虎の帝は華の妃を希う

響 蒼華

とある妃嬪の溜息

 かつて、この土地には力ある獣である一頭の虎が居た。

 他に同じものの居ない孤独故に、虎は暴れ、地に災いを齎した。

 そんな折に天から降りた仙女が暴れる虎を鎮め、傍に寄り添い孤独を癒した。

 仙女は植物と心を通じ、悪しきものを浄める奇跡の華を咲かせる仙女であった。

 仙女の涙に心打たれた虎は暴れる事をやめ、一人の青年に姿を転じた。

 虎は地に加護を与え、やがて人々に安寧を与える王となった。

 仙女は地上に残る事を決め、青年の妻となり、常にその側にて彼を支え続けた。

 以来、この国では、王たる虎の側には、奇跡の華がありと語り継がれる事となる……。




 温かな日差しに照らされた可憐な野の花が揺れる丘を、二人の少女が歩んでいる。

 歌を歌いながら、他愛ない話をしながら、途切れる事なく笑いあいながら。

 先を行く少女の歩みが少しばかり早くて、後に続く少女は慌てたように声を上げる。

華眞かしん姐姐ねえさん! 姐姐! 待って!』

『置いていかないから。走るな、小虎ここ!』

 先行く少女は立ち止まると、後ろの少女の足がもつれかける。

 あわやというところを、先行く少女が抱き留める。

 大事な妹を置いていくわけがない、姉――華眞がそう言って笑うと妹は――小虎は安心したように微笑んだ。

 そんな妹に華眞は咲き掛けの花を一輪詰んで渡してやる。

 手から手を移る間に開いた花を見て、小虎の顔にも笑顔が咲いた。

 小虎の笑顔を、華眞は、世界で一番美しいと思った――。



(……あれから、もう何年になるのか)


 追憶から現へと戻ってきた華眞は、そこが未だ見慣れぬ瀟洒な造りの一室である事を認識し、刺繍の施された団扇で口元を隠しながら、何度目か分からない溜息をついた。

 かつて力ある獣であった開祖と、仙女であったという皇后の言い伝え伝わる国・辿華。

 歴史ある大国の皇宮の深部に存在するのが、後宮である。

 一人の王の為に集められた、王の子を為す為だけの女の園。

 美しい衣を揺らしながら優雅に歩き、笑いさざめく艶やかな女性たち。

 その水面下で繰り広げられる、熾烈な駆け引きに、凄惨なまでの戦い……。


 しかし、伝え聞くだけの御伽噺のようなものだった……少し前までは。

 よもやまさか、自分がそこに身を置く事になろうとは全く予想して居なかった。

 しかも、宮女ではなく、妃嬪として。

 結い上げた艶やかな黒髪には動く度に涼やかな音を鳴らす繊細な歩揺、寄せられた柳眉が些か憂いを帯びて映るけれど、切れ長な黒真珠のような瞳。

 各所に緻密な刺繍の施された翠を基調にした落ち着いた色味の服装にしなやかな身を包む姿は、まず見る人が間違いなく美しいと讃えるだろう姿だった。


 しかし、美しいだけであればこの後宮にそれこそ掃いて捨てる程いる。

 数知れない美女の中から皇帝の寵を得る事が出来るのは一握りのごく僅か。ここはけして見た目の良さだけで上っていける場所ではない。

 だが、華眞にとっては正直人からどう見えるかなど如何でもいい。

 この息苦しい女の園で暮らすようになって一週間。

 既にもう面倒くさい、正直寵愛とかどうでもいいのでもう帰りたい。いや、帰れないのは勿論分かっているけれど……。


 華眞は後宮入りに際して、才人の位を賜った。

 皇后、そして貴妃、淑妃、徳妃、賢妃から為る四夫人、それに次ぐ九嬪、それに続く二十七世婦のうちの一つ。そこまで高位というわけではないが、一地主の姪に対しては十分すぎる位だった。

 妃嬪の一人となれば、当然周囲には相応の扱いをされることになり、身の回りをする侍女も宦官もつく。

 華眞にとっては、それがどうにも憂鬱なのだ。

 意地悪をされているなどではない。むしろ良くしてもらっている。

 これは、自分の性質のせいだろうと華眞は思う。世話をされるよりされたい、自分の事は自分でやりたい性分なのである。

 それに、は思うように日課の鍛錬もできない。身体が錆びついていくような気がしてしまう。夜に人目を盗んで続けてはいるけれど、淑やかに振舞わなければならない日々に鬱屈は募る。


 窓辺から見える渡り廊下に視線を巡らせば、軽やかな笑い声と共に歩いていく着飾った女性達の姿が映る。あれも妃嬪だろうか、とぼんやりと思う。

 後宮入りしてから、幾人かの妃嬪と顔を合わせる事があった。

 確かに選りすぐられて後宮に納められただけあって、皆それぞれに美しい。

 けれども、華眞は美しさについて思う時、どうしてもかつて共に過ごした妹に想いを馳せてしまう。


 妹――小虎は、血の繋がった妹ではない。

 何時だったかはもう覚えていないが、父が遠縁の子供といって引き取り育てる事になった子供が小虎だった。

 素性については父も母も多くを語らなかったが、華眞にとってそれはどうでも良かった。

 小虎は、それは可愛らしくて美しかった。

 姉の贔屓目はあったとは思うが、それでも整った目鼻立ちに夢幻的な容姿は人の目を引いた。性格もまた素直で優しく、少しばかり気が弱いところがあったけれど美質が損なわれるものではなかった。

 あれこそ、絶世の、と評しておかしくない美貌だったと思う。

 事実、幼いというのに寄り付こうとする虫は数多く、その度に父や華眞が追い払った。

 けれど、ある日小虎は居なくなってしまった。本当に突然消えてしまったのだ。

 小虎は何処と父に何度問いただしても、忘れなさいとしか言わなかったし、母は恐ろしいと呟いたまま俯いてしまっていた。

 どれ程泣いて縋っても行先を明かしてくれる事はなく、華眞はずっと自分の後を追いかけてくる妹の影を忘れられずに過ごし、今に至る。

 もしかして、急な病で死んでしまったのかと思った事もあった。でも、華眞は今でも小虎が生きていると信じている。

 何時かまた会える日を信じている。

 絶世の美少女は、今頃きっと絶世の美女となっているだろう。

 麗しすぎて傾国となっていない事を祈るばかりだが。

 まさかここに……と思ったものの、美しいと評判の女性は数多いるようだが、聞いた限りでは違う気がする。

 そもそも、後宮で再会など出来ればしたくない。ここで出会ったならば、そしてもし彼女も妃嬪であったなら。望むと望むまいと関わらず戦う羽目になる――皇帝の寵愛を巡って。


 ただ、現在は巡る巡らない以前の問題であるらしい。

どうにも、侍女達の噂話によると皇帝はほぼ後宮に対しては無関心であるという。

 立場上、後継ぎを為さねばならない為に時折適当な妃嬪の元を訪れるが、今まで子を為した者はない。寵愛を受ける特定の妃嬪も居ない様子である。

 当代の皇帝陛下は、大層な美男であるという。

 見た者の魂を掴み、心を蕩かす程に見目麗しいと囁かれている皇帝はその性質は非常に暗愚であり凡庸。

 政治に対して関心を示す事なく、ほぼ継母である皇太后に任せきり。自分は日々怠惰をむさぼっているのだという。

 だが、皇帝である以上跡継ぎを残す義務からは逃れられない。後宮には次々と美女が送り込まれてくる。

 その一人となってしまった華眞は、もうここにきてから何度目になるか分からない溜息と共に呟いた。


「どうしてこうなったのか……」


 華眞は、後宮入りの契機となったあの日へ思いを巡らせた。



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