lost answer

結井 凜香

第1話 問題提起

世界が爆発でもしない限り、何も変わらないんじゃないか?


だって・・・。


この世の中の日々なんて、淡々とこなすだけ。面白いこともないし、何もかもがダルい。

スマホのアプリや動画も、同じようなネタの繰り返しで、結末はだいたい予測つくからつまらない。うるさいだけ。

毎日が退屈で、勉強だって、遊びだって何もやる気しない。ロボットのように言われたことだけやって、ベルトコンベアーのように曜日が過ぎていく。

刺激がなくて、何でも決まっている、決められている。



俺は、岐阜県内にある工業高校機械科2年生。

まあ、それなりに遊んだり勉強したり、実習なんかもやってるけど、ワケが分からない。


こんな機械設計なんて物理とやってること変わらないじゃん、何で設計って題して別個で勉強しなきゃいけないの?

とか今日も放課後、駅のバス停で友達と愚痴ってた。

あと、旋盤使ってる会社なんて今どきないだろ。なんでこんな危ない、怖い思いして、しんどい思いしてやんなきゃいけないんだよ。

実社会に必要ねーだろ。とも。

本当、なんのために勉強しているんだろう。

つまんねー、だりいー、もう学校サボっちゃおうかな…。サボるか。とか言いながら。


本当に勉強する意味、てか楽しいこともないのに生きてる意味さえも見いだせなくなている。

こんな田舎なんだか都会なんだか中途半端な街で、気持ちまで中途半端になる。

今日もつまらない一日だった。

と思いながら、家のドアを開けた。

いつも通り、2階の自分の部屋に向かう。

さて…暇だからゲームかTwitterでもやろうかな。漫画でも読もうかな。

と思いながら部屋のドアを開けた、その時だった。

え…、はぁ?誰だコイツ?!

ダークグレーの短髪にメガネ。

濃紺の半袖作業服に、ダークグレーのワーカーキャップ。

スラリと高い背、ほっそりした体格。


何か見たことあるかも。


こんばんは。男が挨拶した。聞き覚えのあるバリトンの声。


こんばん、は。

え、嘘。でも、こいつは確か…、でも、えっ?俺と接触あったか?

あったか。


お久しぶりですねえ、黒川。

帽子の下から含み笑いされた。はっきり言って不気味。

誰?

お忘れですか?昨年あなたを実習でお世話した、伊丹と申します。

突然現れて申し訳ありません。

う、あ、はい。

…い、伊丹?そんな先生いたっけ?

いたとしても、なぜ俺に会いに来たの?俺はそんなに成績優秀なわけでもないし、部活だってやっていない。

色んな疑問が湧いてくる。

黒川。と伊丹は言った。

今日私があなたに会いに来たのは、残念なお知らせを告げねばならないからです。

さも残念そうな顔をして、伊丹は言った。

残念なお知らせ?何それ?

あなたは、あと24時間後にお友達から忘れ去られます。

つまり、あなたのお友達からあなたに関する記憶が全て抜け落ちてしまいます。

は、何なのこの展開…?

え、どういうこと?俺、何もしてないじゃん…。

何もしてないからですよ。学校で怠惰に溢れ、何事にも消極的だからです。


その割には罪が重すぎないか?


ですから、あなたに慈悲として猶予を与えます。

ただし、猶予を与えるには条件があります。


何?


これからしばらくの期間、課題を出します。それをクリアするごとに猶予が与えられ、最後までクリアすれば罪は放免。

記憶が奪われることはありません。

課題は合計6つ出題します。

ただし、諦めたりサボったりすれば、24時間後にお友達は皆あなたの記憶を失います。

やられますか?課題を。


課題って、どんな?

それは教えられません。とにかく課題をやられるのか、やらないのか。どうされますか?


友達が自分の記憶を失う。それって結構辛いよな。

話しかけても答えてくれない。話しかけても、誰?って言われて思い出も冷たく壊されて。

だって覚えてないんだもん。それって酷いよな。

考えただけでゾワッとする。友達に忘れられて独りでいるって、それは嫌だ。


どうされます?

ぼっちになるくらいなら、やる。

やられるのですね。

はい。

分かりました。では、1つ目の課題です。


どんな課題だろう。何かを探して持ってくるとか?

何かをやめるとか?冒険みたいでワクワクする。


機械設計の授業を真面目に受けて、テストで8割を目指しましょう。

は?

機械設計?あの物理みたいな訳のわからないやつ?

ぶっちゃけ、いつ使うの?って思うとやってられないよ。さっきも話してたけど…。

いやいや…設計は機械科にとってとても大切な学問です。

旋盤が機械実習の花形というなら、機械設計は機械科座学の花形です。

物理とかぶるのは、そもそも工学が数ある学問の中でどのようにして生まれたのか、というところに由来します。

教科書はありますか?あ、あります。

俺はリュックから機械設計の教科書を取り出し、伊丹に手渡した。

そもそも工学、とは。自然現象、つまり科学を使って社会に貢献するために生まれた学問です。

ことのほか機械工学とは物理現象や化学現象を使って工学自体に貢献する礎の学問です。

小さなねじ1本だって馬鹿にはできません。この中にはすでに、化学と物理が詰まっているのですから。

そうなの?

ええ、そうですとも。

ねじが締まるということは、このとき周りとの摩擦がありますね?

そしてスパナでねじを締めるということは、このときのスパナにかかるモーメントやトルクについて考えねばなりません。

そしてそれに耐えうるようなねじの設計をせねばならない。そうとなれば、ねじの材質ですよね。

ねじが使われる環境にもよりますが、例えばステンレス。

ステンレスは鋼の一種ですが、あれはクロムが混ざっています。クロムの含有量が増えれば緻密な酸化膜が作られ、それによって酸化や腐食に強くなる。化学反応ではないか。ほら、物理も化学も網羅しているでしょう?

ごめん、何言ってんのか全然分からない。

どこからつまづきましたか?

モーメント。まあ、モーメントから?それではやっていけないわねえ。

なんで急にオネエなの。

モーメントというのは…。伊丹はまた教科書をめくる。

てこのことです。てこ?それってあの力点支点作用点とかいうやつ?

そうです。というと伊丹は作業着の袖ポケットからシャープペンシルを出した。

こうやってシャープペンシルの一点を持ち、片方に力を加えると動くでしょう?理学的にはこれを回転といいますが…。このモーメントは、機械のすべてを支える大事なものです。例えば、飛行機が旋回するとき、主軸に回転する力が加わります。主軸は、この回転する力に耐えながら長持ちしなければならない。そのためには主軸にかかる力がなるべく小さいながらも主軸を通して周りの部品にかかる力は大きくなければならない。また、主軸の形を変えるだけで荷重のかかり方も違ってくる。耐久性、他の部品との連携、そしてコスト。たかがモーメント、されどモーメントです。それを疎かにされては、何も身に付かない。何のための機械設計であり、何のためのモーメントかよく考えなさい。

そんなこと、教えてもらってないよ。いいえ、教えられたと思いますよ。彼女なら。

せ、せつなが?

せつな、とは俺たちの機械設計の担当教員だ。男ばかりのムサい機械科で唯一の女性教員。

フルネームは牧口せつな。茶髪のゆるふわパーマにブレザーっぽい出で立ち。ブラウスはちょっとチャラい。

夏だとチャラいブラウスにハーフパンツやスカートを合わせて清楚系ギャルを思わせる。

実際口調もギャルっぽくて、渋谷のギャルと変わりない気がする。そんなギャルが機械系の知識を持って設計だなんて。混沌としているが事実だ。

あんなガサツギャルがそんなこと言うか?ええ、おっしゃいますとも。牧口先生は物の本質を捉え、それをもとに授業展開をなされますから。彼女は物の原理、法則、物がもたらす意味を教えなければ授業ではないとお考えですから。

めっちゃリケジョやん。ええ、彼女はもともと理学部の数学科志望だったのでそういうものには深く強く当たっておりました。人は見かけによりませんよ。

へえ…。俺はそう相槌を打つしかできなかった。

では、黒川。今度の中間試験での結果をお待ちしております。頼みますよ。

頼むって言われても…。諦めるのですか?やると仰られたのに。い、いや…。俺はたじろいだ。だって、急に勉強してない教科で8割って、無理すぎやろ。必ずできる保証なんかないよ。だから諦めるのですか?だからやらないのですか?伊丹は俺に喰ってかかる。い、いや俺は保証ができな、それで逃げようというのですか、臆病者!俺が話し終わる前に伊丹は怒鳴った。バリトンの声が高く、強く部屋中に響いた。怖すぎて寒気がした。

何だよこいつ。見た感じ頬が痩けて体もガリガリなのに背は高くてヒョロっとして、肌白くて病弱な感じなのに、目はギラギラしていて、化物かよ。

先程、あなたはこの課題をやると仰られました。そして、中間試験まではまだ3週間も時間があるのに、すでに保証ができないと言って諦めようとしている。それでは、あなたはあなたの友達がどうなっても良いということですね?!伊丹は俺に顔を近づけた。相変わらず目はギラギラしていて怖い。友達を人質にそこまでして俺に設計やらせるって何なの一体。あなたには危機感がないのですか?危機感?近すぎる先生から後退りした。よく考えなさい。今あなたは友達を失いかけているんですよ?友達を失うなんて、学生時代にこれほど悲しいことがありますか?つらい時に愚痴る相手はいません。すべて不満は自分一人で抱え込まねばならない。本当は共感してほしい正論が、誰にも受け入れられない。あとは…というと先生は考え込んだ。そして口を開いた。なにか嬉しいことがあった時も、喜びを分かち合える人がいない。祝福してくれる人がいない。一緒に遊びたくても誰も遊んでくれない。先生に聞けないことがあっても気軽に聞ける人がいない。

何なら…LINEで話をしたり何らかの情報をもらうことができず、一人だけクラスであぶれて、本来なら防げた忘れ物をしてしまって理不尽に叱られる。Twitterのフォロワーが消える。如何でしょうか?ここまで一気に話すと、伊丹は、ふう、と満足げに息をついた。一通り思いつくことを吐き出してスッキリしたみたい。清々しそうな表情をしている。

でも…。

ごめん、俺、実感持てないんだ。だって、Twitterのフォロワーなんていなくなったってリア友じゃない人もいるから問題ないし、LINEなんて、やる友達は言うて限られてるし、やるのだって毎日じゃない。それに、今いる友達だってずっと友達かと言われれば、その保証もないんだよ。

寂しい方ですね、あなたは。そうかな?一人でも誰か、そういう友達がいらっしゃらないんですか?いなくなったら困るような友達が。

いないな。俺は即答した。独りでもいいって思うときもある。何か、いないんだ。そういういなくなったら困る人も、ものもない。

じゃあ、スマホは?あ、それはヤバイかも。ならば、課題をやらなければスマホを取り上げたって良いのですよ。あなたが本当にスマホが大事で、ご自身の伴侶のように思われているなら。流石にそこまで言われると、そりゃあないよ。大袈裟だよ。それに、そんなの親と同じじゃん。危機感を持つ以前にやり慣れてるよ。ありがちだもん。

私が言う、スマホを取り上げると言うのは、あなたが見えている世界からスマホを取り上げることなんですがねえ。てことは、俺以外もみんな?

ええ、そうですよ。このスマホが無いと生きられない世の中、ネットが使えなかったらさぞ不便になると思います。困ったときにすぐ検索、なんて、できませんよ?

暇つぶしもできないし、ゲームも…。ええ。それ嫌だよ。でしょう?それを今あなたが付き合っている友達に置き換えてごらんなさい。例え毎日付き合いがなかったとしても、忘れられて独りぼっちになることがどれだけ悲しくつらいことか。課題実践まで1日猶予を与えます。課題実践の前の課題です。明日学校で、友達の重要性をしっかりと感じてきなさい。また明日、伺いますから。え?明日も来るの?ええ、また来ます。母さんにはこのこと話してある?いいえ、話してはおりません。なぜなら今見えている私は、お母様には見えませんからね。え?何それ、何だよマジ?幽霊?と俺が言った瞬間、フッと伊丹は消えた。バサッと機械設計の教科書が床に落ちた。

何だよ、あれ。俺って霊感あったかな?教科書を拾って、勉強机に置いた。勉強机に備え付けてある椅子に座って、大きく息をついた。

学校で怠惰に溢れ、何事にも消極的だから、課題を課す。課題をやらなければ俺の友達が俺の記憶を無くす。要は、その場にいるのにいないものと見なされて独りぼっちになる。友達ってそんなに大事?気に入らないツイートをするフォロワーは、すぐブロックして存在を消せるようなこの人間関係が希薄なこの世界に、そんな課題いるの?

生きることさえしんどいこの環境に変化球ぶっこむあの化物、一体何を考えているんだろう。マジで訳分かんない。俺は机に突っ伏して落ち込んだ。


翌日も淡々と学校へ行った。相変わらず学校はめんどくさい。楽しいことなんてないし、授業は楽しくない。学校から見える景色もいつもと変わらない。

俺の学校は、学校近くに科学館や公園があるけどそんなに大きなところじゃないし、小さい子ども向けのところだから俺にはつまらない。あと、学校の近くには小さな会社や工場が建っている。でも、地味で何も面白みのない、中途半端な田舎の景色だった。

友達の重要性を感じること、が今日の課題。重要性って何?

朝から2時間、つまらない授業が終わると、ふう、とため息を吐いて机に突っ伏した。あー早く帰りたい。家で漫画読んだり動画見たりしてダラダラしてたい…。と思って目を閉じたときだった。誰かが俺の頭を叩いた。

「おい黒川、次の授業、実習だぞ。早く着替えないと点呼に遅れるぞ?」…えっ?俺は声がした方を見た。ふと前に貼られている時間割表に目をやると。

うわやばっ!!次実習じゃねえか!!やべえ早く着替えて点呼場所に行かないと、点呼に遅刻したら先生にキレられる!!

俺のクラスの実習点呼の先生は、めっちゃ厳しいことで有名だ。実習点呼に遅刻したらブチギレて出席簿を地面に叩きつけて暴れるので、マジで怖い。

大急ぎで作業着に着替えて、荷物を持って、ダッシュで教室を出た瞬間だった。あ、実習の教科書持ってくるの忘れた!!でも腕時計を見ると、もうチャイムが鳴りそうで、マジで走らないと間に合わないレベルのまずさだった。でも今日の実習はマシニングセンタ…。教科書にはマシニングセンタのシミュレーションに必要なコードがたくさん書いてある。それを見ながらじゃないと実習できない…。どうしよう。と思った時だった。

「おい黒川、行くぞ!東崎にキレられるぞ!」誰かがパニクる俺の腕を引っ張ろうとした。いや、待ってくれ。教科書忘れちゃって…。

「はあ?そんなの俺が貸してやるって。俺今日はフライス盤加工だから教科書いらねーんだよ」ポン、と教科書を出された。

「行こうぜ、マジでダッシュな」あ、あ、と俺が言葉を発しようとした瞬間、チャイムが鳴った。やば!!!俺たちは一目散に点呼場所に向かった。

何とか間に合って、何事もなかったかのように俺は点呼の列に入った。「脱帽。気をつけ、礼」全力疾走してバクバク荒れ狂う心臓の鼓動をこっそり手でかばいながら、俺は作業帽を取って礼をした。「番号」と点呼係が言った。1,2,3,4・・・・リズミカルに出席番号が述べられる。何とかリズムに乗って、冷静に俺は番号を言えた。ダッシュでチャイムにギリダッシュチャレンジなんてしたのがバレたら、先生になんて言われるかわからない。ほんっと、危なかった・・・。まだ息が苦しいのを我慢しながら後に続く奴らが番号を言い終わるのを待った。やがて、やすめ。はい、じゃあ今日も実習ですね。怪我の無いように東崎の短い話。そして点呼は、気をつけ、礼。お願いします。という全体挨拶で終わった。お願いします。最後までダッシュしてきたのをひた隠せた。良かった。俺はやっとここで呼吸を整えられた。あとは実習か。4時間。長いけど。ふう、と一息ついて、俺はマシニングセンタの実習室へ向かった。

・・・そういやさっき、俺に教科書貸してくれたの、誰?誰なんだろう?確か、教科書の裏表紙に名前を書くことが実習のルールだったから、教科書の裏見れば誰か分かるよな。あとでお礼に何かお菓子とかジュースでも奢るか。そう思って教科書の裏表紙を見た。・・・え?何で?まじ?急がなきゃいけないのに、俺は廊下で立ちすくんだ。

だってその教科書には、名前が無かったから。先生が使っている、教科書に特別なマークもシールもない。まっさらな、教科書だった。

誰だ、俺に教科書貸してくれたの・・・?廊下に独り立ちすくんでいても、他に誰もそこにはいなかった。


マシニングセンタ実習をやっているのは、せつなだった。いや、本当は東崎とせつなというペアで行われるんだけど、今日は東崎が途中から出張が入るらしく、せつなが単独でやることになったらしい。いつもは東崎が、お前らさあやれーと言って、自習のように自分のペースでマシニングセンタという大型の工作機械を動かすためのプログラムをデスクトップに打ち込み、そのプログラムが作りたいものを本当に作っているプログラムなのかチェックして修正する、という課題を、何個かこなすというものだが、せつな単独ではどうだろうか。俺はプログラムをデスクトップの画面に打ちながら、目だけでせつなの動きを追った。青みがかかった濃いグレーの上下作業着に、長い茶色の髪をサイドポニーにして、いかにも女性技術者って感じがする。でも上着は正直女が着るにはサイズが合っていなくて、ちょっとブカブカなのが動きづらそうにも見える。

でもせつなはそんなのに構うことなく、作業に行き詰まったらしい奴と何か話していた。デスクトップの画面を真剣に見つめ、そしてまた話し、またデスクトップを見る。

そしてどこかにミスを見つけたらしい。画面を指さして何か言ってる。へえ、普通に真面目にやってんじゃん。取り乱してパニックになるかと思ったけど、そうでもないか。それなら俺も・・・。と作業に戻ってコードの意味をまとめてある資料に手を伸ばそうとした時。

「せっちゃーん」「何?颯太」とせつな。せっちゃん、黒川がめっちゃ熱い視線を浴びせてたよ颯太と呼ばれた奴はクスクス笑いながら俺を指さした。そいつは、久屋颯太(くやそうた)という。クラスでもお調子者のチャラ男で有名だ。そして、せつなにアツい男でもあった。機械設計の授業で、初めてせつなが目の前に現れたときに一目惚れしたらしい。以来、何かとアプローチしようと頑張っている男でもあった。うわ、颯太にライバル宣言か?颯太の横に座っていた、坊主頭に黒の縁付きメガネが映える桜山剛(さくらやまつよし)がくすっと笑う。はあ?!そんなわけないだろ、ふざけんな!俺はムカついて剛に怒った。途端に周りにいる奴らがどっと笑った。

いや、だってずっとせつなのこと見てただろ。やっぱり気になるのか?と颯太が聞く。ならねえよ、こんなギャルちょっと教員に向かってギャルはないよとせつなが困ったように言った。どこから見たってギャルだろ。ギャーギャーうるせえし。渋谷とか原宿ほっつき歩いてたんじゃないの?さすがに東京はないよ。アタシは愛知県内の学校しか出てないし。栄とか名駅なら行くけど・・・。え、それって彼氏と?颯太がせつなに聞く。ううん、単独。じゃあ、今度の土日、俺もちょうど栄行くし、せっちゃん探してみよーっと。ちょっとやめてよ、アタシ特定したって何もないよ。えー何かスイーツとかおごってよやめてよ、アタシだって安月給であんたたちの面倒見てるんだから。給料くらい好きに使わせてよ。また実習室に笑いが起こる。せつな、給料いくらなの?颯太の話題がそっちに逸れたので、俺は何とか颯太からの尋問から免れた。ふう、危なかった。変な噂立てられたら、たまったもんじゃない。機械科全体に広まって、面倒なことになる。気を取り直して課題に目を通そうとした時、ふと自分の作業帽が目に入った。邪魔だし、どけとくか。俺は作業帽を机の中にしまおうと思って作業帽を手に取った、その時、また俺は目を疑った。というのも、この作業帽には俺の名前が刺繍されていなかったからだ。普通、実習で被る作業帽には、自分の名字が刺繍されている。でもその作業帽には名前の刺繍自体がなかった。でも、それ以外は颯太や剛と全く同じものだ。濃い青いワーカーキャップには黒で校章がプリントされていた。でも、名前が刺繍されていない。あれ?俺の帽子は?確かに急ぎはしていたけど、帽子は着替える時に被ったはず・・・?急ぎすぎてて記憶がおぼろげだ。それか、まさか、本当に伊丹によって、俺は友達から忘れられたのか?でもさっき普通に会話はできた。ってことは、うーん・・・。課題なんか手につかなくなってきた。目の前で起こっている不可思議なことを解決するほうが俺の課題に見えてきた。まったく、困ったもんだ。


目の前で起こっている不可思議なことを考えたいのをぐっとこらえて、意識を必死に課題に集中させて、やがて実習の終わりの時間が来た。

実習室にかかっているホワイトボードの前で、おつかれさま。今日はこの辺にしておこうか。とせつなが言うと、みんなであいさつをして、今日の実習は閉じた。そして、みんなは荷物を持って、着替えに教室に向かい始めた。俺も向かおうかなと思って、教科書やら筆記用具やらをまとめて席を立とうとしたときだった。あ、黒川。せつなが俺を呼んだ。ちょっといい?えっ?俺はドキッとした。ま、まさかさっきのことか?俺が本当にせつなのこと気にしてることに対するお咎めか?こいつ、まじで本気にしてるの?そうだったらこいつは本当の・・・。ホワイトボード消すの、今日あんたが当番だから。できそう?この後何も用事とかない?せつなが言った。ああ何だ、そんなことか。俺はほっと一安心して、ホワイトボードの前にせつなと立った。いいよ、できる。特に用事はないよ。ホワイトボードに書かれたたくさんのコードやその意味を消した。ありがと、助かるよ。せつなはホワイトボードの横にある、主要なコードの一覧表を移していたスクリーンを巻き上げ、プロジェクターの電源を落とし、ついでに実習室の電灯も切った。せつなにも後片付けがあったらしい。先生って、教えるだけが仕事じゃないんだな。俺はせつながテキパキと片付けをしている様子を見ていた。

せつな。ん、何?大変だな。何が?仕事。教えるだけが仕事じゃないんだな。え?ああうん。そうだよ。授業の準備や後片付けもアタシたちの仕事。何でもイイトコだけやりっぱなしって、それ無くない?準備無しで最高のパフォーマンスは提供できないし、終わったらやりっぱなしってそれは次使う人に迷惑じゃん。ぐちゃぐちゃに散らかった中で授業なんかできるわけない。確かに。だから後片付けもアタシはちゃんとやりたいんだ。というと、せつなは実習室の鍵を閉めてくれた。本当はこのあと、俺が鍵を閉めて職員室に持っていかなければならないんだけど、それもせつなはやっておくからと言ってくれた。この後着替えたりショートホームルームやらで忙しいでしょ?アタシはまだ時間があるから、行っていいよ。うん、ありがと。と言って、俺は教室に向かった。あとは着替えて帰りのショートホームルームやって、掃除して帰るだけか・・・。今日はまだそんなに苦じゃないな。と思ったときだった。

「いかがでしたか?今日の実習は」聞き覚えのあるバリトンの声。えっ?廊下に、昨日と同じ濃紺の半袖上下作業着に、ダークグレーのワーカーキャップを被った伊丹が立っていた。やあ黒川。今日はマシニングの実習だったかと思います。いかがでしたか?いかがだったかって、何?感想言えばいいの?まあ・・・うん。普通。ほお、普通、ですか。何が普通か、もう少し詳しく、申していただきたいのですが。そんな困るよ、急に言われても。マシニングセンタは、第二次世界大戦後の日本にとって、革命とも言えるものづくりの高速化や効率化をもたらしました。そのものづくりの最先端に触れられる実習が普通?今後、ますますものづくりは大量に正確なものが高速でできねばならないと言われ、マシニングの動かし方や使われ方にも大きな動きが出ているのに、そんな未来に思いを馳せることもない、普通、ですか?じりじりと伊丹は俺に詰め寄ってくる。あの実習室にあるマシニングセンタだって、ものづくりの大きな可能性を秘めているのですよ。作れるものは実習の作品だけじゃない。車のエンジンのピストンだって、飛行機の機体に使われるネジだって作れます。それを考えもせずに、普通というのはいささか疑問が募ります。先生、距離が近いよ。機械実習なら、レポートに作業の結果と、なぜそれに至ったのかの、何らかの考察と実習全体の感想を書かれるはずです。まさかそれも、と伊丹が言ったときだった。

バサッ!と何かが落ちた。えっ?と思って俺が床を見ると、そこには俺の実習で使うはずだった教科書や作業帽、そして製図の教科書が落ちた。

まさかこいつ、俺のもの色々パクって俺を困らせて、友達の大切さを説こうとしたの?そんなことがあったなら、それは卑怯だ。せっかく俺真面目に教科書とか作業帽とか持ってきてるのに、その真面目さを汚そうなんて汚すぎる。おい伊丹。お前何をしようとしたんだ。えっ?あー私は特には・・・。とぼけるな!床に落ちてるものが証拠だろ!俺、お前がパクったせいで危うく先生に忘れ物やら遅刻やらでキレられるところだったんだよ!!今度は俺が反撃だ。そんなの普段から確認せず、あるものと思っているあなたが悪いのでは?ニヒルな笑みを浮かべて、逃げようとしている。ふざけんな。お前がごちゃごちゃ余計なことをするから、今日の俺、バタバタだったんだぞ。でも、そのお姿を拝見させていただく限りでは、どなたかがあなたに教科書や作業帽を貸してくださったのでしょう?それで危機は免れたのではないですか?流石に温厚な俺だってこの一言にはカチンと来た。もういい。暴力沙汰で処分食らったっていい。ボコってやる。ぶん殴ってやる、こんな薄気味悪いメガネ。おい伊丹お前・・・、胸ぐらをつかもうと思って作業着の上着をぐっと掴んだ。何でしょうか。伊丹は平然としている。ふざけんじゃねえよ。俺の邪魔して何が楽しいんだよ!そう言って俺は伊丹の痩せた頬を思いっきり殴ろうと拳を頬にぶつけた、つもりだった。でも、あれ・・・?俺の拳は虚しく空を殴っていた。ちょっと刺さることを言われたから、そんなにカチキレるのですか?そう気を乱さずに話し合えば良いではありませんか。後ろからバリトンの声が聞こえた。その声に振り返ると、伊丹が不気味な笑みを浮かべて立っていた。血の気が荒いですねえ。いや、だってそれはお前が色々怒らせてくるからであって、クッソ、今度こそ・・!と俺が拳を伊丹の体にぶつけようとした時、伊丹はスルリと俺の拳をかわして俺の手首をギュッと掴んだ。その時、俺は全身が凍りつくような、ゾワッとしたものを感じた。冷たい。とにかく冷たくて、生きている人間の体温ではないくらい冷たい手だった。そして、俺の腕を握りしめている握力も、普通の男の持つ握力よりものすごく強かった。アスリートとかそういうレベルじゃない。生きている人間とは思えないくらい力が強かった。何で・・・?私はあなたのような普通の人間とは少し異なっていますからそう言って、伊丹はもっと強く俺の手首を握った。降参なさいますか?うるさい!離せよ!!話せ?マシニングセンタの魅力を語れば日が暮れて一夜を跨ぎますが。違う!俺が言ってるのは、お前の手を離せってこと!手を離す?そうすればあなたの友達は明日、あなたに味方してくれませんよ?忘れられてしまうのですから、ねえ…。そうじゃないって!もうそんなボケいらねえよ!!俺が突っ込んでる間にも、伊丹の手は握力を増していた。へし折られるかもしれない。でも…。と思った時だった。おい、黒川。お前こんなところで何やってんだ?制服に着替えて、帰り支度を済ませた颯太が声をかけてきた。

何ってだってこのゴミメガネが…。ゴミメガネ?それって俺のことか?と颯太の横に来た剛が聞いた。そしてクスクス笑いながら言った。俺もさ、黒川のことずっとクズだって思ってたよ。いや、剛お前じゃなくて、この今俺の手を掴んでるコイツが…。必死で伊丹の手を振りほどこうと暴れた。けど、お前大丈夫か?誰もお前の手なんか掴んでないぞ。颯太がドン引きした目で俺を見ながら言った。え?黒川、久屋や桜山には私の姿は見えませんよ。あなただけが私の姿を見れるようになっています。え?と言った瞬間、伊丹は消えた。俺の手首は解放された。でも、握りしめられた手首には、伊丹が締め付けた痕がくっきり残っていた。おまけに力が入らない。プランプランだ。

黒川、大丈夫か?颯太が聞く。うん、大丈夫。ちょっと痕付いたけど。と言って俺は手首を見せた。けど。痕?何も付いてないぞ。え?お前、やっぱりダレすぎてアタマおかしくなったんじゃないか?え、颯太、俺そんなにダレてみえる?少なくとも2年生になった時からは。お前目は死んでるし、居るだけで疲れてるのが感じられて俺たちが疲れる。な、と颯太と剛は顔を見合わせて言った。俺、そんなにマイナスな感じに見えてたんだ。ちょっとヘコむ。まあ、黒川、元気だせって。お前が帰りのショート来れなかったの、お前が具合悪いって言ってたから少し休んでるって水谷に言っておいたぞ。水谷に?水谷とは、俺たちの担任の先生だ。滅多なことでは怒らない、穏やかな性格だけど、時間やルールには厳しく、違反をすればネチネチその事を説教するタイプなので、ちょっと面倒なところがあるのだ。水谷さん、まあ黒川は元から何かに疲れてるだろうから仕方ない、って言ってたぞ。剛がまたクスクス笑いながら言った。元から疲れてるってお前は人生何周目?何周目もあるか。生きるだけでもダルいことばかりなのに。まあ、一言言っといた方がいいと思う。剛が言った。そうだな。と俺が返すと、颯太が、ほら、職員室行った後ですぐ帰れるように、お前の荷物持ってきてやったぞ。と言って、俺のリュックを俺の肩にポンと乗せてきた。あ、マジ?ありがとう。本当はお前について行ってやりたいけど、今日俺バイト入っちゃっててさ。ごめん、と颯太が言った。そんな付き添いなんか要らないって。は?お前一応注意されに行くんだから、ビビってんじゃねーの?颯太が聞いた。そんな俺チキンじゃねーし。そうか?剛がクスッと笑った。まあ、水谷さんだから東崎先生とかみたいにブチギレはしないだろうけど。いや剛、俺職員室ならこれまでもレポート出しに行ってるから慣れてるって。ふーん、ならいいけど。と剛が言った。じゃ、俺達は行くわ。じゃあな。

颯太と剛と別れて、機械科の職員室に行って、水谷に一応帰りのショートに行けなかったことを謝り、俺はやっと一日を終えることができた。やれやれ、散々な一日だった。普段よりたくさん気を遣ったなあ。と思いつつ、とぼとぼと校門を出ると、そこには、さっきの作業着から一転して半袖の白いシャツに黒いチノパンコーデのせつなが居た。せつなの横には、2,3人、一眼レフや古そうなデジタルカメラを持っている男子生徒が居た。多分写真部の奴らだ。こんにちは。とその中に居た、小さな一眼レフを持った人が言った。顔の感じからすると1年生かな。学科はわからないけど。こんにちは。と俺は返した。よっ、黒川。今日はよく会うね。せつなが声をかけてきた。あ、うん。せつな、これからどっか行くの?うん。近くの岐阜県美術館まで行くんだ。天気がいいから、今日は外で撮影しようってなってさ。ふーん。てかせつな、部顧問やるんだ。やってるよー、赴任してからずっと写真部だよ。アタシも今日は撮りに行くんだ。と言うと、せつなは右肩に下げている小さなショルダーバッグをポンポンと叩いた。古いけどね、親のお古の一眼で。ふーん、写真、か。ま、気分転換には丁度いいよ。県美術館まで行くだけでも結構リフレッシュになるし。ふーん、気をつけて。と俺は言った。じゃ。せつなは軽く手を降って、写真部の奴らと歩き出した。俺はその方向とは逆の、学校の最寄駅まで歩き出した。部活・・・。俺、何やってたっけ。何もやってなかったな。あとは帰るだけだし、また長くて暇な夜が待ってるだけだ。つまんねー、と俺がつぶやいた、その時。暇なもんですかねえ。聞き覚えのある声がして振り返ると、わっ。伊丹がいた。わっ、びっくりしたじゃんか。名前呼ぶとか肩叩くとかしてくれよ、幽霊みたいに急に現れるなよ。そんなことしたって面白みがありませんから。いや、そういうのにエンタメ性いらないから。もっと違うことにエンタメ性使えよ。てか、帰りもついてくるってストーカー?不審者?まあストーカーだなんて失礼な。私はあなたが心配で、来ているのですよ?最近の世の中は物騒です。いや、心配してるならもっと違う登場の仕方があるだろ。これじゃあ下校途中の子どもに声かけてくる不審者と同じだよ。お前が物騒じゃないか。そんな暗い色の作業着で帽子まで被ってたら明らかにおかしいよ、殺人犯みたい。すると伊丹はダークグレーのワーカーキャップを外した。ダークグレーの短髪があらわになって、ちょっと雰囲気が明るくなった。うん、それならまだ良いと思う、・・・ってそういやお前は俺にしか見えないんだったな。それならやらなくて良かったかもしれないけど、でもさっきの不気味さは和らいだので、まあ良しとしよう。いかがでしたか、今日の学校は。さっきあんなにトラブル起こしといてお前が聞く?いえいえ、課題を始めるまでの猶予の今日、友達のありがたみを感じるようにと指示していたではありませんか。さっき無理やり、しかも俺のものパクった身でよくそんなことが言えるな。ありがたみなんか分かるわけ無いじゃん、無理やり分からせようとしたってそんなの無理だよ。人工的に、しかも強制的に強いられたら余計に嫌だ。しかし、今日あなたをフォローしてくれた仲間もいたのではないですか?えっ?久屋と桜山があなたの荷物を持ってきてくれたり、水谷先生に言い訳しておいてくれたりしたから、あなたは今、明るい時間に帰ることができるのではないでしょうか。もし、2人が居なかったら、あなたはまず、水谷先生にこっぴどく叱られたはずです。実習後に帰りのショートホームルームはおろか、掃除にも無断で来ませんでしたからねえ。それに、実習棟から教室のある棟まで移動して、教務室に教室の鍵を取りに行って自分の荷物を回収し、また鍵を返さねばならない。これも骨の折れる作業ではないですか。まあね。しかし、そういった面倒事を久屋と桜山が引き受けてくれ、あなたは水谷先生からそんなにお小言を言われずに済んだ。これもまた、良かったのでは?・・・確かに。面倒事は何であれ避けたい。こんなに疲れているんだもの、そうだよな。確かに、そうかもしれない。面倒なことを一挙に引き受けてくれる友達、てか仲間は大事だよね。はい、左様でございます。ってことは、今日俺に実習の帽子とか教科書とか貸してくれた奴も、そうだよね。貸してくれた奴、とは?え、知らないの?お前がパクった時、俺にいろいろ貸してくれた奴がいたんだけど、見てないの?颯太たちのことは見てたじゃん。いえ、私は存じ上げませんが・・・。えっ?じゃあ、一体誰が、俺を助けてくれたの?と俺が伊丹に聞いた瞬間、伊丹が消えた。ホントに、疲れた1日だった。

次の日も、俺は疲れたまま学校に行った。確かに昨日は疲れたけど、俺の疲れは何かそれだけじゃない気がする。常にダルいのだ。何が原因かは分からないけど、俺は疲れて回らない頭で授業に臨んだ。1限目はせつなの機械設計。今日のせつなは長い髪をハーフアップにして、紺色のワンピースを着ていた。何だかんだコイツ、服はしっかりしてるんだな。

さて、今日学ぶのは摩擦力についてだ。摩擦力というと、物理の内容と被るところがあって、なぜ工業の科目、機械設計でもやらなきゃいけないか、というところに疑問を持つかもしれない。しかし、君たちが3年生になったらやる機械設計の話では、というとせつなは機械設計Ⅱの教科書を開いてみんなに見せた。ねじの単元でこの摩擦力の話が出てくる。なぜなら、ねじは締める時周囲の鉄や木などと摩擦を生じるからだ。というと、せつなは簡単な図を黒板に描いた。DIYやる時、ねじをドリルで締めるでしょ?そうすると、ねじが回る度に木材と擦れて摩擦を生じる。だから、ドリルで締めた後のねじは摩擦熱を生じて、熱いのよ。この他に、鋼材にねじを締めても同じことが言える。では、というと、せつなは何かの合図のように、左のかかとでトンッと教壇を突いた。今度は理論上、摩擦力がどうやって表現されているか、見ていこう。確かに、数式は物理で習った通りのものだ。無機質で訳のわからないアルファベットが並んでいるだけ。物体が平たい床を進むことを実験的に見ることなんて、現実世界あるの?そして、こんな訳わからない勉強で8割取れって、まじで無理な話だよ・・・。ベクトルの分解を見るだけで頭が痛い。そんな摩擦係数なんて求めたってどうなるんだよ。と俺が思った時、せつなが言った。まあ、こんな物体を横に動かしたり、坂滑らせたりして一体何やってるんだ、って思う人もいるかもしれない。だけど、実はこれって冒頭で話したねじの世界をズームしたものなんだ。というと、せつなは黒板にデコボコな絵を描いた。これがねじのねじ切りしてある部分。ここを拡大していくと・・・。どんどん図は省略されていく。また数式が出てきた。めんどい。どうせ機械設計Ⅱでやるなら、その時に合わせてやればいいじゃないか。うんざりしながらせつなの話に耳を傾ける。・・・ここをもっと砕けた図にして見ると、ほら、今日やった摩擦力の図と一致するし、扱う式も全く同じだ。だから結局、機械設計でも摩擦力の知識は持ってないと困るってわけ。工学は科学を根本としてるからね。その言葉に、俺は、はっと気がついた。「工学は科学を使って社会に貢献するために生まれた学問です」伊丹が言っていたことと同じだった。根本を知らなきゃ応用もできない。だから今根本の基礎をやってるってわけ。せつな、意外と掴むものは掴んでるんだな。鋭いヤツかもしれない。その後も摩擦力に関する授業は進んだ。そして、授業の終わり、せつなが言った。あ、今回のテスト範囲だけど、今回は力積、仕事・エネルギーのところから今日やった摩擦力の話ね。少し骨が折れるかもだけど、本質さえ掴んでれば大丈夫だから、頑張ってね。いや、範囲広すぎないか?ああめんどくさい。しかもこれで8割取れ?無茶な話だよ・・・。授業が終わると同時に俺の気持ちも終わった。あいつ、とんでもない課題ぶちこんできやがった。

その日の夜、俺は家の自分の部屋で勉強を始めた。設計の教科書とノートを机に広げ、これまでの復習をした。でも、何も分からない。参った、どうしよう。深くため息を付いたその時、黒川。と声がした。振り返ると、伊丹が後ろのベッドに腰を下ろしていた。そうとう、苦戦されているようですね。大丈夫ですか?大丈夫じゃないよ。やばいって。何がどう、やばいのですか?何もわからない。ほう、何も分からない、と。では、まず何が分からないのか、分からないことを探せば良いのではないでしょうか?えー、それって無理じゃない?いいえ、今のあなたは、やみくもにすべてが分からないと投げ出している気がします。テスト範囲の単元、問題ごとに何が分からなかったかノートにピックアップしてみてください。そうすれば、少しは頭の中が整理されるかと。ふーん。というと俺はもう一度教科書や問題と向き合った。分からないことを書く。やがて、書いていくうちに、俺の疑問はだいたいパターン化されていることが分かった。あと、色んなことを知る前に、かなり早い段階で投げ出していたことも分かった。式を見たと同時に頭がシャットアウトしようとする癖があるっぽい。でも、分からないところが分かっただけで、実際にはどうすれば良いんだろう?ねえ、ピックアップはしたけど、これからどうすればいいの?俺は伊丹に聞いた。あなたは、どうすればいいと思いますか?いや、わかんないから聞いてるんだろ。何でもかんでもすぐ答えを出せばいいというわけではありませんから。うーん。少なくとも、今の俺の頭では解決できない。本見たって分かるものではなさそうだ。なら・・・、颯太や剛はどうなんだろう?明日聞いてみようかな。取り敢えず、颯太と剛に聞いてみる。と俺は答えを出した。そうですか。それではそうしてみて下さい。せっかくの機会ですから、友達のありがたみが分かるといいですね。その言葉は確かにそうだった。うん。と俺は気持ちを込めて返した。

お前バカかよ。黒川、これじゃあ話にならねーよ。剛が呆れながら言った。颯太も、四肢を投げ出し、椅子の背もたれに深くもたれて、あーあ、とあくびをした。翌日の昼休み、俺は颯太と剛に設計を教えてもらっていた。でも、俺と颯太たちとの間には、理解度の差が大きく開いていた。だから言ってるだろ、この問題はエネルギーの公式からのエネルギー保存の公式に当てはめれば大丈夫だって。テスト範囲のエネルギーの問題について教えてもらってるけど、俺には何も理解できなかった。マジでやばいなお前。颯太が言った。いや、やばいのはお前らだろ。何で理解できるんだ?何でって、ちゃんとせっちゃんの話を聴いてるからだよ。颯太が言う。俺、隣の2組のやつとバイト先一緒なんだけど、そいつは水谷さんが設計担当なんだ。それで、設計の話をしたことがあるんだけど、せっちゃんは結構きれいに要所要所をまとめてあることが分かったんだ。大体の問題について、解き方をルーティン化して公式の使い方やあり方を落とし込ませるやり方を取ってる。だから、そのルーティンさえ分かっちゃえばこっちのモノだってことよ。そこまで極められたお前がすごいよ。俺は呆れ半分尊敬半分を込めて言った。極めるというより、相手の動向を探ったと言うかさ。颯太が言った。やっぱりせつなが好きだからか、お前らしい。剛がクスッと笑った。お前、しょっちゅうせつなに探り入れてるもんな。入れてねーし。颯太が突っ込んだ。しかしよ、黒川。今のお前の理解度じゃあ、今回のテストはガチで赤点だぞ。何せ最初のエネルギーが数式さえ立てられないんじゃあ、歯が立たねえ。颯太、じゃあどうすれば良い?大元に話を聞くしかねえな。大元?せっちゃんだよ。今回の範囲、なんにも分かんないから、もう1回、1から教えて欲しいって。え、それって…。質問しに行く、だわな。颯太が言った。俺たちじゃこれ以上何もできねえもん。ボスに聞くのが一番安全だよ。剛も言う。放課後、職員室に行けばいいじゃないか。今日からテスト期間だから、せつなも写真部無いだろ。…職員室に、せつなに、質問、か。面倒だ。面倒なことがどんどん増える。もっと楽にやりたいのに。そういや黒川。と剛が言った。お前、何で急に俺たちに勉強聞いてきたんだ?今まで勉強の話なんかしたことないじゃん。あー、実は信じられない話かもしれないけど…。どうしたん?颯太が聞く。こないだ急に、伊丹って先生が俺の前に現れて、俺の態度が怠惰すぎるから24時間後に俺の友達みんなの記憶から俺の記憶を消す。それが嫌なら、今度の設計のテストで8割取れって言われたんだ。2人は首を傾げた。まあ分かってたけど。黒川、やっぱりお前頭おかしくなった?颯太がなお首を傾げながら言った。伊丹って、1年のとき旋盤実習やってた先生だよな?あとは製図にいたようないなかったような。と剛。え、伊丹って機械科にいたの?お前めちゃくちゃだな。伊丹って旋盤実習のときめちゃくちゃ厳しかった先生だぞ?剛が驚いた口調で言った。製図も細かくてきつかった気がするけど。忘れたの?俺の記憶にないってことは、忘れたんだろう。かわいそー、伊丹って何かこの頃見ないけどな。学科変わったのか、異動になって他の学校に行ったのかな?颯太が言う。分からない、と俺は返した。まあ、何はともあれ、確かにお前はこのままだと赤点取って追試やら何やら面倒なことになりそうだから、これを機にちゃんと勉強したほうがいいかもな。剛が言う。まあ、そうだよな。来年は就職だし、良い企業に入るためにも・・・、そうか。予鈴のチャイムが鳴った。颯太、剛、ありがと。放課後にせつなに聞いてみる。2人は黙って頷いた。

放課後、俺は機械科職員室にいるせつなを訪ねた。せつなはデスクでノートパソコンと向き合っていたが、俺が、「牧口先生に用があって来ました。入室してもよろしいでしょうか?」と言うと、手を止めてノートパソコンを閉じ、ごめん、今は考査期間中だから生徒は職員室入れないんだ、と言って、職員室から出てきた。黒川、どうしたの?せつなが首を傾げながら言った。せつな、設計教えてほしいんだけど。はあ?せつなは驚いた顔をした。どうしたの、急に。い、いやだって最近俺ダレすぎじゃん、今度のテスト赤点だったらさすがにやばいだろ・・・。まあ、確かに今のあんたの成績は、赤点スレスレだね。このままだとやばいのは間違いないけど。だからさ、もう1回設計教えてほしい。どこから?今回のテスト範囲、全部。はあ?!お前勉強してなさすぎだろ。さすがに全範囲は・・・やばすぎん?やばいから言ってるんだろ。あーウザい。分かりきってお願いしてるのに。それが教わる人間の態度か。せつながため息をついた。そんなんだから勉強もできないんじゃないの?余計なお世話だ。わかった、設計、教えて下さい。俺はせつなに頭を下げた。いいだろう。せつなは言った。残業代払えよな。そうつぶやくと、せつなはブスッとした表情で職員室に戻り、設計の用具と空き実習室の鍵を持って、出てきた。

空き実習室で俺はせつなに分からないところをピックアップしたノートを見せた。要は、ここに書いたことがわからないんだ。ちょっと貸して。せつなは俺からノートを受け取ると、設計の教科書と照らし合わせながらノートを見た。時々頷きながら、ページをめくる。俺はその様子をただ見ているしかなかった。やがて、せつなが口を開いた。うん、何が分からないか大体掴めた。というとせつなはノートを俺に返した。あんた、まず定義と公式の違いがゴッチャになってる。定義ってのは、覆せないルールで従わなきゃならないこと。公式は、定義に則る場合もあれば、そうじゃないものもある。そうじゃないものって何?定義をもとに生み出された公式。今のあんたには、定義と公式を整理する必要がありそうだな。というと、せつなはホワイトボードの前に立って、式を書き始めた。運動方程式が定義なのは、いい?うん。力積の式は、この運動方程式の式を崩すことでできる。加速度は、他の式でも表せるけど知ってる?・・・何だったかな。こうだよ。せつなが加速度の公式を書いてくれた。これとこれがイコールだから代入できるのは良い?うん。何か、普段の授業より数倍丁寧だな。せつなはその後も説明を続けた。そして、何が定義で何がそうじゃないか、結構はっきりやってくれた甲斐があって、俺はその日の夕暮れにやっと力積、それからエネルギーについてを理解することができた。はあー、何だそんなことで俺は悩んでたのか。そりゃあ颯太たちも呆れるわな。俺は机に突っ伏した。疲れた。おつかれさま。せつなが言った。まったく、アタシの授業ちゃんと聞いてないからこうなるのよ。だって聞いてても楽しくないもん。ムカつくな。せつながホワイトボードに書いた式を消しながら言った。アタシだってこう見えてだいぶ噛み砕いてやってるんだけど。そうかな。その割には無駄が多い気がする。そう?どんなところが無駄?意外な返答だった。キレられると思ったんだけど。辛辣なオピニオンは確かに必要だし。・・・やっぱりやめとく。は、何それ。多分、颯太とか剛の方が辛辣な気がするから、そっちに聞いてよ。えー、普段何も反応しないあんたの意見の方が重要だと思うんだけど?俺ってそんなにダレて見えるの?うん。即答された。何かムカつく。いつも何かに疲れた顔してるよ、あんた。そう?と俺が聞くとせつなは頷いた。じゃあ、もう少し授業丁寧にやって。理論飛ばしすぎててわからなくなることが多々ある。そうだったの?うん。ごめんね。というと、せつなは教卓に置いてある自分の板書用ノートに何かを書き込んだ。ふう、じゃあ、アタシもこの考査期間中に授業改善しなきゃね。そんなことするの?うん。やっぱりお互いやりやすい授業作りたいし。ありがとね。うん。ま、でもあんまりつけ上がんなよ。意見は大事にするけど、何言ったって良いってわけじゃないから。うん。せつなは実習室の窓を見た。うわ、もうすっかり暗いじゃん、早く帰ろう。実習室閉めようか。そうだね。と返すと、俺は設計の用具をリュックに入れて背負い、せつなと実習室を出た。明日も、聞きに来ていい?いいよ。同じ時間ね。うん。と言うと、俺はじゃあ、と言って機械科の棟をあとにした。夏が終わって、秋の始まりの夕暮れはちょっと肌寒いような、ちょうど良い気温のような、微妙なものだった。空はほんの少し夕焼けを残しながら、暗闇に確かに包まれていた。昇降口で靴を履き替え校門を出ると、周りの街灯が灯っていた。やばい、いくら勉強とはいえ遅かったかな。と俺が思ったとき。「随分と長く、勉強されたのですね」聞き覚えのある声がして辺りを見渡すと、校門の側に伊丹が立っていた。お疲れ様です。と伊丹が挨拶した。うん。お迎えに上がりました。さすがに今日は遅いし、帰り道も暗いでしょうから。いや、俺もう高2だから、そんな迎えなんて来なくたって大丈夫だよ。いえいえ、最近は男子生徒を狙った犯罪だってありますから。無差別通り魔殺人事件だってありますし。世の中は物騒です。こんな田舎でも?ええ、そうですとも。めんどいな、こいつ。伊丹と俺は最寄り駅まで並んで歩いた。何か、迎えに来るって親じゃないんだから。それか彼女とかでもないじゃないか。あら、私が彼女?と言うと伊丹は両手で自分の両頬に手を触れた。やだよ気持ち悪い。お前が彼女とか絶対ムリ。ましてやお前男だし、おっさんじゃないか。おっさんと付き合うってなかなかキモいよ。伊丹はちょっとシュンとした。俺は清楚系女子が良いなあ。普通科の女子。黒髪ロングで、物静かで、図書部とか書道部に入ってる感じの子。と俺が言うと、伊丹はクスッと笑った。何事にも無気力だと思っていましたが、そういうわけではないのですね。そりゃあそうだろ、俺だって理想に思う女子はいるよ。岐阜駅とか歩いてると、たまにタイプかなって思う女子だっているよ。黒川的には、牧口先生が良いと思いますが・・・。というと、伊丹はイッヒッヒッ、と気持ち悪い笑みを浮かべた。はあ?あんなガサツギャル死んでも嫌だ。先程もあなたと仲睦まじく勉強していたではありませんか。いや、それは単純に質問してたからであって、特に仲良いとは思えないんだが。そうですかねえ、あなたは他の先生方と比べても、だいぶ牧口先生に懐いて見えるようですが。懐いてなんかねえよ、最近実習とか色々会う機会が多いだけだろ。てか、お前さっきのこと見てたのかよ、キモいな。いえいえ、ちゃんと課題をやっておられるか、こちらも見る必要がありますから。伊丹がさっきの俺とせつなの様子を覗き見しているのを想像してみた。・・・何か、ちょっとキモい。もう少しマシな監視方法にしてくれよ。うーん、そう言われましても、こちらも限界がありますし。あのせつなだって授業改善するって言ってたんだから、お前もなんとかしろよ。なんとかしろと仰られましてもねえ・・・。伊丹は、腕を組んで、うーんと困った顔をしていた。考えておきます。うん、勘弁してよ。俺は深くため息をついた。

翌日も、放課後俺はせつなに設計を教えてもらった。色々分からないことがわかってくると、自分が如何に授業をないがしろにしていたかが見えてきて、恥ずかしくなるほどだった。そのことをせつなに言うと、せつなは、やっと分かったか、と安堵の表情を浮かべた。もちろん、アタシの授業は完璧なんかじゃないよ。きっと抜けがあるし、生徒のすべての質問にすぐ答えられるわけでもない。ベテランの先生が見たら、鼻で笑うレベルの授業だよ。だけどさ、それでもアタシは教えなきゃいけない。教員って職についた以上は、その知識を必要とする人たちに最高のパフォーマンスを提供しなきゃいけない。まあ・・・ぶっちゃけアタシは教員になりたくてなったわけじゃないんだけど。えっ?アタシ、本当は数学者になりたかったの。高校生のとき、アタシ数学が好きでさ。大学は理学部に行きたかったんだよね。でも、それ以外の成績がまるで馬鹿で、到底理学部のある大学なんか行けなかった。それで流れ流れて、工学部の機械学科に入っちゃった。教員って、なりたい人がなるかと思ってた。まあ、基本はそうだよね。みんな、恩師や親の影響で教員になる人がほとんどだもん。でも、アタシは違ったな。恩師とかいないの?うん。てかアタシは学校が大っ嫌いだったし今でも嫌い。と言うと、せつなは、ははははっと笑った。アタシの母校、ネットとかでよくやり玉に挙げられる「自称進学校」ってやつでさ。自称進学校って知ってる?あ、うん。Twitterでたまに話題になるやつだよね。精神論で生徒をねじ伏せたり、私大や専門学校を悪と捉えて闇雲に国公立大学に入れさせようとするけど教育がゴミなやつ。そうそう、よく知ってるじゃん。そんな学校にいたの?そう。せつなって、もっとお嬢様が行く学校に行ってたかと思った。あーうん。この学校に来てからよく言われる。でもアタシは普通に公立の共学だったよ。何かそこでギャルっぽくしてそう。ははっ、そう見える?と言うとせつなはクスクス笑った。どうせ服装とか乱れて指導部に怒られてたんだろ。えーマジで?アタシそんなふうに見える?と言うとせつなは大きな声で笑った。マジかよ、超ウケるんだけど。せつなはまた笑った。そういうところがギャルだって見られるんだぞ。そんなにおかしい?うん、だってアタシそんなギャル系じゃなかったから。そうなの?うん、多分高校生の頃のアタシ、黒川が見たら絶対引くと思うくらいの陰キャラだったわよ。せつなが・・・陰キャラ?髪だって染めたりパーマ当てたりしだしたのは大学4年生になってからだし。今はコンタクトレンズだけど、高校生のときは眼鏡だったし、服装なんて引っかかったことない。想像できなかった。クラスに友達もいなかったから、いつも一人ぼっちでいたな。てか、クラスメイトに存在すら覚えられてないんじゃない?ってくらい影薄かったし。それで数学に熱中してたの?そう。その時、塾の数学の先生で、マジで尊敬してる人がいて、その人と話がしたくてずっと数学頑張ってた。と言うと、せつなは幼い子どもが自分の好きな人の話をするときのように顔を赤らめた。何か、久しぶりに高校のこと思い出したな、恥ずかしいけど。せつなにも、俺と同じように高校生の頃があったんだな。うん、もちろん。だけど、その時期に数学に打ち込んだから今のアタシがあるんじゃないかなーって思う。どういうこと?アタシ、その時、その数学の先生の講義受けてて、あることに気がついたの。高校数学とか物理って、一見難しそうだけど、実は物事の本質さえ掴めばそんなに覚えることはなくて、その長い歴史を経て伝わっている美しさにただ敬服するしかないって。どういうこと?まあ、ちょっと哲学的なところもあるから分からないよね、ごめん。だけど、伊丹先生はこのこと分かってくれたんだよね。えっ?うん。工学、とりわけ機械工学は物理学と数学を根底にして成り立っているから、その根本の物理学や数学には畏敬の念を表したいって、前話してた。伊丹先生って、そんなインテリなの?インテリだよ。あの人、お父様が東京の工業大学の機械学科の教授だもん。それに、有名な数学者と大学時代から友達だって言ってた。まあ・・・その人がアタシの先生なんだけどね。不思議な縁だよね、世間は狭いというかさ。と言うと、せつなは寂しそうにため息をついた。伊丹先生、早く帰ってこないかな。話したいことがたくさんあるんだ。帰ってくる?うん、伊丹先生ね、今訳あってお休みなの。お休み?うん。詳しくは個人情報になっちゃうから言えないけど、お休み。そうなんだ。うん。と言うと、せつなは教科書をパラパラとめくった。あと、聞いておきたいことはある?いや、今日はいいや。1回家で復習してみる。そっか。と言うと、せつなはまた式がたくさん書かれたホワイトボードを消しにかかった。今日は金曜日だし、復習して、分かんなかったらまた来週来なね。うん。あ、来週はさ、他の子も混ぜて補習みたいにしようか。もうテストも間近だし。マジで?うん。颯太とか剛も呼んでいい?うん、いいよ。あんたの他にも苦戦してるやつはいるだろうから。そうだね。LINEか何かで回しといてよ。分かった、と言うと俺は設計のノートに来週月曜の放課後補習、とメモ書きした。

その週末、俺は俺にしては珍しく、勉強に打ち込んでいた。せつなに再解説してもらったおかげで、だいぶ設計の内容が分かるようになってきた。教科書の例題はだいたい解けるようになった。その他にも、夏休みとか長期休暇にしか使わない設計の問題集、標準問題集の問題も解けるようになった。問題が解けるようになると、自信がついてくる。俺でもやればできるじゃないか、と嬉しくなる。そして、俺は調子に乗って、他のテストを行う工業の教科、原動機もトライするようになった。へっ、伊丹、きっと舌を巻くぞ。ルンルンで勉強をするなんて、この前の俺からしたらありえない光景だからな。今に見てろ。そんな気持ちで勉強していた。


颯太や剛、その他にも設計に苦戦する奴らを交えた補習を乗り越えて、俺は設計のテストに臨んだ。手応えとしては、これまでの中で一番良かったと思う。そしてその結果は…。

設計のテストが返された日、俺は息を弾ませながら家の自分の部屋に帰った。ただいま!と急いで部屋のドアを開けると…。えっ?!

そこには、にわかに信じがたい光景が広がっていた。おい、マジかよ…。サーッと血の気が引いていくのが分かった。だって、俺の部屋のベッドで、伊丹が爆睡していたからだ。…い、伊丹?耳をすませると、かすかにいびきが聞こえる。半袖の紺色の作業着姿のおっさんが、俺のベッドで爆睡してるなんて。しかも、伊丹の周りには、俺が読んでた漫画の単行本や漫画雑誌が煩雑に置かれていた。多分、俺がいない間に部屋に来て、漫画を読んでいたんだろう。これにはさすがの俺も憤った。人の許可なしに勝手に人の私物触るんじゃねーよ。しかも、伊丹が枕元に置いてる本って…!テスト後まで俺が読むの我慢してたやつじゃないか!スクールもののSF漫画!これは許せない。伊丹!起きろよ!肩を手でグラグラ揺らした。伊丹!…ん〜。むにゃむにゃ何か言ってまた寝ようとしている。俺は必死になって肩を揺らした。起きてよ!ん、あ、はッ!伊丹が飛び起きた。ああ、黒川、お帰りなさい。申し訳ありません、あなたの帰りを待っている間に寝てしまいまして…。と言うと、伊丹は枕元に置いてあるメガネを取って掛けた。まったく、帰りを待ってるとかマジでキモい。彼女でもあるまいし…。はあ、とため息をつくと俺はリュックを肩から下ろして床に置いた。すると、床にも漫画が落ちていた。これは…!俺が好きな日常系の漫画!しかも俺がちょっとイイなって思ってる女の子のキャラがメインの巻じゃないか!また怒りのボルテージが上がってきた。おい伊丹!俺のいない間に何してたんだ。帰りを待っていました。真顔ですっとぼけられた。帰りを待ってたって言っても、これは散らかしすぎだろ!人の家に勝手に上がっといて何だよその態度!!ベッドだってグチャグチャになってるし、しかも俺が帰るまで楽しみにしてた新巻開けやがって…。買ったならすぐ開けて読めば良かったのではないですか?開けるのを遅めたってどうせ学校でネタバレを聞かされてウンザリするでしょうに。それはお前が設計勉強しろって言ったから、終わるまで我慢してたんだけどな…。すごい俺。めっちゃ我慢してる。タメのやつだったら今頃ぶん殴ってるのに。殴りたい衝動を、握り締めた拳と喉の奥にぐっと堪えて我慢してる。何なら、今ここであなたが読みたがっている新巻のネタバレをしたっていいのですよ?ニヒルな微笑みを見せながら、伊丹はひーっひっひっひ、と不気味に笑った。私はことの結末を知っていますからねえ。そういうと、伊丹はベッドに置いてあった新巻を手に取り、パラパラページを捲って息を大きく吸い込んだ。…やめろ!俺は伊丹から漫画を奪い返そうとして真正面から伊丹の体に突撃した。しかし、またかわされた。そんな簡単に奪われてなるものですか。そしてまたページを開いて…、やめろおおおおお!俺は耳を塞ぎながら大声で叫んだ。母さんに、うるさいって怒られるかもしれないけど今は非常事態だ。また俺は伊丹に喰っかかった。設計のテストが終わるまで続きを楽しみにしてたのに、こいつ!しかし、伊丹はまるでバスケットボールの攻防のように素早く俺の動きをかわした。しかも動き回ってるのは俺だけで、伊丹はずっとベッドに座ったまま攻防を繰り返してる。こいつ、歯が立たねえ…。だいぶ息が上がってきた。隙を見て取ろうとしたけどまたかわされて…。相手の動きをよく見て下さい。漫画を持った両手を高くあげて伊丹が言った。いや今はそんなアドバイス聞いてる場合じゃ、と思った時、伊丹がバスケットボールのシュートを決めるように漫画を投げた。今だ!と思ってジャンプした。その瞬間、漫画は確かに宙を舞ったけど、伊丹が立ち上がって、すぐにキャッチした。は、ふざけんなよお前!俺はまた伊丹に喰っかかった。しかし、伊丹は俺の拳やら蹴りを踊るように華麗にかわした。私を殴っても良いのですか?殴れば前のマシニングの実習の後のようになりますよ?そう言われて、俺は、あの氷のように冷たい手の感触や、人の力とは思えない握力を思い出した。あ、あれは…。と思った瞬間。わっ。伊丹が大きな声を出した。俺はその声にびっくりしてバランスを崩し、床に転んだ。

痛えー。

大丈夫ですか?そっと手を差し伸べられた。骨とかは折れてないみたいだ。俺は手を取った。伊丹が俺を引っ張って立たせてくれた。

もー、帰ってきて早々乱闘はやめてくれよ。俺は勉強机の備え付けの椅子に腰かけた。疲れてんのに。そうですか?疲れているとはいえ、あなたはそんなに運動されていないでしょう。まあ、運動はしてないな。もともとそんなにスポーツ好きじゃないし。あんなに血の気が荒いなら、ちょっとは運動などして、発散されてはいかがでしょうか。まあ、そのうち。

そういえば、その乱闘で出遅れましたが設計のテストは如何でしたでしょうか?来た!俺はほくそ笑んだ。床に置いたリュックから設計の答案用紙を出した。はい、設計82点!これで課題クリアでしょ?はい、確かに8割ありますね。1つ目の課題はクリアです。やったあ!

しかし…。というと伊丹は設計の答案用紙をじっと見つめた。部分点で稼いだ傾向がありますね。途中の計算式は煩雑だし、飛ばすと理論が追いづらくなって、採点しようにも部分点しか付けられない。公式の証明問題も、論理的ではない。知っているもの、覚えたものをそのまま書いている。これでは理を理解したかを測るテストにおいて汚い、不利な回答でしょう。俺にはよく分からないんだけど。

黒川。と言うと、伊丹はこほん、と咳払いをした。工学の知識を使うためには、その根底にある科学の知識が備わっていなければなりません。はあ。

しかし、今のあなたにはその根っこが備わっていない。与えられた課題、問題をどうやって解くか、そればかり追って、物事の本質に迫ろうとはしていないでしょう。

え、だって設計で8割取れば良いんじゃないの?それが課題じゃないか。もちろんそれは課題です。しかし、その課題への接し方があまりにもやっつけです。その場さえ乗り切ればいい、という魂胆が見えますよ。だって・・・つい最近までろくに勉強してなかったのを急に始めろって言われて、高得点出せって言われたら・・・そりゃそうなるだろ。では、問います。今回の原動機のテストは如何だったでしょうか?原動機?原動機とは、機械科の座学教科のひとつで、実際に世の中で使われている、エンジンを使った機械のメカニズムやそのエンジンを動かすエネルギーとは何なのかについてを掘り下げる科目だ。これも、エネルギーについて、とか、ものの流れ方について難しい式を色々操る問題を解くのだが、俺には到底理解できない。今日は、国宮先生の原動機の授業があったはずです。答案は返されたでしょう?うん。と言うと、俺はリュックの中から今日返された原動機の答案用紙を出した。あんまり見たくないけど。24点。赤点だ。やはり、物事の本質を捉えていないから、こうなるのです。実際、問題をよく見ると、エネルギーについて理解できていれば赤点を免れるほどの点数はじゅうぶん取れますよ。そう?ベルヌーイの定理は結局、エネルギー保存則と変わりません。そして、ベルヌーイの定理を応用してトリチェリの定理が成り立っています。エネルギーについて、根っこの部分の理を理解しなければ、空虚な公式の暗記に苦しめられるだけですよ?それでは工学を学ぶ意味はない。なぜ、そのベルヌーイの定理やトリチェリの定理が機械において必要とされるのか、そこまで思いを巡らせてようやく、工学を学んだと言えるのです。難しいことはよく分かんないけど。分かるようにしましょう。せっかく10代で工学に挑めているのです、普通科の生徒であれば経験できないことですよ。ってことは、次の課題は原動機?

はい、左様でございます。ニコニコと嬉しそうな伊丹。国宮先生であれば、赤点を取った者にはテスト問題の解き直しと、そのテストの問題内容に絡めたレポートが課されるはずです。それと、1週間後の放課後に、追試を行うかと。よく知ってるな。私も、あなたと同じ学校の、機械科職員ですから。それでは黒川、2つ目の課題を申し渡します。テスト問題をもう一度丁寧に解き直し、レポートを、今週の金曜日に私に提出してください。それから、原動機の追試で8割を目指しましょう。解き直しがしっかりしていれば、8割などおのずと取れるでしょうが。・・・ということは、今回のテスト範囲は1学期にやった流体の復習、つまりさっき話に出てきたベルヌーイの定理とかトリチェリの定理、エネルギー損失とかマノメータ、あとは2学期になってから始まった熱力学。基本的な温度の話からエンジンの種類、熱力学の第1法則。盛りだくさん。2つ目にこれ?めっちゃヘビーじゃないか?いいえ、何をおっしゃいますか。今の世の中は、とても便利なものが出回っているではないですか。レポートなんてすぐに終わりますよ。どういうこと?

あなたのシャツのポケットに入っているものを見てください。ん?シャツのポケット?俺は制服の半袖カッターシャツの胸ポケットに手を当てた。硬いものが入っている。何だろ?手で触ると、ああ、スマホだった。取り出して、伊丹に見せた。スマホ?これが何だって言うの?現代では、スマホを使って簡単にインターネットにアクセスできる時代です。とすれば、分からない用語など、検索すればすぐに出てきます。まさか教科書をそのまま書き写そうと思われていたのですか?ドキッとした。

スマホは、ゲーム機ではありません。音楽プレイヤーでもない。すぐさま、自分が見たい情報を見るためにあるのです。手のひらに、百科事典と新聞を持っているようなものですよ。盲点を突かれた。こんなに便利なものがあるのに、わかりませんでしたですっとぼけるなど、工学を学ぶものとして恥です。現代の最新技術をしっかり使いこなしましょう。ってことは、スマホで今回のテストに出てきた問題について調べるってこと?はい、その通りです。しかし、と言うと、伊丹は、右の人差し指を、ピンと立てた。

ひとつ条件を出しましょう。調べるにしても、WikipediaやYahoo知恵袋は使わないように。あんな不特定多数の人間が書き込めるサイトなんて、信ぴょう性がありませんから。じゃあ、どうすればいいの?それは、あなた自身でお考えください。せっかく、味方もできたわけですから。と言うと、伊丹は俺に原動機の答案用紙を返して、消えた。バサッとさっきの漫画の新巻が床に落ちた。俺は椅子から立ち上がって、漫画を拾い、ベッドに腰掛けた。ふう、やっと一息つけたけど・・・。

設計よりめちゃくちゃ面倒くさい課題を出された。これからどうやって乗り越えよう。ベッドに寝そべり、ようやく漫画を開いてパラパラ見てたけど、これからどうやって乗り越えようかの戦法を考えていると、あんまり話に集中できない。面倒くさい。勉強に手を出すと、こんなに面倒くさいのか。




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