1:朽ちていく金耀《わたし》、君の呼ぶ声

 『わたし』は、金耀樹きんようじゅ。この世界を見守る神樹だ。


 は金耀樹の化身と呼ぶべきもので、いつも幹の下で空を見上げている。鈍色をした樹には、金耀という呼び名は似つかわしくないかもしれない。


 けれどかつては——と言っても、わたし自身が記憶しているわけではないのだけど。この樹は確かに、黄金色に輝く大樹だった。しかし長い年月の間にその輝きは失われ、今では鉄くずのような鈍い色をしている。


 だからと言って、金耀樹が神樹であることには変わりない。変わりない……変わりないはず……なのだけど……。


「あ、またいた。フード被った変なやつ」

 いきなり心外な言葉をぶつけてきたのは、黒い目をした少年だ。彼はこの森のそばにある町の子供で、最近ここによくやってくる。そしてわたしを、『変なやつ』呼ばわりする失礼な子供でもあった。


「なあ、なんでそんなフード被ってんの? 変なのカッコわる」

「……、それ、わたしに言っているのかな。ずーっと気になっているのだけど」

「他に誰もいないじゃん。そんな変なの他にいないし」


 繰り返すが、耀。断じて変なのではないし、フード被った変な人間でもない。それを説明しようかと思ったけれど、少年は興味なさそうにそっぽを向く。


「それより腹減った。なんかないの?」

「あのね。一応注意しておくけれど、こんな森の中にお菓子はないよ? まさか君は、わたしに何か出せと要求しているのかな?」

「それくらいできないの役立たねーな。神さまなんだろあんた。それくらいパパッと出せないわけ」

「おいコラちょっと待ちなさい」


 聞き捨てならないセリフを聞いたような。いや、確かに聞いた。間違いなく聞いた。

 彼はわたしを神さまだと言った。それは間違いなのだが、この場合問題はそれではない。問題はこの子供が、に物品を要求しているこの状況だった。


「あのね、最初に断っておくと、わたしは神さまじゃない」

「違うの? じゃあ真面目に不審者?」

「神さまから不審者ってどんな落とし方……。そうじゃなくて、わたしは不審者でもありません」

「だったらなんなの? まさか妖精さん〜とか言わないよなぁ」


 どうしてわたしは、こんな子供にバカにされなければならないのだろうか。ひねくれた黒い目にさらされて、わたしは思わず天を仰いでしまった。本日は快晴、またとない洗濯日和……ではなくて。


「あのねぇ、からかうのは勝手だけど。わたしが何なのかわからないのに、そうやって絡んできて怖くないの?」

「べっつにー? わざわざオレをどうこうしようなんてやつ、この辺にはいないし? いざとなったら、オヤジがなんとかしてくれるもん」

「……それは世の中舐めきった発言ですねぇ」


 わたしが人の世の中どうこうというのもおかしな話だけど、この少年は大丈夫なんだろうか?


 なんとなく心配になって顔を覗き込んでみると、彼は驚いたように後退った。灰色をした髪の下で黒い目が大きく見開かれている。そんなに驚くことだろうか。首をかしげると、彼は強くわたしを睨みつけてきた。


「……何だよ、金耀樹の化身ってのは、ずいぶんと不躾なんだな」

「不躾って……そもそも君、わたしが何なのか知ってたのか」

「あったりまえじゃん。オレが何も知らずにのこのこやってきたと思ってんの?」

「いや、知らないけど」


 知らないといえば、彼は一体誰なのだろう。どうにも何か思い出せそうな気がして、もう一度少年の顔を覗き込むと、今度はものすごい早さで逃げられた。


「……一体何なの?」

「び、びっくりしたんだよ! てかもう、何なんだよあんた! ホントに人間じゃないのかよ⁉︎」

「ホントだよ。……わたしは人間じゃない」


 そっと頭上を見れば、鈍色の大樹が枝を揺らしていた。その枝には葉はなく、寒々とした空だけが広がっている。冷たい青空を見上げ、わたしは声もなく笑った。


 金耀樹、それはこの世界を見守る神樹。しかしこの樹にはもう、葉が茂ることはない。長い時を過ごし、世界を見守り続けた大樹は——。


「わたしは金耀樹。……あと幾ばくかの時とともに、朽ちていくだけの存在だ」


 わたしが笑えば、彼はまるで苦いものを噛みしめるような顔をした。その表情の理由なんて、わたしには計り知れないのだけど。こちらを見つめる瞳の色に、心のどこかがざわめいた。


「……名前」

「え?」


 不意な問いかけに、わたしは間抜けな声を出してしまった。フードの下から少年を見つめれば、彼は挑むような視線でこちらを見返してきた。


「あんたの名前だよ。……名前くらいあるんだろ」

「ないよ」


 軽く笑って告げる。そう、わたしに名前はない。『わたし』は金耀樹であり、人ではない。だから名前など、最初から存在しないのだ。


銀葉ぎんよう


 呼びかけに、わたしは顔を上げた。馴染みのない声、どこか懐かしいような呼び方。心のどこかで誰かが囁いている。——


「あんたは銀葉。……呼び名がないの面倒だし、それでいいだろ」


 そっぽを向く少年に、わたしは何を言えば良かったのだろう。失った何かが戻ってきたように、記憶が心の奥底でゆらめいている。だけどわたしはたぶん、何もわかりはしない。


「そうか」


 初めて、声を発した時のように。まるで体があると気づいた時のように。わたしはとても不思議で、とても不安な思いを抱いていた。


 何かが始まったとしても、じきに終わっていくと知るからこそ。手を伸ばしたところで、いずれ人は去っていくと、思い知ったがために。


「また、会えるなら」


 それでも結局、何かを求めてしまう。無意味な矛盾を抱いた言葉を告げてしまう。そんなわたしに気づくこともなく、彼は何でもないことのように笑った。


「ああ、今度はもっといろんな話をしよう——またな、銀葉」


 わたしは何も言わなかった。手を振り去っていく彼の小さな背中。

 それが木立に紛れて消えるまで、わたしはずっとその場に立ち尽くしていた。

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