Chapter 3
旅行鞄を手に一階に降りた時、大家と鉢合わせする。
「おや、お出かけですか? アップルヤードさん」
「ええ」
声をかけられた側は、笑顔で応じる。大家が知る「アップルヤードさん」の笑顔で。
「少し遠くの方へ行く予定でして」
「また、お仕事で?」
「ええ、けど、ちょっと今回は長くなりそうでして」
「いいって、いいって。それより、お気をつけて」
大家にとっての「アップルヤードさん」は、礼儀を弁える常識人だ。どんな仕事に就いているか分からないけど、他の住人と違って家賃を滞らないのだから。
「それはどうも、では」
「アップルヤードさん」は「アップルヤードさん」としての挨拶をして、半年暮らしたアパートを出る。
もう、ここに戻ることはない。
通りに出ると、「アップルヤードさん」は空き馬車を呼び止める。「アップルヤードさん」の姿を目に留めると、御者は馬のスピードを緩めて停まってくれた。
風体をきちんとしていると、こういう時便利だ。チャコールグレイのスーツで身をばっちり固め、型崩れしていない山高帽子を被る「アップルヤードさん」は、どこからどう見てもまともな人間だ。
しかしそれは、「アップルヤードさん」を一目見ただけの人間が抱く印象でしかない。
「駅へ向かってください」
御者の手に貨幣を握らせる。
「なるべく、急いで」
旅行鞄を荷台に乗せ、御者は馬に鞭を入れた。馬車が動き出す。
過ぎていくイエロの町の風景を見ながら、「アップルヤードさん」は脳内で情報を広げる。
情報がもたらされたのは、十日前のこと。「アップルヤードさん」が所属する組織から至急で届けられた文書に、それは綴られていた。
彼の者の生存を確認。
秘密裏のルートに通じる者、組織に属する人間とその協力者にしか分からない暗号で。
グラスに注いだ中身を、ブッチは一気に呷る。度数の高いアルコールが喉を焼き流れ、胃の腑に落ちていく。
「いや、あれぐらい
「……うぶぅ」
ベッドに顔を突っ伏す、さっきからずっとこんな調子であるアトリに、ブッチはほとほと手を焼かざるをえなかった。
「はっきり言うがよ、頭抱えてぇのはこっちだっつーの」
「……ぇうー」
「ァー、もういい加減にしろってんだよ! たかが銃声の一発や二発ぐらいで、そこまでビビるこたぁねぇだろうによ!」
引き金を引けば、銃声が轟く。それは、
しかし、アトリにとっては当たり前ではない。銃声を聞くなり、悲鳴を上げてしゃがみこんだのだ。
そんなアトリは、何事かと向けられる視線の集中砲火に晒され――
「どうしてくれるってんだよ、全く。お前のおかげで。俺はかかんでもいい恥をかいたんだよ!」
「……無茶言わないでください」
「別に、無茶もクソもねぇだろうが、このバカタレ!」
ブッチはそんなアトリを引きずり立たせ、とりあえず目に留まった
「……だって、まぢで怖かったんですよ、まぢで。……誰か撃たれたんじゃないかって思ったんですよ、まぢで」
「だからって、お前なァ……」
後で分ったことなのだが、例の銃声は、誰かに向けられたものではなかった。
カメリオの町からやや離れた場所で落馬事故が起こり、受け身をとり損ねて腕を折った乗り手が、空へ向けて引き金を引いただけ――謂わば、即席の救難信号が打ち上げられただけだった。
けれども、アトリにしてみれば銃声が轟いている時点で、何かあったとしか思えないわけで。
「……だって、だってですよ? ……真っ当な日本人っていうのはですね、銃声なんて一度も聞くことなく生涯を終えるのが当たり前なんですってば!」
「どういう当たり前だってんだよ、ソイツぁ!?」
「……多分、日本に限定されますけど、元の世界じゃそうだったんですよ!」
しかし、この発言は結果としてブッチの好奇心に火をつけることになる。
なにせ、アトリにとっての真っ当や当たり前は、ブッチにとっては狂気の沙汰でしかなかったのだから。
「コヨーテとかピューマに襲われたら、ひとたまりもねぇぞ!?」
「……どっちも日本に生息していませんって」
「熊の場合はどうすんだってばよ!?」
「……新聞を見る限り、出没するのは東北地方とか北海道の山間ぐらいです」
「ガラガラヘビは!?」
「……蛇はいますけれど、ハブはともかく、アオダイショウとかヤマカガシみたいに大人しいのばっかりしかいませんよ。……大体、ガラガラヘビなんていたら、警察沙汰になりますって」
「じゃあ、バッファローは!? ワニは!? スカンクは!?
「……いませんって。……いるにしたって動物園ですよ」
「ニホンにはチュパカブラがいるのかっ、マジかっ!?」
「……いるわけないでしょう! ……いてたまりますかっ、あんなもの、現実に!!」
アトリはブッチを睨んだ。
「……ブッチさん、あなた、日本人をなんだと思って」
「お前を見て話しを聞く限り、
「……なんですか、
「俺が生まれる前に死んだっつー、どっかの偉い髭の政治家の諸玉の演説の一端だ」
「……ってか、諸玉の演説の一端が
「ちなみに、女の……それもお前くらいのガキんちょの口から
その一言で、アトリの中で、ぶぢんっ! と何かが切れた。
「うわぁぁぁああん! もぉ嫌ぁぁぁぁなんなのこの人この世界ぃぃぃぃぃぃぃ!!」
恥も外聞もへったくれもかなぐり捨て、アトリはただただ叫ぶ、叫び散らす。
「あー、もー、どうすっかなぁー、これってばなぁー、俺ってばなぁー」
そんなアトリに対し、ブッチは半ば自棄気味に言葉を吐くと、グラスに再び中身を――部屋をとるついでにカウンターの上から拝借してきた酒のボトルの中身を注いで、また一気に呷る。
だが、これはまだ始まりにすぎなかったのだ。
二人がカメリオの町へ来て、早数日。その間、アトリはしょっちゅうアクシデントを起こした。
といっても、金銭面とか人間関係とかではない。
かといって、ブッチとの間で諍いが起こったわけでもない。
アトリにとって
だから当然かもしれないけれど、受けっぱなしだった。カルチャーショックってやつを。
ダイナマイトが普通に売られているのを見て「うわぁ!?」、人殺しより窃盗の方が重罪と知って「ぎゃあ!?」、絞首台で子供が遊んでいるのを見て「ぎにゃあ!?」ってなった。
けれども、これら以上にアトリがギョッとせざるをえないことがあった。
「……冗談抜きに銃社会じゃないですか。……寧ろ、武器天国というべきか」
この【異世界】の人間たちは、平気で武器を所持する。主に、銃やナイフを。
これ見よがしに身に付けていたり、服に忍ばせていたり、連れている馬に積んでいたり。
漫画やラノベでいうところの、クライムアクションとかピカレスクアクションとかの舞台になっている悪徳の町とか犯罪都市を闊歩していそうな「ヒャッハー!」な悪党じゃなく、真っ当な生活を送っている一般人がだ。
銃刀法という特殊な法律によって守られている日本でずっと生きていたためかどうかは分からないけれど、【異世界】におけるそんな当たり前は、はっきり言って心臓に悪かった。
背後から突然撃たれるのではないか、擦れ違い様に刺されるのではないか、いつ勃発するか分からない銃撃戦や組織抗争いに巻き込まれるのではないか、とにかく、気が気じゃなかった。
ブッチが用心棒として側にいてくれなければ、精神がまいっていたかもしれない。冗談抜きに、本当に。
「とりあえず、雇われている身で、報酬もらっときながらこんなこと言うのもアレだけどよ」
ベッドで膝を抱えるアトリを、ブッチは立ったまま見据えた。
ほぼ完全に、お説教の姿勢だ。
【ワイルドバンチ強盗団】の
様々な連中、それこそ扱いやすい単純な者から
はずだったのだが――
「ここがお前にとって未知なる世界だってことは、俺にも分かるってんだよ」
「…………」
「けど、それを分かってるのは、そういう事情を知ってるのは、俺のみに限定されていてだな」
「…………」
「そういうわけでな」
「…………」
「とりあえず、俺が言いたいのはな」
「…………」
「ちったぁ折り合いぐらいつけやがれってんだ、お前が元いた世界との」
そういう連中の内に、女がいなかったわけじゃないけど、少女はいなかったはずである。
それも、住む世界自体が異なっているという経緯を持った。
「聞いてるか?」
「…………」
「聞いてるかって聞いてんだけどな、俺ぁ」
「……聞いてますけど」
答える声は、砂塵に晒され続けた雑草みたくしおれていた。知識と文字を教授することを任せてくれと言った時の覇気など、とっくの昔にしぼんでしまっている。
「……聞いてますけど」
「あのなァ! お前、いい加減に」
しろ! とは続かなかった。ぐすぐすと鼻をすする音が耳に飛び込んできたのならば、尚更。
膝に額をくっつけていたため、目元は見えなかったけれど、歯を食いしばるように目をつむって、なんとか必死に耐えようとしているのは分かった。
「なんつーかなぁ……」
被りっぱなしだったステットソンハットを脱ぎ、気まずそうに頭をかく。こんな事に直面するのは、初めてだったから。
「とにかく、その、あれだ。背伸びすんの、止めたらどうだ? お前、気張りすぎていやしねぇか?」
「…………」
「折り合いを付けろとは言ったぜ。けどな、無理強いした憶えはねぇよ」
「…………」
「帰るんだろ? 手段を見つけて、元の世界に、自分の家に」
「…………」
「とにかく、俺が言いたいのはだな」
「…………」
「背伸びすんな。あと、気ぃ張んのも止めろ」
「…………」
「だからなァ!」
アトリの見事なまでの無反応ぶりに苛立ちが募り、思わず激昂しそうになる。
だから、ブッチは行動に出た。
「おい、アトリ」
「…………」
「アトリ、手ぇ出せって」
「…………」
「アトリ」
無言のまま、アトリはおずおずと手を差し出す。
なにかが、手の平に触れた。
「……!」
ひんやりした感触に、思わず身体が跳ねた。
思わず落としかけてしまうが、それは回避される。
「……ブ、ブッチさん!?」
「落とすなってんだ、気ぃ付けろ」
弾かれたように頭を上げたアトリが目にしたのは、差し出した自分の手を覆うように握っているブッチの両手。
「いいか? 落とすなよ」
「……!?」
「放すぞ」
アトリが反応するより早く、ブッチはそっと手を放す。
その後に残されたものを目にして、アトリは「あっ!」と短く叫んだ。
「大事に持っておけ……絶対失くすな」
アトリが何か言う前に、ブッチは端的に言い放つ。
「お守りだ」
手に握らされたそれを、アトリはまじまじ眺める。それは、年代物の懐中時計だった。
見覚えがあるものだ。さっきまでブッチの胸元にあったものだ。
「悪いまじない避けのお守りだ」
「……!」
「いや、ンな驚かんでもいいだろうが」
目をぱちくりさせて驚くアトリに、やれやれ、とブッチは苦笑する。
こんな調子じゃ、泣く子も黙る【ワイルドバンチ強盗団】の
「やっぱ、
幸か不幸か、その言葉がアトリに届くことはなかった。
「やはり、生きていたか……」
はなから、「アップルヤードさん」は信じていなかった――彼の者の死を。
そもそも、あの程度の事でくたばるようなタマではない。
それ以前に、例え彼の者が生きていようが、それとも既に死んでいようが「アップルヤードさん」はどこまでも追う、どこまでも追い続ける。
その最期を見届けるまで、どこまでも。
「この僕から逃げられると思うなよ……ブッチ・キャシディ」
「アップルヤードさん」はその名を呟く。
彼の者の名、己が宿命の大敵の名を。
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