Chapter 4


 エメさん夫婦が経営する酒場サルーンを飛び出し、ただひたすら逃げるよう歩き歩き歩き回って、歩いて歩いて歩いて回って――そして、アトリは止まってしまっていた。

 ともすれば倒れて動けなくなってしまいそうだったから、丁度目についた馬繋ぎ――自分の馬を繋いでおくための大雑把な造りの木の柵のようなそれにもたれかかる。


「……ぅ、ぐぅ!」


 その状態で、アトリは胃と肺腑が雑巾絞りを食らわされたら出てきそうな呻き声を漏らした。

 そんな様を、通りを歩く人々は薄気味悪そうなものでも見るような目で見るが、足を止めることなく歩き去っていく。

 乗っていた馬を繋ごうとした人々は、アトリの存在を気味悪く思ったのか、手綱を引いて別の馬繋ぎの方へ行ってしまう。

 町の住人たちのアトリへの反応の仕方は、とにかく人様々人それぞれだった。けれども、その対応だけは、共通している。

 関わろうとすることを拒んだ。声をかけてもこなかった。「ナニアレ?」と見てくることも、指差して嗤ってくることすらも。

 当然だ。アトリは他人なのだから。

 カマロンの町の住人ではなく、外から来た余所者だっていうのが一番の要因なのだけれども。

 だから、アトリの存在なんて、皆にとってはどうでもいい存在でしかないのだ。

 ブッチですら、実際そうだったのだから。

 要は、全部アトリのひとがりでしかなかったのだ。

 ブッチが最初から思っているのは、ザ・サンダンス・キッドのことだけなのだから。

 だから、わたしってば馬鹿みたいですよ、っていうかわたしってば馬鹿そのものですよ――と、思わざるをえない。

 ブッチがなにか思ってくれていたとしても、大方利潤を齎してくれる相手かどうか程度なんだろう。

 実際、アトリはそうでしかないのだ。ブッチにとってみれば、アトリは切り札のようなものでしかない――唯一無二の相棒ザ・ザ・サンダンス・キッドを取り戻すためだけの。

 ザ・サンダンス・キッドの【存在】を、虚構じじつとして認識しない唯一の存在であるアトリっていうのは、ただ、それだけでしかない。

 なんていうか、現実としてここまで思い知らされてしまうと、言葉も出なかった。

 出しきってしまったっていうのもあるのだけれども。さっき、涙と一緒に。

 でも、どうせ出しきるのならいっそ、全部流れ出きってしまえばよかったのにと、アトリは思う。

 それこそみんな、アトリの胸の内にある感情、特に、ブッチに対しての想いみたいなものら、その全て――なくなってしまえばいいのに。

 こんな結末を迎えてしまう前に。

 こんな結末を迎えてしまうことぐらいなら。

 そもそも、どうあったってこんな結末を迎えてしまうことぐらい、アトリは最初から分からなきゃいけなかったはずなのに。


「……なんで、わたし…………一人でいなきゃ、独りにならなきゃ……」


 それ以上に――


「……こんな遠くに来てしまってまで、わたしは……なんで……」


 しかし、言葉は打ち切られる。アトリの思考を、銃声が揺らす。

 そして、アトリは見た。視界の先に、見憶えのある姿が、立っているのを。













 正直、ラムを飲みたかった。

 ラムじゃなくてもいい。馬の小便と揶揄されるような、かさ増しになにが入っているか分からない代物でもいい。

 酒であるならなんでもいい。摂取したアルコールが、この酩酊を鎮めてくれるだろうから。

 それだけでなく、鬱屈さえも。常日頃から抱く不満――加えて、理不尽にも。

 通りの一つ、日暮れ前のさざめきの中を、彼は歩いていた。

 歩くというより、酔って下手くそなダンスのステップを踏んでいるという感じだ。

 行き交う人々は、自ら進んで避けた。すれ違おうとも、眼を合わせることを拒む。

 運悪く合ってしまった――と思った者は、そばにあった建物に入ってやりすごした。

 彼は、実際酔っていた。酒ではなく、アヘンチンキで。

 彼の名誉のために言っておくと、彼は決して好きでそんなもので酔っているのではない。そもそも彼は、そんな類のもので酔おうとする馬鹿ではない。

「痛むんだったら舐めておけ」と、医者から処方された痛み止めがアヘンチンキだっただけだ。

 全く別の世界の全く別の価値観を持つ人間にとっては、狂気の沙汰だろう。アヘンチンキなんて、ご法度な危険物だし。

 けれども、新大陸フロンティアではアヘンチンキは割とポピュラーな薬でしかない。

 痛み止めと書いてアヘンチンキとルビを振ってもいいぐらいに。


「ッと!」


 大きくよろめく。咄嗟に手を伸ばし、軒の柱を掴んで転倒するのを回避する。

 その辺に屯っていた子供たちが、黄色い声を上げて逃げていく。

 それが悲鳴か歓声か子供が上げる単なる奇声だったのかは分からないが、今は無性に癇に障った。

 出来ることなら、首根っこを引っ掴んで尻を蹴飛ばしてやりたい。

 普段、路傍に転がる馬の糞みたく当たり前のものですら、彼にとっては不愉快なものでしかなかった。

 それぐらい、今の彼は気分を捻じ曲げていた。

 それもこれも――

 唐突に思い出したお陰で、不快感が胃の腑から頭へとせり上がってくる。

 帽子の上から頭を押さえようとして――しかし、手が触れたのは帽子を形作る布の感触ではなく、彼自身の髪だった。どうやらどこかに落としたらしい。


「クソがっ」


 とにかく、なにもかもが今の彼にとっては気分を害するものだった。

 それこそ全てが、彼に対して悪意を向けているようにしか思えない。

 だから、ふと思わざるをえない。そうであるのは、自分が【ピンカートン探偵社】の探偵であるためなのだろうか。

 思い上がりもいいところである。もっとも、今の彼にそんな自覚などないだろうが。

 確かに、彼は【ピンカートン探偵社】の探偵である。しかし、一人前ではない。

 そうでなければ、こんな馬鹿なヘマなどしない。功を焦るあまり、本来であれば監視対象となる人物に接触を図るなど。

 で、このザマである。

 ヘマに対するツケが返された瞬間を、彼は生涯の屈辱とするだろう。

 思い返すだけで、はらわたが全部シチューになるんじゃないかってくらい煮え滾る。

 忘れもしないあの時、彼は例の人物を見つけたのだ。上司が血眼になって探し、軛にかけようとする人物――の連れ添いと思わしき人物を。

 正直、チャンスだと思った。その人物に辿り着けたのが、まぐれであったとしても。

 本来であれば、上司に報告すべきことだろう。理由はどうあれ、【ピンカートン探偵社】から調査もしくは捕捉の対象とされた者は、その目が届く範囲に置かれるべきなのだから。

 故に、彼は過ちを犯す。折角見つけたチャンスを逃すなど、ブロンドの美姫からのベッドの誘いを不意にするようなものだったから。

 もし外れたら、という心配はなかった。

 仮に外れたとしても、「あれは冗談だった」と笑い飛ばせばいい。なんなら、金を払って本当に客になってもよかった。

 だから、あの時――


「美しいお嬢さん、どうかあなたを崇拝させてください!」


 しかし、次の瞬間、その場に駆けつけてきた怒り狂える大女の鉄拳が、手加減抜きに彼の顔面に叩き込まれていた――で、今に至る。


「クソがっ!」


 思えば、彼はいつもこうだった。

 大衆小説ダイム・ノベルに登場する主人公たち――無敵の保安官や名うてのガンマンの活躍に憧れ、しがない牧場経営に汗を流すだけの実家を飛び出して、【ピンカートン探偵社】に入社した。

 けれども、待っていたのはスリルと冒険に満ち溢れる日々ではなく、ただひたすら上からの命令に従って雑務を黙々とこなす使い走りの日々。

 才能を見込まれ、出世していく奴もいる。しかし、それはほんの一握りだ。

 そして、彼はその一握りに選ばれなかった。未だに使い走りのままだ。

 自分のミスを都合よく忘却して、彼は勝手に苛立っていた。

 それ故、また過ちを犯す。

 彼の視界が、馬繋ぎにもたれかかってぐったりしているそいつの姿を捉えた時。

 忘れようもない、見間違えるはずもないそいつは、あの時みたくステットソンハットを被っておらず、似合ってもいないストールを付けていなかった。

 しかし、分かる奴には分かるのだ。なにせ、そいつは到底ありえないものを、己が身でもって語っている。

 なにも被っておらず、むき出しになった頭が――女であるにはあまりにも短すぎる、髪の長さが。

 勿論、彼は知らない。姿を捕捉したそいつことアトリが元々いた世界では、女が髪を長く伸ばすも短くするも自由で当たり前だということなんて。

 けれども、そんなことを知るはずのない彼にしてみれば、そいつの頭――正確にはその髪は、到底ありえないものでしかなかった。

 男からすれば、髪なんて長ければ邪魔なだけのものだろう。

 されど、女からすれば髪は、長く伸ばすそれは、命と同等の大事なものなのだ。

 気性の荒い女の無法者アウトローども、或いは、無法者アウトローと関係を結ぶ情婦たちですら、編むか結うかして大事にするのだから。

 彼は、歩み出す。足取りは相変わらずであるけれど、そいつの――アトリの方へ。

 今再び見つけたチャンスを、不意にすべきではないからだ。

 よく見れば、参りきって弱っているように見えた。だが、彼にとってそれは好ましい。状態はあまりよくないが、いいように料理してやる分には十分だ。

 なにせ、相手は【ワイルドバンチ強盗団】の一員だ。

 いや、彼の考えが正しければ、単なる一員で済まされないだろう。

 主幹的立場の連中と同格であるに違いない――いや、それ以上ってことだってありえる。


 例えば、特別な何かだとか。


 彼は、歩みを進める。

 見逃せば、おそらく、次はあるまい。

 なにがあろうと、なにがなんでも、捕捉するのだ。

 そうすれば、彼に待っているのは華々しく煌びやかに飾られた出世の道。

 その先に待つのは、約束された栄光。

 

 しかし、直後、背中に馬鹿でかい衝撃。


 思いきり無様にすっ転ぶ。

 一瞬、呼吸が詰まる。食らわされた不意打ちの衝撃は、それだけ威力があった。

 なにが起こったと困惑する彼の前を、犯人――否、犯犬が悠々と駆け抜けていく。

 フォーンホワイトの毛色のウェルシュコーギー犬――マックスだった。もっとも、彼はそんなことを知るはずないのだけど。

 道行く誰かが歓声を上げ、口笛を吹き、手を叩く。喝采が起きる。

 ウェルシュコーギー犬マックスは、さながら大衆小説ダイム・ノベルの主人公だ。

 不埒な暴漢からか弱い少女を救うべく颯爽と馳せ参じた、【英雄】だ。

 その圏外で、彼は立ち上がる。

 感情の沸点は、最早上回っていた。

 見れば、ウェルシュコーギー犬はこちらに向けて吠え声をぶつけまくってきているではないか。怒声を放ちかけ――しかし、再度、背中に衝撃。

 だが、今度は踏み止まる。先程と比べれば、微々たるものでしかなかったからだ。

「なんだァあ!?」

 向く矛先が急な方向転換をさせられてしまったせいか、語尾がおかしいことになる。それに彼が気付くことは、最期までなかった。


「キエン・エス」


 奇妙な言葉を発した相手と、眼が合う。

 狂気に潤んだ、若葉色リーフグリーンのそれと。

 銃声。













 上がる幾つもの悲鳴。逃げ惑う人々の姿。

 投下された恐怖は約束されていたはずの平穏を、いとも簡単に引き裂く。

 ただ一度の銃声が、当たり前であるのが当たり前な平和を容易く打ち砕く。

 日暮れ前のさざめきは、最早ない。

 当たり前であったはずの平和が、既に打ち破られてしまったからだ。

 ことを起こした、張本人は、悠然とその場に立っていた。

 手には、銃。その側には、死体が転がっている。

 キエン・エスが撃ち殺した【ピンカートン探偵社】の男の。


「キエン・エス」


 狂気に潤む【不死者】の眼は、アトリをじっと見据えていた。













 もし普段通りなら、その場の人間を全て殺していたはずだ。

 そうしなかったのは、キエン・エスのただ単なる気紛れであり――そして、珍しく機嫌がよかったためでしかない。

 キエン・エスの手には、銃があった。コルトM1877・ライトニング――奇しくも、かつての彼の得物であったものと同じ型のものが。

 数多くの【英雄】たちが得物としたと伝えられる、名銃の中の名銃と謳われる銃だ。

 前方を見据える。

 きちんと憶えていた。

 あれは、探し追う獲物――の側にいた者だ。

 キエン・エスは歩みを進める。得物を向ける。

 その左腕に、がっぷりと噛みつくものがいた――ウェルシュコーギー犬マックスだ。

「ヴゥヴヴヴヴッ!!」だか「ガヴゥヴヴヴッ!!」だか聞き分けのつかない唸り声を上げて飛び掛かってきたのを、キエン・エスは腕の肉が抉れるのも構わず引きはがす。

 そのまま思い切り地面に叩きつけてやれば、ぐったりと動かなくなった。

 今回の目的は、人間どもを殺戮することではない。

 殺すのは【不死者】ただ一人。

 その【不死者】の名は、ブッチ・キャシディ。

 キエン・エスと同じ存在。

 故に、口元が緩む。殺してやれば惨めな死に様を晒し、物言わぬ骸と化すのが人間だ。

 けれどもし、【不死者】であるのなら、一体どのようなものに成り果てる?

 












 キエン・エスがアトリを見ている一方、アトリもまた、キエン・エスを見ていた。

 けれども、アトリはキエン・エスのことなんか見ちゃいない。ただ、その姿を視界に入れているだけ。

 現に、目の前に立つのがどのような存在であるのか判断出来なかった。

 ショックに打ちひしがれ、心ここに在らず。顔を上げたのだって、反射的な行動でしかない。

 アトリは、ただぼんやりとそれら――今起こることをただ漠然と見ていた。

 撃ち殺された、見知らぬ男の人。

 平和を打ち砕かれ、パニックを起こして逃げる町の人々。

 アトリを護ろうとして、地面に叩きつけられたマックス。

 それら全てを起こした元凶は、【不死者】キエン・エス。

 この流れでいくと、わたしは殺されるのですね――と、アトリはどこか漠然と思った。

 いや、確実に殺されるだろう。頭か胸かどこか分からないけれど、撃ち抜かれて終わる。


【異世界】という異境の地で、アトリは死ぬ。


 なにせ、キエン・エスの手には、銃があるのだから。

 そういえば前にもこんなことありましたっけ? と、アトリはどこか漠然と思う。

 あれは確か――そう、ブッチがザ・サンダンス・キッドの名前を名乗っていた頃。

 どういうわけかいきなり来てしまっていた【異世界】の荒野をうろうろ彷徨っていたら、幌馬車で通りかかったブッチに助けられた――かと思ったら、腹パンを入れられて失神させられ、お持ち帰りされた――かと思えば、そこでブッチは自分の得物の片一方のコルトM1851で頭を撃ち抜いたんだった。

 でも、あれはブッチが自分が【不死者】であるってことをアトリに思い知らせるがため、銃で自分の頭を――


「……ぇ?」


 思わず、声を上げてしまう。

 何故なら、気付いてしまったのだから。

 キエン・エスが現在進行形で行っているある行動が、本来であれば、ほぼ絶対にありえないことに。

 もっとも、普通気付けないんだけど。


「……あれって、まさか……?」


 キエン・エスをよくよく見ると、銃の扱い方がおかしい。

 アトリが知る限りの話、ガンマンはガンマンの利き手じゃない方で銃を撃つなんてしないはず。

 やるとすれば、西部劇ぐらいだ。唯一の例外は、クラウス・キンスキーぐらいだったと思う。

 でもあれは、芝居だからこそ出来る撃ち方のはず。

 それを、キエン・エスはガチで行っている。

 ありえない話だ。銃弾の一撃に全てを賭けるガンマンが、そんな事をするなんて。

 ごく自然に、当然のように。

 なんていうかここまで見てしまうと――キエン・エスがやらかしまくることは【英雄】的ですらあった。

 もしかすれば、キエン・エスは【英雄】であったのかもしれない。

 その時代において、当たり前のように伝説を創造しつくってしまう【英雄】そのもの。

 神話に登場する神々でも英霊でもトリックスターもなく、【英雄】――血が通った生身の人間でありながら伝説を創造すつくる存在。

 実際、アトリは知っている。ガンマンの利き手ではない方の手で伝説を創造した【英雄】を、たった一人だけ。

 銃声。

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