私へ、

きゅうり漬け

私へ、

 あなたが向こうへ行ってしまってから、もう何年経ったでしょうか。あなたって本当にひどい人ね。私一人残して、自分だけ行ってしまうなんて。おかげで私はいつまでもひとりぼっち。周りは変わっていくのに、私だけずっとおいてけぼり。一緒に歩いて行こうと言ったのはあなただったでしょう?それなのにさっさと行ってしまうなんて、本当ひどい人。


 行き先のない殴り書きを箪笥の奥に押し込んで、よっこらせと立ち上がった。年を重ねた体にはほんの些細な動作も億劫だ。ひぐらしが鳴いている。忙しなく鳴く彼らもしばらくすれば命を散らしていくのだろう。ひぐらしが鳴いている。家の外で、頭の上で、鳴き叫ぶ蝉たちの声。けれど静かだ。吸い込まれそうなほどに静か。そして退屈。夏も終わりですね、と呟いても、そうだなと言う声はもうない。いや、ずっとない。彼と過ごした日々はとうの昔に過ぎ去って、今や一人の時間の方がずっとずっと長くなってしまった。寂しいというのも違う気がする。彼がいなくなったその時の寂しさと、今の退屈は明らかに違う。寂しさでなければこれは何か。どうにも私にはわからない。空虚。ただそんな言葉が似合うだろうか。

「お夕飯にしましょうか」

 誰に言うわけでもなく呟いた。彼がいた頃からずっと返事はないけれど。


 次の日、いつものように辛うじて手紙の体を装った殴り書きを箪笥に押し込もうとした。しかしどうにも様子がおかしい。まるで誰かが触ったみたいに、箪笥の中が変わっている。それだけでなく、見覚えのない紙切れがたくさんの殴り書きの上に鎮座していた。


 おともだち どこかいっちゃったの? さみしいね わたしも おともだち みんな そかいでいないから さみしい 


 たどたどしい文字は、もしや私に当てたものなのだろうか。なぜこんなものが? 一体誰が? この家に子供はいない。近所と呼べるほど近くにも。もしかして座敷童? こんなの人が恐怖するには十分なほど奇妙な出来事だ。けれど私の心はこの得体の知れない手紙に、どこか心が躍るような心地だった。なんとも形容し難い空虚な心を満たすには十分なほど、好奇心を掻き立てられた。この歳になって、まだこんなにもわくわくできるのかと驚くほどに。

 いつもならあの人への手紙を入れるところに、今日は別の紙を挿し入れた。


 こんにちは。わたしはかぞくがとおくへいってしまったの。ずっとむかしのはなしだけれどね。あなたはいまなにをしているの?


 単純な興味だった。相手が何者かよりも、相手がどんな生き方をしているのかの方が気になった。相手に合わせてひらがなで書いた手紙は、なんだか自分のものではないような気がした。すとんと箪笥の引き出しを閉めて、さて、今日も夕飯にしよう。

「お夕飯にしましょうか」


 なんだか今日の私はいやに浮足立っている。昨夜の雨を受けて庭がキラキラ輝いているから。だけではもちろんない。朝起きて、部屋の掃除を一通りして、朝ごはんを食べて、畑を覗いて本を読む。すると先立った夫への恨み言がふつふつと湧いてきて、たまらず一筆箋を取り出しては殴り書きのように恨みつらみを書き連ねる。それが昨日までの一日で、それが続くものだとばかり思っていた。それなのに。

 どこか高揚感を覚えながら、箪笥の取手に手を掛ける。私の手にいつもの手紙もどきはない。あの手紙がまた入っているとは限らないのに、手紙が入っていることを多いに期待して、私は引き出しを開けた。

 あった。真新しい紙や日焼けた紙が散らばる上に、明らかに質感の違う紙が、あった。嬉しくて、嬉しくて。何も考えずに四つ折りにされた紙を開いた。そこになにが書いてあるかも知らずに。


 その日は夕飯を食べる気にはなれなかった。返事を書く気にも。ただ泣いて泣いて、子供のように泣き疲れて眠ってしまった。どうしてあんなにも涙があふれたのか。子供の時だって、そんなに泣いたりしなかったろうに。

思いのほかぐっすり眠ってしまったようで、目が覚めたときにはひぐらしが鳴いていた。何がそんなに悲しくて蝉たちは鳴いているんだろう。まるで昨日の私みたいだ。   そんな馬鹿げたことをぼんやりと考えた。蝉が泣いているのだと、そう思った。

箪笥に目をやると、開きっぱなしの引き出しの上に、また新しい紙が乗っていた。


おへんじないね どうしたの? ぐあいわるいの? ごはん たべてね。


「ごはん たべてね」

 その言葉にまた涙が溢れた。床を見やると、昨日私が取り落とした紙があった。


いまは ごはん つくってるの きょうは しろいごはんがあるから ごちそうだよ けいほうが なるまえに はやく たべないと


 この世界に見覚えがあった。箪笥に入った手紙の、名前も知らない送り主が生きる世界に。そこはきっと暗くて、眩しくて、つんざくような悲鳴と警報と、低空飛行の羽根の音が夜毎響く世界だ。私がずっと忘れていた世界。忘れたかった世界。あの人が、忘れさせてくれた世界。

「お夕飯に……」

 言いかけてやめた。なぜだか必要ない気がしたから。


 いつからか料理はとんでもなく億劫な作業になっていた。誰に食べさせるでもない食事を丁寧に作ることに疲れてしまっていた。それでもちゃんと作らなければと作り続けた。毎日のように一人の家で「お夕飯にしましょうか」と呟いて、空虚な気持ちに苛まれながら一人包丁の音を響かせる。なんだか今日はあの包丁の音が聞きたくなくて、取り出そうとかけた手を止めた。

「たまにはいいわよね」

 品数を作るのも面倒で、とにかく炊けているご飯と、お漬物と、あとはお味噌汁でもあればいいかと落ち着いた。

 生まれて初めて、キャベツをバリバリとちぎって鍋に放り込んだ。キャベツが破れる瞬間のキュッと擦れる感覚が、なんだか妙に心地よかった。他に具材はないかと見渡すと、ザルに上がったミニトマトと目があった。夜中の雨で割れてしまった実を、昨日慌ててもいだのだ。なんでも若い人はお味噌汁にトマトを入れるんだと、隣の山田さんに聞いたのは随分とむかしのことに思える。兎にも角にもやってみなければわからない。料理を億劫がるくせに突然挑戦したくなる、どこか背中を押される感覚に襲われたと言っていい。パックリと口を開けて笑うミニトマトたちをキャベツと一緒に放り込んだ。手でちぎられたキャベツと、パックリ割れたミニトマト。不恰好同士なんだかお似合いだ。そのまま沸かして、味噌を入れて。いつもとは比べ物にならないくらい、さっさと夕飯の支度は終わってしまった。


 食卓に並んだお茶碗とお椀。魚もなければ肉もない。メインの皿もなければ小鉢だってない。シンプルで質素な夕飯。けれど温かな湯気を立てて、誇らしげな顔で並んでいる白いご飯とお味噌汁。この食卓を見たことがある。

 私がずっと忘れていたもの。

「いただきます」

 いつも気にもとめないご飯の味を、じんわりと感じながら咀嚼する。どうして忘れていたんだろう。白いご飯なんて滅多に食べられなかった、あの時の気持ちを。どんなおかずよりも、熱いお味噌汁がいいと言ってはしゃいだことを。そうだ。あったかいご飯があって、お味噌汁が一つあるだけで、それはもうごちそうなのだ。忘れていた。忘れてしまった。ひどく悔しい気持ちで溢れていた。けれど同時に、胸のつかえが取れたような心地でもある。


 夕飯を終えて、片づけていつもなら寝てしまうが、今日はまだやることが残っていた。手紙を書かなくては。名前も知らないどこかの誰かに。

 否、私は知っている。夕飯に白いご飯が出た時、目を輝かせてごちそうだとはしゃいだ少女を。昼間こっそり母の部屋に忍び込んで、奥の箪笥を覗いていた少女を。箪笥の奥に押し込められた、どこかの誰かの手紙と文通していた少女を、私は知っている。

 どうしてこんなことが起こっているのか、私にはてんでわからない。けれどおかげで私は大切なものを一つ無くさずに済んだようだ。

 夫に届かない手紙を、或いは手紙とも呼べないような紙切れを書くのはもうやめよう。その代わりいつか向こうへ行ったら、たくさんの恨み言と一緒に少しだけ感謝しよう。あなたのおかげで素敵な出来事に巡り会えました。って。

 さあ手紙を書かなければ。いつか、夫の元に行くまでは、当分書き続けよう。何を書くべきか。苦しい世界で、せめて彼女の支えとなるような、明るい未来を与えられたら。

 いまさら何を書いても世界が変わることはないだろう。失った人が戻りはしないだろう。それほどまでに、過去は大きく人生を、世界を蝕んだ。けれど何か変わるものがあるのなら、それはきっと「今」だろう。彼女が成長しいつか出会うこの時を、どうか健やかに過ごせるように。この日々が彼女の希望であるように。

 書き出しはどうしよう。なんとも気のいい挨拶も浮かばない。でも、それでいいんだ。難しい必要なんて、何もないのだから。

 新しい紙を取り出して、一言筆を滑らせる。


「私へ、」


 ひぐらしが鳴いている。失った夏を惜しむように、しずかに声がこだまする。(了)

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私へ、 きゅうり漬け @Q_rizke

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