下から来る。

はじめアキラ

第1話・釘打

 穴を掘る。

 穴を掘る、穴を掘る、穴を掘る、穴を掘る。

 ひたすらに、ただひたすらに、ひたすらに。

 地の底に蓋をするために、悪いモノが這い出してくることのないように。

 強くなる雨脚に負けることなく、風の音にもめげることなく。ひたすら男達はスコップを振り下ろし、大地を抉り、深い深い穴を掘り続けている。


「いや、いや……」


 女はひたすら、首を横に振った。

 本当は今すぐこの場から逃げ出したい。雨でぐっしょりと濡れた髪が、着物が重たくてたまらない。暴れた時に下駄は脱げてしまったので、足は泥まみれの足袋しか履いていなかった。どうやら小石でも踏んでしまったのか、足の裏が痛くてしょうがない。確認することはできないが、きっと切れて血でも滲んでいることだろう。

 走ったら間違いなく、その傷を広げることになる。何度も転ぶかもしれない。抹茶色の着物はきっと今以上に泥まみれになって、無惨でみすぼらしい姿を晒すことになるだろう。

 それでも構わなかった。このままこの場所に居続けるよりは。この穴に――突き落とされる時を、ただ何もせずに待ち続けるよりは。


「いや、いや、いやっ……!」


 子供がわがままを言うように首を振り続ける。それしか術がないのだ。女の両腕は、逞しい男達によってがっしりと押さえつけられている。どれほど身をよじろうと、自分の痩せた腕で振り払えるはずもない。

 仮に振りほどける瞬間があったとて、すぐに捕まってしまうだろう。なんせ、村の全てが今や自分の敵だ。掟に背き、逃げ出そうとする生贄を許す者などいるはずがない。それがどれほど残酷な所業であったとしても、彼らは“受け入れろ”の一言以外を言うはずがないのだ。

 それが正しいと信じ切ってしまっているがゆえに。

 そうしなければ、“下から来るモノ”を封じきれないと思い込んでいるがゆえに。


「いい加減にしろ」


 女の右肩を抑える男が、苛立ちを隠すこともなく言う。


「既に決まったことだ。いつまで我儘と通すつもりだ」

「い、嫌です、嫌……!お願いします、お許しください。わ、わたくしは、死にたくありません……!」

「では、お前は役目を他の者に押し付けろと?なるほど、自分が助かるためならば、他の村人が死んでもいいというわけだな?」


 そんなこと言っていない。

 女は泣くながら髪を振り乱し、首を振り続ける。

 わかっているだろうに、屈強な男はせせら笑うように続けるばかりだ。


「なるほど、なるほど。そのように他人の命を顧みず、自分の身だけが可愛い人間であれば当然よな。天は見ていたというわけだ。そのような愚かしい者こそ、生贄の任に相応しいと。地の底で浄化の時を待つしかないとお考えであったというわけか」


 何でそうなるのだろう。女は恨めしい気持ちで男を睨んだ。

 誰だって死にたくない。そんなこと当たり前ではないか。しかも、存在するかどうかもわからない“悪しきもの”を封じるための生贄にされるなんて、イカレているとしか思えない。そんな役目を負いたくないと思うことの、何が罪だというのか。

 そんな偉そうなことを言うならば、お前が代わればいいと言いたい。昔から女は、この手の輩が嫌いで仕方なかった。やれ“老人が可哀想だから仕事を手伝ってやれ”だの。“老いた母に家事をやらせず、自分がもっと頑張ればいいではないか”だの。こちらが悪阻で苦しんでいるのもお構いなしに、“誰かの為に善行をしてやれ”と押し付けて悦に浸る。そういう風に人に命令するくらいなら、自分が手伝ってやればいいというのに己は何もしないのだ。

 こういうごみのような奴らがいるから、この村は何も変わらない。

 昔から、あまりにも愚かしい風習を当たり前のように繰り返し続けているのではないか。


「そろそろ良いでしょう」


 村長のしゃがれた声が響いた。深く掘られた穴の底に、一枚の板が設置される。男達が穴の中から這い出してくるのと同時に、女は底へと突き落とされた。


「きゃああああああああああああっ!」


 精々、二階から落ちる程度の高さだ。それでも固い板に肩から落下し、痛みを感じる。

 押さえつけられた手が離れた今が、唯一逃げる好機であるのかもしれない。しかし、鈍い痛みと疲労に苛まれた体は簡単に動いてはくれなかった。

 何より、すぐに穴の底に男達が降りてくるのである。彼らは手に手に縄を――そして釘と金槌を持っているのだった。あれが何に使われるのかなど、考えたくもない。


「それでは」

「御意に」


 男達の手が伸びてくる。女は悲鳴を上げて逃げようとするものの、屈強な五、六人の男達に捕まり、逃げ場のない穴の中とあってはどうすることもできなかった。

 あっという間に板に背中を押し付けられ、胴体に縄を回される。腹部をがっしりと板に固定されてしまっては、もうそこから逃げることは叶わなかった。


「それでは、両腕からお願い致します。慣例通り、右腕から。けして、失血死させることのないよう」

「御意に」


 村長の声と共に、男の手が女の右腕に伸びた。万歳をするような形で掲げられる。

 女が体を固定された板は、一般的な成人女性の体躯よりかなり長く広いものだった。女が万歳の恰好を取っても、まだ手の甲が板に触れるほどである。

 何が起きるのか、自分の角度からは見ることが叶わない。

 それでも押さえつけられた右手首に、ひやり、と冷たいものが当たるのを感じ取った。


「やめてくださいっ!」


 雨が強くなる。雨音に負けないよう、女は枯れた声で必死に訴えた。


「お願いします……お願いします、お願いします!家には、まだ、小さな子供もいるんです!わ、わたくしは……わたくしはまだ死ぬわけにはいかないんです。お願いします、後生ですから、お助けください!」


 もう何度、同じ訴えをしたことだろう。聞き届けられないのがわかっていても、叫び続けるしかなかった。何もしないのはつまり、この恐ろしい運命を受け入れることに他ならないのだから。

 しかし、無情にも儀式は進む。

 稲光と同時に、女は見てしまった。自分の手首を押さえつけた男の一人が、金槌を大きく振りかぶる様を。その目が、僅かばかりの憐憫の情も残していないことを。

 そして、凶器は勢いよく振り下ろされ――直後、右手首に激痛が走った。


「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」


 がんっ!がんっ!がんっ!がんっ!

 何度も何度も何度も金槌が振り下ろされる。そのたび右手首に食い込んでくる冷たい鉄の感触。そう、今自分は、右手を板に打ち付けられている。男が持っていた大きくてギラついた長い鉄釘によって。


「痛い痛い痛い痛い痛いいいいいいいいいいいいいいいいい!あが、が、がああああああああああああああああああああ!!」


 痛みに身をよじろうとするたび、右手首の傷が広がり、さらなる激痛を産む。骨にも干渉しているのか、痛みは頭の芯まで響いた。やがて、男の動きが止まると同時に、右手首が万歳の姿勢のまままったく動かなくなってしまう。

 じわり、と股間が湿るのがわかった。漏らしたのだとわかっても、もはや羞恥を感じる余裕などない。どうして自分がこんな目に遭わなければいけないのか。ここまで酷い殺され方をしなければいけないほどのことを、自分がしたとでもいうのか。

 ただこの村で、普通に嫁いで、普通の妻として母親として生活していた、ただそれだけだというのに。


「助けて……もうやめて……」


 涙と鼻水でぐちゃぐちゃであろう、顔。その顔にも容赦なく降り注ぐ雨水、泥水。

 それでも男達が、自分に情けをかけることなどなく。


「それでは、次は左腕。そのあとは、右足、左足の順で」


 村長の無情な言葉が続く。

 女の左腕が、右腕と同じように伸ばされた。板へと押さえつけられる。逆らいたくて暴れるものの、それは右腕の釘をより食い込ませるだけ。暴れるたび、痛みに耐えかね、歯のすき間からしゅうしゅうと細く息が漏れる。

 耐えられない。いっそ、頭をかち割って先に殺してくれれば良いものを。


「もう、いや、いたいのはいや……たすけて、たす」


 左腕に、冷たい釘の感触。

 涙で滲む視界に、都合の良い救世主が舞い降りるなどない。見えるのは、雷鳴とともに金槌を振り上げる、残酷な男たちの姿ばかり。

 女が歯を食いしばった瞬間、今度は左手首に衝撃が走った。


「いぎいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!ぎいいいいいいいいいいいいいいいい、ぎいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!」


 がん!がん!がん!がん!


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさっ……痛い痛いの、本当に痛いのっ……お願い助けて、ぎ、ぎ、ぎいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!」


 苦しい。苦しいのがさらに上乗せされるばかり。

 そのくせ、もう彼らは時間を置くことさえやめたようだ。左腕の釘を打ち終えると、今度は着物の裾を大きくまくり上げられたのだから。恐らく、下着さえ見えてしまっていることだろう。これが家の布団の上であったなら、夜這いでもかけられたと思うかもしれない。

 ああ、その方がまだマシだったと思うのは女として終わっているだろうか。

 知ってしまっているからだ――この先の手順を。泥まみれの着物の裾をまくるのは、布が邪魔だったからに他ならない。太ももを露出させることに意味があるのだ。――次の釘は、そこに打ち込むことが決まっているから。

 今度ははっきりと見えてしまう。

 恐らく、手首に打ち込んだものよりも大きな釘だ。それが、己の右太ももに押し当てられている。ちくり、と釘の先が皮膚を破り、僅かに赤い色が流れるのが見えた。漏らした尿と混じり、板の上を泥水と一緒に流れ落ちていく。

 男が再び金槌を振り上げる。ぶつり、と肉を貫通する鈍い音、感触。それはあっという間に、骨さえも打ち砕いて貫いて。


「がああああああああああああああああああああああうううううううううううううううううううううううううううううううううう!!」


 釘が傷を塞いでしまっているからなのか、存外血は流れ出してこない。それでも、骨もに打ち砕く一撃は、手首以上の苦しみをもって女を苛む。

 慣れて来たのか、金槌を振り下ろす男の手際も早くなってきた。右足が終われば、今度は左足が待っている。肉を裂き、骨を砕き、女の苦しみをさらに長引かせるばかりの拷問が続く。


「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!あああああああああ、ああああああああああああああああああああああ!」


 早く殺してくれ。もうこの苦しみから解放してくれ。

 舌でも嚙み切ればそうできるのかもしれないが、もはやその力さえ女には残っていない。むしろ、いざという時舌を噛み切ってちゃんと死ねる人間など何人いるものだろうか?

 両手両足が固定され、ついに女はその場から一切動くことができなくなった。痛みに嗚咽を漏らす女を置いて、男達が穴の上へと這い出していく。

 置いていかれるのだ、自分は。この場所に、未来永劫。下から現れるものを封じる、そのためだけに。


「では、最後の仕上げを」


 楽な終わりさえ、己には許されない。男達がスコップに持ち替えて、次々と穴に土を落としてくるのを見ながら女は目を閉じた。

 せめて早く、この意識が途絶えてしまうことを願って。そして。


――こんな村、さっさと滅んでしまえばいいのよ。


 この世界の、行く末を呪って。

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