Chapter 5


 ブッチが挙げたそれは、私立探偵の基礎の代名詞。アトリが元いた世界においては、西部開拓時代に創設された、アメリカ最古の探偵社。後のアメリカの警察機関の一つとなる連邦捜査局Federal Bureau Investigation、所謂FBIの基礎を作ることとなる組織。

 ちなみに、西部劇の世界においては、皆が満場一致で認める敵役の代名詞だ。だって、本来であれば悪であるはずの無法者アウトローより唾棄すべき存在として描かれてばかりいるし。

 けれど、仕方ないと言えば仕方ないかもしれない。大抵の西部劇って、無法者アウトローの存在を美的に描いているし。


「最盛期……創設者アラン・ピンカートンが健在だった頃はマジでやばくてよ、噂じゃ、連邦正規軍フェデラル・フォースの将兵を上回る数の探偵を抱えてたっつーしさ」


 それぐらいいたって別におかしくないと思う。

 史実における【ピンカートン探偵社】の探偵の数は、最盛期にはアメリカ陸軍の将兵の数を上回っていたというし。

 そう言うブッチの言葉には並々ならぬ憤懣が内包されている。

 分からないわけじゃないんですけど、とアトリは胸中で呟く。

 ブッチはボリビアの地で死んだことになっているはずである。一応、生存説が主張されているけれど、だからといって【不死者】という存在に成り果てて生き延びているなんて流石に誰も思いもしないだろう。だから、もしそれがバレたら、色々大変なことになりかねないのだ。

 それはともかく、ブッチにとって嫌悪の極みもいいところだろう。【ピンカートン探偵社】が【ワイルドバンチ強盗団】の撲滅、及び首魁ボスであるブッチの拿捕に並ならぬ執念を燃やしていたって話は、知る人の間じゃ有名な話だし。

 一説によれば、過去に追っていた別の無法者アウトローの組織を自分たちの手で撲滅出来なかった汚名を晴らすためだったらしい。

 とにかく、【ピンカートン探偵社】がブッチ及び【ワイルドバンチ強盗団】と並々ならぬ因縁を持つ相手であることに違いはあるまい。

 ちなみに、これはあくまでもアトリの独断と偏見なのだけど、西部劇における【ピンカートン探偵社】の立場っていうのは、現代日本でいうところのアニメや漫画に登場する、架空の警察系特殊部隊みたいなものだ。

 なにかに例えるのであれば、赤いジャケットがトレードマークの世界的に有名な大怪盗の孫が率いる一味を追う選任捜査官が所属している某国際警察機構みたいなもの――って、あの設定はアニメ版のみに限定されるもので、現実における某国際警察機構はそういう活動はしていないはずだったような。


「……実はわたし、とんでもない領域に踏み込んでませんよね?」

「そぉか? あ、もう一杯頼まぁ」


 吐いておきながらまだ飲むのかと呆れかけて、ふと気づく。ブッチにばれていないだろうか?

 そう思うだけで、胸中を走る神経にずきずきしたものが走るのを、意識せざるをえない。意図的な瞬きを数度する。


「……ふーぅ」


 息を細く、長く吐き出して、力を抜く。胸元で堅く握りしめられ、拳の形をとっていた手が、開かれる。


「……なんだかなぁ」


 苦いものが滲み出てくるのを、アトリは意識する。ブッチから貰ったお守り、ぴかぴかだったはずの懐中時計の金の輝きは、たった数日で失われてしまっていた。


「けどよ、問題はそれだけじゃないだろうぜ」

「……はい?」

「分からねぇってのか?」

「……なにをですか?」

「つーか、アトリ……まさか自覚してねぇわけねぇよな?」

「……自覚? ……自覚って、何をですか?」

「お前自身のことについてだよ」

「……わたし自身のこと、ですか?」

「俺が思うに、お前、はっきり言ってヤバいんじゃねぇか?」

「……!!」

「アトリ?」

「……え、えっと、あの……その」

「ンな、キョドらんでも」

「……で、でも」


 そんなことを言われたら、誰だってキョドるに決まっている。無意識のうち、胸元のお守りを握っていた。縋るように、強く握りしめていた。


「けどまぁ、そうは言ってもだけどよ」


 だが、そんなアトリに対してブッチが放った言葉は、見当違いもいいものだった。


「なんつーか、お前の存在っつーモンがな」

「……はい?」


 藪から棒どころか、青龍刀でも突き出された心地だった。


新大陸フロンティアどころか旧大陸ユーラフラシアでも前例が無ぇってんだぞ、こんなこと。【異世界】があるっつーことも、理由がどうあれ、そこの人間がこの世界にやって来ちまったなんてことも。もしそれが下手に知られてみろってんだ」


 叱責の内容は、見当違いも甚だしかった。

 けれども、バレてなかったと思うと、正直ほっと出来る。

 でも、どういうわけか、胃の中の温度がふつふつと上がり始めている。


「って、聞いてンのか、アトリ」

「…………」

「アトリ?」

「……ブッチさんの、この、オタンチン!」


 思わず、真正面から思い切り怒鳴りつけてしまった。そうしたからって、気持ちがどうにかなるわけじゃなかったのだけど。













 くどいようだけれども、この【異世界】は十九世紀アメリカの西部開拓時代を模した、西部劇の世界観に近いものである。

 そんな【異世界】での生活は、アトリが思っていたよりずっと楽しいものだった。食事はおいしかったし、変な病気にかからなかったし、治安だって想像していたよりずっといい。

 そうして日々が流れていき、アトリは次第に【異世界】に馴染んでいく。

 クラリスとクラレントとはもうすっかり仲良しだし、アルファベットの羅列からものの意味を読みとれるようになってきたし、雑貨屋程度の場所だったら一人で買い物にも行ける。

 それになにより、ブッチが用心棒兼ガイドとして傍にいてくれる。タチが悪そうな輩に絡まれそうになったら庇われるアトリの方が怖気づくくらい豪快な啖呵を切って護ってくれて、一番の話し相手になってくれて、分からないことがあれば教えてくれてと、【異世界】生活が満喫できるのは、外ならぬブッチのおかげだった。

 そんなこんなで、考え方が随分柔軟になった気がする。銃声を聞いても、最初の頃よりあまり動じなくなってきたし。

 普通、銃声を聞くとなれば、余程の事態に直面しているってことになるだろう。銃刀法なんていう法律が定まっている日本では。

 しかし、ここは【異世界】だ。日本に日本なりの法律や風俗や習慣があるように、【異世界】には【異世界】なりの法律や風俗や習慣がある。

 西部劇では、酒場のランプを吹き飛ばしたり、気に入らない相手を殺したり、敵対関係にある同士で撃ち合いを繰り広げたりと、銃撃のシーンはお約束であるはずだけれども、そんな世界を模しているはずのこの【異世界】ではそんなこと、まずなかった。

 保安官や無法者アウトローはともかく、真っ当に市井に生きる人であれば、銃は武器じゃなかった。釘や杭を打つためのハンマーの代用品であり、害獣であるコヨーテや熊を威嚇して追い払うものであり、有事を知らせるための信号弾であり、病気や怪我で動けなくなった家畜を安楽死させるものであり――と、なんていうか銃は単なる道具でしかなかった。

【異世界】生活を満喫していくうち、アトリは一種の何ものにも囚われないような存在になっていく。













「失礼、ここは空いていますか?」


 男が顔を上げると、いつの間にか誰かが車室に入ってきていた。

 炎を思わせる赤毛に、ライトブラウンの眼の男だ。

 観に纏うのは、チャコールグレイのスーツ。山高帽子を被り、手には旅行鞄。

 細身というより、身軽そうな印象が強い。

 一瞬カウボーイかと思った。だが、泥臭い肉体労働に従事する者にしては随分知的に見えるような気がした。もしかすれば、技術師かもしれない。外で頭脳労働するような。


「どうぞ」

「では、遠慮なく」


 旧大陸ユーラフラシアにおける男の祖国、ブリターニアの作法では、あとはお互いの旅がよきものとして終わりますようにという挨拶をで会話を終わらせるのが定番だ。


旧大陸ユーラフラシアの方ですか?」


 だが、相手はそのまま会話を続けてくる。


「ああ、はい」

「エステ・ライヒかブリターニアの方とお見受けしますが?」

「ブリターニアの者です」

「どちらまで行かれるのですか?」

「まあ、気の向くまま、あちこち見て回ろうと」


 異文化交流は悪いものではなかった。見知らぬ同士であっても、会話を楽しめればいいのだ。


「申し遅れました。僕は、フィリップといいます」

「トーマス・アップルヤードです。……無法と混沌の新大陸フロンティアへようこそ、ミスター・フィリップ」













「おや、それは?」


 アップルヤードが、男の傍らに視線を移す。


「ああ、これは」男は手に取って、アップルヤードに見せる。「僕の旅のお供でして」

 それは、書籍だった。青い革の装丁の拍子に、【The Adventure of Sherlook Holmes】と金箔で文字が押してある。


僕の祖国ブリターニアで、今流行っているんです」

「ほぅほぅ」

「もしよければ、ご覧になられますか?」

「では、お言葉に甘えて」


 興味津々といった様子で、アップルヤードは書籍をまじまじと眺める。


「ほぉう、これはなかなか……」

「でしょう? 持つのは天才的な観察眼と推理力、性格は極めて冷静沈着、地を這ってでも真相を逃すまいとする活動家、世界唯一の【顧問探偵】!」

「成程、成程」


 何度か頷くと、アップルヤードは書籍を男に返す。


「よいものを見せていただき、ありがとうございます」













 汽車は、順調に進んでいく。ハリケーンに遭遇することも、バッファローの大群に足止めをくらうことも、原住民エン・セラードスの襲撃を受けることもなかった。

 そのお陰で旅行鞄に忍ばせていた銃――護身用であり、男の祖国ブリターニアにおいては紳士の嗜みであるブリティッシュ・ブルドッグ・リボルバーに活躍の機会は与えられなかった。


「平和ですねぇ」

「ええ、いいことです」

無法者アウトローと鉢合わせしないで済みましたし」


 男としては、ちょっとした冗句のつもりだった。


「ほら、新大陸フロンティア無法者アウトローによる襲撃ってある意味お約束だっていうじゃないですか。特に列車強盗。走る列車を襲って、金目のものを鮮やかな手際で奪っていく……ほら、かの有名な【ワイルドバンチ強盗団】みたいに!」

「成程、成程」


 そうして話が終わった頃合いを見て、アップルヤードは席を立つ。


「あなたのお話は、なかなか面白かったですよ……けどね、あなたは一つ、大きな勘違いをしていらっしゃる」

「勘違い?」

「僕に言わせれば、その書籍に綴られている物語の主人公、あなたが焦がれ愛する【顧問探偵】は、あくまでもあなたの常識の範囲内における【英雄】の虚構じじつでしかない」

虚構じじつ、ですか?」

「作り上げられた実話ですよ。真実によらず、作り事のみに基づく伝記、とでも言うべきものですかね」

「え?」

「僕に言わせれば、始末が悪いものでしかないんですよ」


 ライトブラウンの目はひどく強く、そして深い反感があった。少なくとも、男にはそうに見えた。もっとも、そう言うアップルヤードの真意なんて分からなかったのだけれども。

 そして結局、男に真意を明かさぬまま、アップルヤードは次の駅で降りてしまった。






 寂しくなった車内で、男は書籍を読んでいた。

 ふと、なんとなしに呟く。


「そういえば、新大陸フロンティアにも探偵っていたんだっけ」


 だが、男が知る情報はそれだけだ。


「アップルヤードさんに聞けばよかったかな? 現地の人だし、ちょっと変な理屈を持っていたし……ああいう人がもし、探偵だったら面白いかもな。まぁ、我らが【顧問探偵】には到底敵わないだろうけれど」













「【顧問探偵】ね」


 一人ごちて、懐中時計をしまう。


「芝居見物と薬物吸引が好きで、戦争帰りの医者を助手にバイオリンを弾きながら、好奇心を正義に変換するような探偵なんてとてもとても……って、おっと!」


 傍らを、子供たちが駆けていく。ぶつかれば、大惨事だ。なにせ、手にアイスクリームを持っていたのだから。

 アップルヤードは町を歩く。

 煉瓦ではなく木造、突貫ではないけれど急いで建てられた建物が連なる。

 舗装されていない道は、馬車が通れば砂塵が舞う。

 行き交うのは、肌の色も目の色も様々な人々。

 顔つきは皆明るかった。無法者アウトローが放つ銃声に晒されていないに違いない。

 保安官事務所の前を通りかかったら、暇そうな保安官がパイプを吸っているのが見えた。臨時保安官補の姿は見当たらない。

 平和なのだろう。意識せず笑うことが出来るのは、平穏な心を持って生きている証なのだ。

 そんなことを思いながら、歩く。酒場サルーン、雑貨屋、娼館、銀行、郵便局が建ち並ぶ通りを。

 そうこうしているうち、お目当ての場所に着く。荒野と町を隔てる境にあるのは、馬囲いだ。

 柵の内に、馬たちが入れられている。町の住人やカウボーイたちが乗る用の馬、新大陸フロンティアにおける主な移動手段アシだ。

 見張りの姿はない。そもそも、人間の姿が見当たらない。馬泥棒が望むシチュエーションだが――


「人払いは、済ませていますね?」

「ソの通り、コこにてワタクシはアンタをお待ちしていましたヨ、ミスター・アップルヤード」


 肺を毒された老人と舌足らずな童女の声が入り混じった、奇妙な声が出迎える。しかし、その声の主の姿はない。

 どことなく視線をやれば、それはあった。プレーリードッグの巣穴みたく小さな穴が。

 本来、見つけられたら埋められてしまうものだ。うっかりはまってしまえば、馬の脚を折ってしまう危険性がある。


「もっとましな接触が出来ないんですか【ケルビム】?」


 件の声は、驚くべきことにその穴の中から聞こえてきている。しかし、知る者にすれば驚くべきことではない。上からの指示と情報を、姿を見せることなく、声のみの接触で対象者へと伝達する――これが、彼もしくは彼女である【ケルビム】の手口なのだから。


「遠路はるばるご苦労でしたヨ、アップルヤード?」

「何故、疑問形なんです?」

「今のアンタがアップルヤードだっていう確証はないからナ。アる時のアンタはラズベリージャム、アる時のアンタはプラムプディング、アる時のアンタはメープルポリッジ」

「アップルヤードで合っていますよ、【ケルビム】」

「ソぉかイ、シリンゴ」

「僕としては、出来れば名前で呼んでほしいんですけどね、親しみを込めて、チャーリーって」

「誰が呼ぶカ、正直呼びたくもねぇヨ。ドんな無法者アウトローでもその名を聞けば小便漏らして裸足で逃げ出すようナ、アンタの名前なんてサ」

「僕、嫌われてますね」

「アンタの名前は悪魔と同義だろうガ」

「ひどい、実にひどい」


 アップルヤード――否、チャーリー・シリンゴは、そう言いつつも笑っていた。


「しかし、結構なことですよ。悪魔なんて言われよう、僕にはある意味勲章ですし。それに、悪魔、悪魔ね。結構、大いに結構じゃないですか。無法者アウトローに接する境遇であればこそ、その無法者アウトローどもとの闘争、紛争、抗争、戦争……全部が全部、やりがいがあるってものです。むしろそれが無ければ僕に……いえ、僕たちに存在意義なんてありません。法の下に生きることを拒絶するだけならともかく、正しく生きようとする者たちから奪い、盗み、犯し、騙す無法者アウトローを、決して赦さず、決して逃さない。

 そうでしょう? 

我々は決して眠らないWe Never Sleep』……それが我々が共有し合う唯一の正義にして掟なのだから」


 そしてそれは、社訓でもある。

 シリンゴが言う我々こと、【ピンカートン探偵社】の。


「それはともかく、情報提供感謝しますよ【ケルビム】。例の件、彼の者に関してなのですが」

「ソう焦るなヨ。落ち着けっテ、マた遥か彼方のボリビアまで逃げられたくなけりゃあナ」

「また? そんなのありませんよ。そんなもの、あってたまりますか!」


 シリンゴは、凶悪に笑っていた。虎のごとき獰悪がむき出しに浮かぶ面構えは、執念に燃える探偵そのもの。


「大強盗たるお前を……! 無法者アウトローの王たるお前を……! 【ワイルドバンチ強盗団】の首魁ボスたるお前を……! 時の新大陸フロンティアの伝説たるお前を……! そもそも、ブッチ・キャシディというお前を……! この僕が、【ピンカートン探偵社】の一員たる僕が、このチャーリー・シリンゴが、またもや取り逃がすとでも」

「アー、ア―、燃えているとこ悪いんだけどヨ、実はそれに追加事項があるんだガ」

「なに……!?」


 赫怒すいかれる虎のごとく激情を吐き出していたシリンゴだったが、途端、冷静を取り戻す。


「すると、すると、ということは……!」

「アあ、ブッチ・キャシディはボリビアにおけるあの現場で死んでいなイ。

 ソしテ、実は死んでいなかったブッチ・キャシディの所にハ、今一人連れがいるってヨ。モしかすりゃあ、ソイツが」

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