えてるのが文章からも伝わってくる。それは、他の人にも共感されやすい感情だと思うのね。閉じ込められるとか逃げられないとか、そういうのって人間の根源的恐怖だと思うから」
「はい……ありがとうございます」
「だからエレベーターに閉じ込められるところで始まるホラーっていうのはすごくいいし、最初はあたしも読んでてわくわくしたの。このままどうなっちゃうんだろう、エレベーターの外では何が起きてるんだろうって。ただ……」
とんとん、と彼女は指で紙を叩いた。
「閉じ込められてからの展開にね、起伏がないというか。……一番最初の、ドアをバンバン叩かれるところはまあいいとして。それからが、殆ど一人でずーっと、出られなかったらどうしようって悩んでるだけ。連絡が取れなかったことや、携帯が通じなかったことを嘆いているだけ。それで気づけば話が中盤まで行ってる。つまり、次の展開が起きるまでの間が長すぎんのよ。いや、閉じ込められた人間の恐怖とか心理を描きたい気持ちはわかるけど、ちょっとそこに重きを置きすぎ。いつまでもイベントが起きないもんだから、どうしても飽きてきちゃうというか」
「うっ……」
なんとも耳が痛い。正直、その点は紬自身も“まずいかなあ”と思っていた点だったのだ。
というか、そうなった理由の一つは“文字数がうまく稼げなかったから”でもあるのである。
当たり前だが、公募やコンテストには既定の文字数や原稿枚数というものがある。文字数で言うところの、約十万文字が多くの公募で下限とされることが多いのだ(児童向けの公募等だと、もう少し文字数が少なかったりもするのだが)。
つまり、十万文字に満たないと、そもそも規定文字数外ということで選考外になってしまうことが多い。このホラー長編はとある新人賞に出して一次落選したものだったのだが――その新人賞も、大体十万文字が文字数下限だったのを覚えている。ようは、十万文字に行くように、文字数調整を行う必要があったのだ。
だから尺稼ぎをした。エレベーターを題材にしたはいいが、そこで起きる恐怖現象のネタがあまり思いつかなかったというのもある。
ホラーにだって緩急は必要だし、怖い出来事が起きてから少し間をおいて、主人公と読み手の恐怖を煽る時間があってもいいのではないかと考えたのだが――どうやら少々やりすぎてしまったということらしい。
「尺稼ぎが、バレバレ。そもそも、エレベーターの中でほとんどの話を簡潔させるならば、書き始める前に“恐怖現象のバリエーション”は考えておくべきだったんじゃない?ドアを万々叩くとか、天井を叩くとか……起きる出来事がみんな似たような感じだと、そりゃ読者も退屈してくるってなもんでしょ。実際、十万文字の全てをエレベーターで終わらせるのって、結構しんどいんじゃないかなってのが本音。しかも閉じ込められてるのが主人公一人だけってのがねえ」
貴子の言葉は、なんとも容赦がない。
「せめて、主人公がこの状況を打開しようと自分で動くようなら話も展開していくんだけど。聡子ってこの女性、ひたすら怯えて嘆いてるばっかでしょ?ホラー小説だからって、これじゃ主人公に主体性がなさすぎ。誰もに共感される主人公なんて描けるもんじゃないけど、でも共感されるような努力はもうちょっとしないと」
「す、すみません……」
「それと、やっぱり引っかかるのはこのへんの台詞かな」
ほら、と彼女が指さしたのは、とあるページの聡子の言葉だ。
『なんでよ。なんで、連絡取れないの。圏外なの。意味わかんない。ここ私のマンションじゃん。自分の家じゃん。なんで?なんで一人ぼっちでこんなところに閉じ込められなきゃいけないの?いつになったら出られるの?ずっとここで、びくびく怯えながら過ごしてなきゃいけないの……!?』
これである。
なんとなく察してしまった。聡子の鬱々とした心理や性格をわかりやすく示そうと思って入れた長台詞であったのだが――。
「台詞で全部説明しすぎ」
ずばっ、と貴子に切って捨てられた。うぐう、と思わず喉から変な声が漏れてしまう。
「ホラーって演出が大事なんだって。そりゃ、キャラの怖がってる心理描写とかもすごく重要だけど……それだけ、じゃ駄目というか。全体的に、貴女の作品は“言葉でなんでも説明しすぎ”なの。怯えている様子とかを、もう少し行動や状況で解説する努力をした方がいいというか。自分のマンションなのに閉じ込められてる、なんて今更過ぎる話をもういっぺん本人の口から言わせる必要もないしね。そりゃ、何でもはっきり言わないと伝わってるかどうか不安ーって思う気持ちも理解はするけど」
「ああ、うう……」
「聡子の外見とか性格とか、そういうことに関してももうちょっと説明がほしいかな。主人公がずーっと視点持ってるせいで難しいのはわかる。でも、それなら最悪、エレベーターの中に鏡設置するのでもいいわけよ。鏡を見て、主人公が“髪の毛ぐちゃぐちゃだ”とか、“眼鏡曇ってる”とか考えたら、それだけで容姿の説明にもなる」
「あー……」
それに、鏡があれば、エレベーターの扉を叩く以外の恐怖演出もいろいろと考えられそうだ。こんな簡単なことにも気づかないとは、と紬は頭を抱えるしかない。
「あとは、自分の腕時計を見て“骨ばった腕に不釣り合いなごつい腕時計だと自分でも思う”とか、そんなト書きを入れるとかね。……主人公視点でも、自分の容姿とか雰囲気を説明する方法っていくらでもあるわけ。過去回想のエピソードをちょこっと挟むってのもいいし。……とまあ、そんな感じかな。題材は悪くないけど料理しきれてないし、下準備も足りてない。だから下読みで落とされた、そんなところだと思うわ」
「うう……精進、します」
本当に容赦がなかった。しかし、具体的なアドバイスを貰えたことに、まずは感謝するべきだろう。題材選びは良かった、とか一応褒めて貰えた点もあるだけ有難いと思うべきだ。
「ありがとうございます、部長。……はあ」
彼女も、次の公募のために執筆を頑張っている最中だ。あまり長いこと、時間を取らせるわけにはいかない。
それでも、ついつい零さずにはいられなかった。というのも。
「どうすればいいんでしょう、私。……二か月後なんですよ、次の釜戸ホラー新人賞の締め切り……」
紬が目指す次の公募も、ホラーの長編の賞なのだ。
その新作に、まだちっとも手がつけられていない。せめて旧作の原稿を見て、実のあるアドバイスがもらえたらとっかかりになると思って今回貴子に依頼したわけなのだが。
ここまでメタメタとなると、題材から考え直さなければいけないような気がする。長編を、不自然に書けるような濃い内容。何か、面白いネタはないものだろうか。
「ネタ候補はいくつもあるんですけど、十万文字埋められる気が全然しなくって。でもって、やっぱり一人だとまた独りよがりの原稿になりそうで。……貴子部長、いいアイデアありません?」
「あんた、本当に煮えつまっちゃってんのね。顔が疲れ果ててる」
「面目ないです……」
きっと、迷惑をかけているはずだ。それなのに、目の前のアネゴ肌の部長は嫌がる様子も見せず、じゃあ、と一つ提案をしてくれたのである。
「じゃあ、夏休み……あたしと一緒に行っちゃう?ちょっと、取材旅行っぽいやつさ」
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