350話 ジョージ5世陛下の人生。

1926年(昭和)向こう側の元の世界。


この作品内ではそっくりな従兄弟のおっさん国王&おっさん皇帝同盟ができて権力基盤も盤石なイギリス、ドイツ、ロシア。

外見がそっくりで血筋も近いだけあって、会えば会うほど意気投合するし、

今では親戚というより親友のようになっています。


しかも調停役として上皇陛下が混ざっているのが仲の良さを深めています。


混ざるといっても宇垣昌弘くらい。

近侍も誰もいない自由な飲み会というのは陛下達にとって何よりもくつろげる、居心地の良い場所だったようでした。



そのお1人、英国国王のジョージ5世陛下の人生を見ていくと、親ドイツ系の婚約者との結婚が賛成されなかったりしており、イギリスのウィンザー朝初代国王 (1865-1936)になったのも色濃く流れるドイツ系の欧州の血筋を否定する為だったりします。


ジョージ5世(ジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバート陛下は1865年6月3日生まれ。


ジョージ5世陛下は、当時プリンス・オブ・ウェールズだったアルバート・エドワード(後のエドワード7世)とアレクサンドラ王太子妃の第二王男子として生まれています。


1877年9月には、海軍は男児にとって最高の教育の場と考えていた父の方針によって、兄と共に海軍兵学校に入学し、練習船「ブリタニア」において教育を受けることとなりました。


この時12歳?前後です。

ユリアン・ミンツ少年より早く入隊しています。

ユリアンも15歳でスパルタニアンに乗り初陣ですが。


2人の王子が乗っていいんですかね?

例えば、盲腸になったとして手術とか

大丈夫なのでしょうか。


1879年には14歳で少尉候補生となり、兄と共に家庭教師のダルトンを同伴させたうえで、バッカント級コルベット「バッカント」に3年間乗船、西インド諸島や南アフリカ、オーストラリアなどの植民地をはじめとして、南アメリカ、地中海、エジプト、極東を訪問しています。


(うわぁ、マジかよと思ったら、日本の裕仁殿下の弟宮3人も軍人になってるな。ここまで長距離航海させてないけど。)


1881年10月にはその後同盟国となる日本を訪れ、現地の彫千代・宮崎匡に龍の入れ墨を自身の腕に入れさせたほか、11月には京都で狂言「墨塗」、「腰祈」を鑑賞しています。

ダルトンはその際の航海記を記しているが、記録によると、メルボルンとシドニーの間で伝説上の幽霊船であるフライング・ダッチマンを目撃したという都市伝説もある。


帰国後は、兄がケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに進んだのとは対照的に海軍に残っています。


その後は、1884年に中尉、1886年には大尉となり、1890年から翌1891年にかけては、砲艦「スラッシュ」の艦長になっている、、、(分類でわかるが、この船も小さい船だが大丈夫なのか?)


また、植民地を含む世界各国を訪問し続けたことから、ウィリアム4世と並んで“セイラー・キング”と呼ばれるほどの航海好きとしても知られ、射撃の名人としてもその腕を磨き続けています。


海軍軍人として、ジョージは長年叔父エディンバラ公爵アルフレッドの指揮の下にいました。


マルタに駐在した際、現地で叔父の長女マリー・オブ・エディンバラと恋に落ちて、結婚を申し込み、彼女もそれを承諾しました。


祖母ヴィクトリア女王と双方の父は、この結婚を歓迎したものの、親ドイツ的なエディンバラ公爵家を嫌ったジョージの母アレクサンドラと、イギリス嫌いのマリーの母マリア・アレクサンドロヴナがこれに反対し、最終的に婚約は破棄されることとなってしまいます。


1891年に、兄アルバートはテック公フランツの長女ヴィクトリア・メアリーと婚約したが、婚約の6週間後の1892年1月14日に兄は肺炎により薨去した。これによってジョージは、父の後に王位を継承しなければならなくなり、海軍も退役することとなった。


メアリーを将来の王妃に相応しい人物として考えていたヴィクトリア女王は、ジョージにメアリーと結婚するよう説得した。

この説得を受け入れた彼はメアリーに結婚を申し込み、彼女もこれを受け入れ、1893年7月6日にセント・ジェームズ宮殿のチャペル・ロイヤルで結婚式が執り行わる。


夫妻はノーフォークのサンドリンガム・ハウス内のヨーク・コテージにおいて、新婚生活を始めることとなったが、ジョージは両親とは対照的に、質素で静かなライフスタイルを好んだ。


そこでは狩猟と切手収集にばかり没頭していたらしい。

ジョージ5世の公式伝記作家も、ヨーク公時代に関しては著書の中で「何も書くことは無い」としている。特に、切手収集の面に関してはその筋でも名の知れた収集家であるらしい。


1901年1月22日にヴィクトリア女王が崩御したことにともない、父王太子がエドワード7世として王位を継承した。


ジョージは法定推定相続人として王位継承順位1位となる。


同年11月9日にエドワード7世は、息子に将来の国王としての役割に備えさせるべく、母から国政に関わることを禁止されていた自分とは違い、国事に関する書類に広く接する機会を設けさせた。

ジョージは妻メアリーの助言を頼りにし、メアリー自身もしばしば夫がスピーチを書くのを手助けしたことから、彼女自身も次第に国事に関わることとなっています。


1910年5月6日にエドワード7世が崩御したことにともない、「ジョージ5世」として王位継承し、翌1911年6月22日にウェストミンスター寺院で戴冠式を執り行った。日本からは東伏見宮依仁親王らが参列している。


王位に就いた直後は、内閣と貴族院の抗争問題への対処に取り組んでいます。これまで貴族にとって不利な法案には、貴族たちが法案に拒否権を発動することが常とされていたが、ジョージ5世はそれに対抗する手段として、法案通過に賛成する貴族を新たに叙爵するといった大権の発動を主張し、時のアスキス首相を支持しています。

これによって、永年職権を乱用し続けてきた貴族たちも黙らざるを得なくなり、同年には議会法が成立し、貴族院の横暴は封じられることとなったのだから偉大な功績です。


同年12月にはイギリス領インド帝国を訪問、デリーで行われた戴冠式典 (Delhi Durbar) のとき、インド皇帝として即位したことを宣言し、これに伴う形でインド人への叙勲が大々的に行われました。

戴冠式典以降も、皇帝皇后はインド各地を巡幸したが、その際もジョージ5世は趣味である狩猟に熱中し、記録に残っているだけでも、トラを21匹、キジを1000羽以上狩っている。1911年5月には、ドイツ帝国より元帥に叙せられています。


ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は従兄である。


ジョージ5世の祖父アルバートは、ドイツのザクセン=コーブルク=ゴータ家出身です。



史実ではジョージ5世は、国民の反独感情を考慮して、1917年7月17日に、ドイツ由来だったサクス=コバーグ=ゴータ家の家名を、居城に因んでウィンザー家と改称することを宣言した。


史実では1917年12月11日にジョージ5世が公表した勅許状では、王子・王女の身分と殿下の敬称は、国王の子供、国王の息子の子、プリンス・オブ・ウェールズの長男の長男に与えられるものとされました。

これに伴い、ジョージ3世の曾孫にあたるカンバーランド=テヴィオットデイル公アーネスト・オーガスタスが、イギリス王族としての身分と称号を剥奪されています。

また、ヴィクトリア女王の孫で従弟にあたるオールバニ公チャールズ・エドワードも、条件は満たしていたものの、ドイツ陸軍の将軍としてイギリスに敵対的な立場にあったことが問題視され、アーネスト・オーガスタスと同様の措置が取られました。


従兄のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、従弟のニコライ2世と仲良くしていれば2人の従兄弟が権力を失う事にはならなかったのですが、、、


こうして見るとドイツのヴィルヘルム2世陛下もイギリス王室に親近感を持っていたんだし、共存共栄の道があったと思うのですがねえ。

血筋が近く顔も似ててそっくりな従兄弟同士なんだからさ。と思ってしまうのだが。


第一次世界大戦みたいな戦争をするのは欧州人の血ですかねえ。


ちょっと書き過ぎてしまいましたが、

意外と知らないジョージ国王陛下のエピソードは書く価値があると思って紹介しました。


このジョージ5世がいて、次の国王の時にあの結婚エピソードがあると知ると

歴史は続くんだなと思いますよねえ。


王位より結婚を選んだエピソードです。

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