鬼嫁への日記

鳴平伝八

春日井秀美

 「何してんのよ!ほんと邪魔!掃除するんだからちょっと外、出といてくれる?ついでに牛乳と卵、マヨネーズも切れそうだから買ってきて!マヨネーズは9Pのやつだからね!この前みたいに高そうな瓶のやつ買ってきたらただじゃおかないから!」

 早口に伝えられた言葉は、ボリュームこそ大きくはない。しかし、相手のHPを十分に削る攻撃力があった。

「……はい」

「返事なんかいいから早く行きなさいよ!」

 怒鳴り散らかされる男。春日井秀美(かすがいひでみ)。外は日差しが気持ちよさそうで、小鳥のさえずりが聞こえてくるようであった。陽気とは裏腹に気温は低く、秀美は上着を羽織った。

 先日買ったナイキのスニーカーを履き、玄関の扉を開ける。

 もちろん、妻に無許可で買ったもので、それが発覚した際は、先ほどの数倍は罵られていた。

 スーパーまでは歩いて十分ほどの距離である。自転車に跨るか一瞬考えて歩きを選んだ。

 秀美は公園も寄ろうと考えたのであった。そして、先程言われた言葉を心の中で反芻する。スーッと鼻から大きく息を吸い、口からゆっくり吐き出す。

「牛乳と卵とマヨネーズ……今日は卵にしようかな」

 そう言うと、嬉しそうに微笑んで公園へ歩いていく。秀美はスタイルがよく、ジーンズにTシャツ、そこにジャケットを羽織っただけでモデルのようなシルエットとなった。目にかからない程度の前髪を自然に左右に分けている。癖の無い髪がそよ風に揺れる度、爽やかさに拍車をかけていた。


「あ、西岡さん?」

 ベンチに項垂れて座るのは近所に住む西岡進二だった。遠目には分からなかったが、近づくにつれて西岡であることに気がついて声をかける。

 秀美の予想通りであった。

 きっとこの時間帯、公園には西岡さんがいると考えていたのである。

「あ、春日井さん……こんにちは」

 顔を上げた西岡は、この陽気を否定するような表情をしていた。西岡とはこの公園で合うことが多い。その度に同じような理由を聞くため、秀美は今日もそうなのかな?と考えていた。

「こんにちは。大丈夫ですか?」

 西岡は苦笑いを浮かべる。

「はは、お恥ずかしいです」乾いた笑いを飲み込み、「いつもの事ながら、妻に怒られて逃げるように家を出てきました」

 秀美が西岡の横に腰を下ろし、遠くを見つめる。

「私も同じです」

 西岡は何かを考えるように首を傾げる。

「いつも思うのですが、春日井さんは、私と同じような境遇でここでよく会うわけですけど」西岡が秀美の顔を見て続ける。「どうしてそんなに平気そうなんですか?」

「私は少しズレているんだと思います」

 西岡が頭上に疑問符を浮かべる。

「今日は何で怒られてしまったのですか?」

 秀美は西岡に質問をした。西岡は、「はぃ」と弱々しく答え、ため息とともに話し始めた。

「僕も色々考えてやっているつもりなんですけど、食器の裏が汚いとか、洗濯物の畳み方が違うとか。それに、休日にゆっくりしていれば、良いわね!あなたはゆったりできて!って嫌味を言われます。もう、どう立ち回ればいいかわからず、いつもびくびく、妻の顔色ばかり窺っています」

 よほどたまっていたのか、なかなかその口が閉じないでいた。

「あははは、西岡さん大変そうですね」

「笑い事じゃないですよぉ!」

 涙目である。

「いやいや、すいません。では西岡さん、食器を洗ったら、一度奥様にチェックしてもらってはどうですか?洗濯物の畳み方も教えてもらいましょう」

 秀美がにこやかに話をする。

「いや、彼女はもう私が何もできないと思っています。何をしたって否定されるんです。僕に手伝えることなどありません」

「……ではどうでしょう?手伝うのではなく、何かできることはないか聞いてみるのは」

「できること?」

 公園に吹き抜ける風が肌に触れる。

「そうです。何もできないと思っている相手から何かできることはないかと聞かれたら、それに答えますよね?何もないなら、そのまま開き直りましょう!何かあるならそれを一生懸命すればいいのではないでしょうか?もちろん、わからないことなど奥様への確認を忘れずに」

「春日井さん……」

 西岡は感動したように瞳を震わせている。

「西岡さん、きっと大丈夫ですよ。あなたは私とは違いますから」

 秀美はすっと立ち上がる。その姿はさながらモデルのようであった。

「それでは、これから買い物がありますので、失礼します」

 秀美は小さく会釈をしてその場を去っていった。


 肌寒さはいつの間にか陽気に変わり、公園の陽だまりがゆらゆらと揺れていた。

 西岡は思った。


――あんな的確にアドバイスできるのになんで奥さんに怒られてるんだ?――

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