2:誰もここに『いなくても』

 エン。あるいは、エンジュ。それがオレの名だった。幸福を呼ぶようにとの願いを込めて、その名前をつけられたらしい。だが何の皮肉か、幸福どころかオレの人生は不幸まっしぐらだった。


「エルンスト様?」


 ぶらぶらと森への道を歩いている時のことだ。片割れの名前を呼ばれ、オレは反射的に足を止める。普段なら華麗に無視するところだが、呼びかけの主はオレにとって無視できない存在だった。


「……これはこれは、アルフィナ姫。兄をお探しですか?」

「兄……ということは、あなたはエンジュですか? あらいやだ。私また間違ってしまったのね」

「ええ、またですね。いい加減、婚約者かそうでないかくらい見分けていただきたいもんです」


 真面目に皮肉を込めて返すと、目の前の少女は耳まで真っ赤になった。これオレにときめいている……わけもなく、単純に激しくお怒りになっているだけだ。


 アルフィナ姫。彼女はオレの片割れであるエルンストの婚約者である。古くから我が家と交流のある地方貴族の娘で、何代か遡るとどこかで血の繋がりがあるとかないとか。


 要するに遠い親戚でもあるわけだ。そうは言いつつも、この乙女に親愛の情が湧いたりはしない。そもそも射殺すような眼差しに親愛を覚えるのは、なかなかに変態度が高いと思われる。


「相変わらず無礼な男ね。エルンスト様とは大違い」

「まあいつものことなんでお気になさらず。てか、こんな町外れで何をしてるんだよ? こんなとこにエルがいるわけもないだろうに」


 ぐるりと見回してみても、オレと同じ顔のあいつの姿があるはずもない。だからだろうか、この世界は穏やかだ。午後の柔らかな日差しが木々の間から差し込み、地面に木漏れ日を描き出す。


 思わずぼんやりしたオレの前で、お姫さまは落ち着かなげに視線を彷徨わせる。


「それは……その、ちょっと」

「ん? なんだもじもじして。花摘みに行くなら勝手に行けよ」

「誰がそんなこと言ったのよ⁉︎ 私はその、ただ……この森に……」

「あ?」


 意味がわからないにもほどがある。というかそもそも、この女に付き合う必要はなかったような気もする。そう思うと急に馬鹿らしくなって、オレはくるりと足を回転させた。


「じゃあなー、お元気で」

「ま、待ちなさい。この状況で放置しないでよ! エン、あなた森に行くのでしょう⁉︎ 私も連れて行きなさい!」

「え、やだ知らね」

「少しは考えて返事しなさいよ! 即答って失礼でしょ!」

「だってー、どうせほっといてもついてくんでしょ?」

「それはそうですけどねぇ!」


 無意味な会話だ。するりと脇を抜け、オレはさっさと森の中へと進む。そのあとを騒がしいお姫さまがついてくるが、適当に無視して足を進めて行く。


 木々のざわめきが、耳の奥で響いている。目を細め、そっと息を吸い込む。すると少しだけ、胸の奥に凝っていた汚いものが薄らいだ気がした。


 落葉。木立を揺らす風、かすかに立ち上る湿った土の香り。足元で落ち葉が砕け、軽い音がオレの後に続くように流れて行く。


 ただそれだけの、世界。忘れてしまいたいことがあると、いつもこの道を辿っていた。それが救いになったかといえば、疑問はある。けれど、この道を辿る限り、オレの世界は静かでいられた。


「ちょっとエン! ……もう、仕方のない男!」


 雑音。騒がしく通り過ぎる声。オレの中には何も残らない。森の道を進んで行けば、次第に目の前が開ける。光差す場所。澄んだ水が流れ落ち、小さな動物たちが遊ぶその向こう側には——


「——銀葉ぎんよう


 いつものように呼びかける。風が吹き抜け、鈍色の大樹が応えるように枝を揺らす。だがそれだけだ。朽ちかけた老樹は何も語らない。かつてそこにあった姿は、失われたきり戻ることはない。


 立ち止まり、樹を見上げる。新たな芽吹きのないこの樹は、いずれ朽ちて倒れるだろう。失われるだけのわずかな時間を惜しむように、冷えた風が頰を撫でていく。


「これが、金耀樹きんようじゅ……? 枯れてしまっているじゃない」


 追いついて来たアルフィナが、小さく呟いた。隣に立った少女を見れば、何やらひどく無念そうな表情で樹を見上げている。無言でその横顔を見つめていると、お姫さまはオレを横目で睨む。


「なぁに? ジロジロと」

「いや、アルフィナ可愛いなって」

「嘘は結構よ。……私がどうしてここに来たのか気になってるの?」

「別にー。面倒ごとなら聞きたくないし」

「あなたねぇ。……その、面倒ごとではないわよ。ただ、ずっと気になっていたことがあって」


 オレが耳を塞ぐ振りをしている横で、アルフィナは何とも言えないため息をつく。らしくない様子に首をかしげると、少女は迷うように言葉を吐き出し始めた。


「昔……というほど前でもないかしら。ちょうど今くらいの時期に、ここでがあったのを覚えている?」

「……? 事件?」


 オレは耳から手を離して、髪の先を撫でた。事件。そんな物騒な話などあっただろうか。思い出そうとしても何もつかめず、オレは無言でアルフィナを見返す。


「覚えていないの? ずいぶん騒ぎになったのに」

「いや……これといって。言われたら思い出すかもしれんが……一体何だ、その事件って」


 問い返したオレに、アルフィナは眉を寄せる。その表情に、何か嫌なものを感じたのは気のせいだろう。大きくため息を吐き出して、少女はその事件を語り始める。


「事件、と言っても。誰かが傷ついたり……亡くなったわけではないの。ただこの金耀樹の前に……大量の血痕が残されていたという……ただそれだけの話」

「血痕って。それってなんかやばいやつじゃねぇのか? この森には危険な肉食獣なんていないし……もしそれが人間のものなら、誰かが血を流したってことだろ」

「そうだけど……皆で周囲を探しても、その血痕以外に『誰か』の痕跡はなかったそうなの。だからこれは、いまだに謎の事件のまま……。その『誰か』の正体をを含めて、詳細は不明」

「へえ……そりゃよくわからん話だな」


 オレは髪をいじりながら足元を見た。血痕があったなら、確かに『何か』はあったのだろう。だが血を流した『誰か』は痕跡もなく、事件はそもそも事件なのかもわからない。


 だが、その意味不明さが逆に気にかかった。オレの記憶には残っていないが、もしこの樹の前でそんなことがあったのだとしたら——は何かを見ていたはずだ。しかし、今となってはそれを確かめる術もないのだが。


「わからないから、気になるんじゃない。エンは気にならないの?」

「……それ、ずいぶん前の話なんだろ。オレ覚えてないし、気にならないかって言われても、今更どうしろってんだよ。第一、何で今になってそんなこと気にし始めたんだ? 脈絡ねぇだろ」

「それは」


 珍しく口ごもり、アルフィナはもう一度樹を見上げる。視線を追ったところで、朽ちかけた樹はオレに語りかけたりはしない。だがまだ、この樹は生きている。生きているのに。


「話しているのを聞いたの」


 ひどく辛いものを吐き出すように、アルフィナの声は揺れていた。理由の知れぬ不安を感じ、オレは少女の横顔を見つめる。今度こそ本当に嫌な予感がした。続かない言葉にオレが先を促そうとすると、細い声がその言葉を告げる。


「……この樹、あと少しで切り倒されるのですって。この森を切り開き、街を広げるために……そう、エルンスト様が」


 エルンスト。……エル。その名前にオレは、強いめまいを覚えた。あいつは——また。オレからたった一つを奪おうというのか。


「エンジュ?」

「……あの男は」


 心の奥で、青白い炎が燃え上がる。見上げてもあの声が聞こえることはなかった。すでに、ここには誰もいないのだろう。だがそれでも、オレにとってこの場所は心の『核』だった。


 ——オレには失うものなんて何もない。たとえ、それが自己満足だったとしても。


 オレはそっと、鈍色の樹に触れた。冷たく、決して何も答えないそれ。だがオレは確かに、のだ——





「またな」「ああ——またね」


 目を閉じれば、思い出せそうな気がした。輝く金色の梢、命そのものを体現するような、銀の葉のざわめきを——


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