第一話 別離
目を開けても、霞んで白いもやもやしか見えない。かえって部屋の明るさを眩しく感じて、うつ伏せになって目を閉じた。全身がとにかく気だるくて動くことも億劫だ。
そんな俺の耳の付け根をこちょこちょと触ってくるのは、少しタバコの匂いのするパパさんの太くて固い指。それから、鼻の頭から眉間にかけて、指の腹でゆっくりさする。
わき腹から後足にかけてゆっくり撫でてくれるのは、石鹸の匂いのする柔らかいママさんの手のひら。
こんなに身体が辛いのに、いつもより軽く触ってくれる二人に、笑っちゃうくらい気持ちいい。ふぅ~と大きな息を吐き出す。
「十五年って、長いようで短いな」
「そうね、あっという間」
寂しそうなパパさんの言葉に、ママさんが相槌を打つ。
「
「弟も妹もできなくて一人っ子だったから、まるで弟みたいな感じだったわね」
「いつの間にか、俺たちよりずっとじぃさんになっちまって」
この家族と初めて会った時のことは今でも覚えている。
ペットショップと言われる場所の、小さいケージの中で幾日か過ごした時、この人たちがやって来た。パパとママに手を繋がれて来た女の子が、俺と目が合った瞬間、弾けるように駆け寄ってきて『この子!』と叫んだ。
俺も、当然のようにこの人たちが
その時、俺に向けた三人の優しそうな眼差しは、この家に来てから、そして今までも変わることはなかった。
俺に用意された小屋は、リビングからすぐそこに見える、家の外。
朝、
夕飯を一緒に食べて、みんなの団欒に加わったり、一緒にテレビを観たりした。この時間がとにかく楽しかった。この家族はクイズ番組が好きだったから、おかげで俺も雑学をたくさん仕入れたよ。犬専門のクイズ大会があれば、いいところまで勝ち残れるんだろうな、なんて思ったりしてね。
みんなが寝る少し前に、パパさんと一緒に近所を散歩する。それから俺は自分の小屋に戻ってオヤスミをする。
そうそう、日帰りや泊りの旅行へも一緒に連れて行ってもらったな。
楽しかった日々を思い出すだけで幸せな気持ちになるが、もうそんな時間が来ることが無いのはわかっている。もう一度、ふぅ~と大きな息を吐き出す。
目を閉じてじっとしていると、自分がそのまま消えてしまうんじゃないかと思う。もう少しだけ...そう思った時、聞こえた! ひよちゃんの車の音。
パパさんとママさんにはまだ聞こえてないだろうが、俺にははすぐわかる。
庭に車が停まった音がする。少しして、ばたばたと急いだ様子でひよちゃんが玄関を開けた。それから、できるだけ音を立てないようにしてこの部屋に入って来た。
「茶々丸」
いつもなら明るくかわす『ただいま』も『おかえり』もなく、ひよちゃんがそっと俺の名前を呼んだ。
目を閉じている俺にわからないように、三人が目配せをしたようだ。わかっているよ、こんな俺にまで気を使ってくれるんだね。
「簡単に食べられるように今日はカレーにしたから、座って少しだけ食べなさい」
「うん」
俺の様子を見た後、ひよちゃんが座ってカレーを食べ始めた。静かな部屋に、お皿にスプーンがカチカチと当たる音だけが響いている。
五分も経たないうちに、ひよちゃんが俺のところに来て、首輪を外した喉をゆっくりゆっくりとさすった。
「茶々丸」
両手で抱え込むように体を撫でながら、耳元で呼ぶひよちゃんの声が少し震えている。そんな悲しそうな声で呼ばなくていいよ。
「なんで笑ってるの、無理しなくていいのに」
俺の顔を見て驚くように言うけど、ひよちゃんだけだ、俺が笑っているのがわかるのは。俺の気持ちが伝わったかな。顔の上にポタポタと温かいしずくが落ちてきた。
俺のために、みんなに悲しい思いをさせてしまってごめんね。
ひよちゃん、パパさん、ママさん。大好きだよ、楽しかった。今までありがとう。
少しだけがんばって、尻尾を振ってみる。
動いたかな、自分じゃもうわからないや。
サヨナラ
小さかった時のように、甘えた声を出してもいいよね。
クーン...
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます