第37話 高速アルプス一万尺

「無事帰還」


「危なかったです」


 スーパーで危機的状況に陥った僕と芽衣莉ちゃんは、アパートに着くと二人でぐったりとしてしまった。


「どしたの?」


 梨歌ちゃんが不思議そうな顔でお出迎えしてくれた。


「ただいま。ちょっと危ないことがあってね」


「まさかまたアレが来たの?」


「話しかけられたけど、別の理由」


 そういえばそんなこともあったけど、そんなことを忘れるぐらいに大変な誘惑があった。


「いつものスーパーできゅうりが安かったの」


「……それで?」


「ん? だから、きゅうりが安かったの」


「……それだけ?」


 僕は頷いて答える。


「梨歌ちゃん。私達のお家は控えめに言っても貧乏です」


「否定ができないからしないけど、もう少し控えめに言いなさいよ」


「じゃあ言い方を変えて、流歌さんがやりくりを頑張ってます」


「うん」


「私と篠崎さんは流歌さんに一週間分の食費を渡されて、それでお買い物をしています」


 余らせるようにはしているけど、一週間分の食料や切れた日用品を一度に買って、残ったのは宇野さんに返している。


「そして今回はイレギュラーでお買い物に行きました。そしたらそこで安売りがされてました。買いたくなるじゃないですか」


「安いならね」


「でも、そうしたらせっかく抑えた費用が減るじゃないですか。だから私と篠崎さんは買いたい気持ちを押し殺して欲しいものだけを買ってきたんです」


「……お疲れ様?」


 梨歌ちゃんには上手く伝わらなかったようだけど、安いからと言って買ってしまうといつも買わないものまで買って、逆にいつもより費用が増えてしまう。


 だから僕と芽衣莉ちゃんは、買い物は一週間で一度だけにしている。


 スーパーにもその一度しか立ち寄らない。


「安売りの誘惑は最強だからね」


「恐ろしいです」


「よくわかんないけど、お疲れ様」


 とりあえず手洗いうがいを済ましてから買ったものを冷蔵庫にしまった。


 そして芽衣莉ちゃんと一緒に腰を下ろした時にふと思い出したことがあった。


「そういえば敬語やめてないじゃん」


「あぁ……、色々あって忘れてましたね」


「ん、めいめいついに敬語卒業?」


 悠莉歌ちゃんと高速アルプス一万尺をしていた鏡莉ちゃんが、手は動かしながらこちらに顔を向けてきた。


「普通にすごかったのが、もっとすごくなった」


「あの二人は速いんですよね。私だとついていくのがやっとで」


 ついていけるだけですごいとは思うけど。


「ちなみに姉さんは不器用だからできないよ」


 梨歌ちゃんは梨歌ちゃんで、足を広げて床に身体をぺったりつけながらそう言う。


「梨歌ちゃんもすごいよね」


「別にこんなの毎日やってれば誰でもできるでしょ」


「誰でもかはわからないけど、毎日続けるのがすごいんだよ」


「やることないからね」


 宇野家の娯楽と言えば、隣の鏡莉ちゃんの部屋にあるパソコンぐらいだ。


 あれは鏡莉ちゃん専用のようで、晩ご飯を食べた後に鏡莉ちゃんが一人か僕を連れて遊んでいる。


「それよりめいめいの敬語は?」


「あ、そうだった。敬語やめよ」


「いきなりは無理なんですって」


 そうは言ってもアパートを出て少ししたところで敬語ではなく、昔のめいちゃんになっていた。


 だからやろうと思えばできるはずだ。


「芽衣莉ちゃんならできるよ」


「そうそう、めいめいならでき──」


「勝ったー」


 どうやら高速アルプス一万尺は、よそ見をしていた鏡莉ちゃんが負けたらしい。


「めいめいのタメ口が気になりすぎた……」


「言い訳はいいの。我慢したゆりかの勝ちだから、罰ゲームだよ」


 悠莉歌ちゃんがニマニマとした顔で鏡莉ちゃんを見る。


「さすがに寒いんだけどなぁ」


 鏡莉ちゃんはそう言って立ち上がり、僕の方に歩いてきた。


 そして僕の目の前に来ると、おもむろに着ていたパーカーを脱ぎ始めた。


「鏡莉!」


「さっきのね、アルプス一万尺(野球拳要素もあるよ!)だから」


 だから負けた方が一枚脱いでいるらしい。


「それっていつから始めてたの?」


「なっつんとめいめいが出てってすぐ」


 僕と芽衣莉ちゃんがアパートを出てから確実に三十分は経っている。


 その間ずっとアルプス一万尺を続けていたらしい。


 しかも高速で。


「ちょっと腕が疲れた」


 鏡莉ちゃんはそう言ってパーカーを僕に投げて渡した。


「現役JS(元有名子役)の脱ぎたてパーカーだよ。さすがに人前だから匂いを嗅ぐまでしか駄目だからね」


 芽衣莉ちゃんがウインクをしながらそう言った。


「匂いを嗅ぐのも駄目!」


 芽衣莉ちゃんが頬を膨らませながら両手を僕に向けてきた。


「渡すってこと?」


「早く。変態が移るから」


「移らないよ? ちょっと待ってね」


 僕はパーカーを丁寧に畳んでから芽衣莉ちゃんに渡した。


「律儀な」


「渡されたしね」


 芽衣莉ちゃんには服の畳み方を教えていないから、シワにならないように畳んでから渡した。


「ねぇゆり」


「きょうりお姉ちゃん敗北」


「でも負けた気がしない」


 鏡莉ちゃんが両手で自分を抱いて少し震えながら嬉しそうにしている。


「寒いの?」


「少しね。さすがに十一月も近いと寒いね」


 僕は立ち上がり鏡莉ちゃんに制服のブレザーを羽織らせた。


「……やば、なっつんイケメンかよ」


「悠莉歌ちゃん、これならいいの?」


「お兄ちゃんって律儀すぎだよね。普通はまず脱がせた服を着させたら駄目なのか聞くのに」


「いいの?」


「まぁ駄目なんだけどね」


 悠莉歌ちゃんならそう言うと思ったから、僕の制服を着させることにした。


「脱いだ服を着てる訳じゃないからね」


「今日はいい日だ。めいめいのタメ口を聞けただけでなく、なっつんの制服を着れるなんて」


 鏡莉ちゃんが僕のブレザーを引き寄せて「あったかい」と頬を赤く染めながら言った。


「逆に暑い?」


「心がね。それと姉からの嫉妬の視線も熱い」


 鏡莉ちゃんがそう言うと、じっと見ていた梨歌ちゃんが柔軟に戻り、芽衣莉ちゃんがジト目を僕に向けていた。


「鏡莉」


「な、なに?」


「私ともやろ」


 芽衣莉ちゃんが真剣な表情で鏡莉ちゃんの方に身体を向けた。


「勝っても私はなっつんの制服は脱がないよ?」


「鏡莉の服は無限じゃないでしょ?」


「強気じゃん。私に勝ったことないのに」


 鏡莉ちゃんは楽しそうに芽衣莉ちゃんの向かいに座った。


「あ、それともわざと負けてなっつんの服を脱がそうとしてる?」


「……そんな訳ないでしょ?」


「いや、間があったよ」


「それもいいなって思っただけだし。でも平気、全裸に剥いてあげるから」


「負けたら恥ずかしいよ?」


「その時は篠崎さんにあっためてもらうからいいの」


 芽衣莉ちゃんが僕の方をちらっと見て、顔を真っ赤にして俯いた。


「……ずるいな。勝っても負けても駄目じゃん」


 鏡莉ちゃんがため息をつき「ならやることは一つ」と言って真剣な眼差しになった。


「怖いから僕は離れてていい?」


「いいよ」


「私の勇姿は見ててね」


 鏡莉ちゃんと芽衣莉ちゃんの許しを得たので僕は梨歌ちゃんと悠莉歌ちゃんが居る方に移った。


「なんで二人して私のとこに来んのさ」


「お兄ちゃんなら来ると思ったから」


「二人が居たから?」


「……別にいいけどさ」


 梨歌ちゃんはそう言うと柔軟をやめて芽衣莉ちゃんと鏡莉ちゃんの方を向いて座った。


「このルールってさ、同時に間違えたらどうなるの?」


「お互い脱ぐ」


「着てる服の数で言ったら、芽衣莉の方が多いから、ずっと同時に間違えたら負けるのは鏡莉になるね」


 確かに、買い物に行っていた芽衣莉ちゃんは靴下を履いているけど、鏡莉ちゃんは履いていない。


 他は同じだろうから芽衣莉ちゃんの方が有利ではある。


「ちなみに靴下は一回で両方脱ぐから、めいりお姉ちゃんの有利は二回分かな」


「靴下以外にあるの?」


「鏡莉はまだ小学生だから付けてないんだよ」


「なにを?」


「外野がうるさくて集中できないんだけど。それに私は周りに比べたらあるし、梨歌と違って成長中だし、何よりめいめいを超える逸材だし」


 鏡莉ちゃんがとても早口でなにかを説明する。


「私だってまだ成長中だし。止まってんのは姉さんだけだから」


 なんだかわからないけど、宇野さんがとばっちりを受けた気がする。


「持たざる者の嫉妬がすごい」


『うるさい』


 悠莉歌ちゃんの言葉に梨歌ちゃんと鏡莉ちゃんがハモって叫ぶ。


「いいから始めるよ。その貧相な身体を篠崎さんに晒す準備はできた?」


 芽衣莉ちゃんが無表情で鏡莉ちゃんを睨む。


「絶対泣かす。無駄な贅肉晒してなっつんから気まずい視線を受け続けさせる」


 鏡莉ちゃんがブレザーに手を通して芽衣莉ちゃんを睨む。


 そうして二人の謎の戦いが始まった。

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