第9話 俺、キレた

 死。その恐怖が明確に俺の中で広がっていき、手足がなくなったかのように、あらゆる感覚が遮断されていくのが分かる。防衛本能から来ているのか、恐怖で体がおかしくなっているのか、俺にはもう分からない。

 ただ単純に、目の前の化け物が怖かった。もう逃げ出したかった。もういやだ。


「……まだ抗うか」


 最初は魔王が小馬鹿にするように言った言葉の意味が分からなかった。だが、視線を自分の首元に下げたとき、理解できた。

 俺の欠片ほど残った生への執着心が、そうさせたのだろうか。知らぬ間に、俺を持ち上げる魔王の腕の手首辺りを、俺の両手が掴んでいた。


「……何か言いたい事でもあるのか?」


 首を絞めつける腕の力が、弱まった気がした。

 いや、本当に弱まったのだ。かろうじて俺が声を発せるくらいの強さに。


「ゆ――」


 許してください――。

 そんな命乞いの言葉が喉まで昇ってきたが、止まった。

 醜態を晒す俺を嘲ってから殺す。そんな筋書きなのは百も承知なのに、浮かぶ言葉はどれもこいつが期待する言葉だけだ。

 こんな死に際なのに、情けなく命乞いをしようとする自分を、さらに嫌いになってしまう。

 視界が白んでいく。首を絞める力が弱まったといっても、体内の酸素を奪っていることには変わりはない。

 しかしそこで、意識が朦朧としていく中、不思議な現象が、まるで俺が俺を頭上から見渡しているような、そんな感覚に陥った。

 俺の首を絞めて持ち上げる魔王と、手足をだらんと垂らし、青白くて生気のない顔をした俺を……俺が上から俺が眺めている。

 ふわふわと空気のように漂う自信に困惑する暇もなく、テレビの砂嵐のようなモヤモヤが俺の視界を遮り、気づいたら魔王と俺の姿はなく、全く別の場面に切り替わっていた。

 それは、俺が辞める前の職場だ。

 歳が二つ下の、社長の息子として入社してきた男が、俺に汚い言葉を浴びせている。同僚や後輩が大勢いる前でもお構いなしで、俺は何も言えず、ただ降ってくる罵詈雑言を受け止めている。

 言い返したい気持ちはあったんだ。でも、それで俺が怒りに身を任せたら、その後の周りの人たちとの関係はどうなってしまうのか。俺も今まで通りの自分でいられるのか……それが怖くて、結局何も言えないでいたのだ。

 また場面が切り替わった。今度はその俺とその男が二人っきりでいる場面だ。

 俺は必死な表情で何かを訴えかけている。しかし、男はへらへらと笑っている。


 ――『お前みたいな何の役にも立たない、存在ても存在なくても変わらないような奴が、どんな扱い受けても文句言うんじゃねえよ』

 ――『俺がこうやって有効活用してることに感謝してほしいくらいだ』

 ――『底辺で何も言い返せないカスが、俺に盾突くんじゃねえよ』


 唾をまき散らして放たれたその言葉と、あの見下した眼があまりにも強烈で、俺の記憶に焼き印のように刻まれていた。その次の日に、俺は社長に辞める旨を伝え、退職届けを出した。

 込み上げてくる怒りを抑えるのに必死でいたら、また場面が切り替わった。いや、帰ってきたというべきだろうか。

 上から眺めるような幻覚も収まって、魔王に首を絞めつけられる自分に戻っていた。


「『ゆ』……なんだ?」


 口角を歪め、化け物が俺を見る。位置関係的には俺のほうが高い所にいるのに、見下されているのが明瞭に分かる。

 あの眼だ。俺を散々痛めつけた、あいつと同じ目だ。

 俺の存在を頭から否定するような、無価値を決めつけるような、ムカつく目だ。

 俺の首を絞めつける奴の姿が、あいつと重なった。へらへらと俺を罵る、あいつに見えた。

 俺の中で、何かが弾けた。


「こ――」

「『こ』……殺さないで、か? 芸がないな」


 あいつの腕を掴む俺の手に、力が込もる。


「ふん、お前の無に等しい力では、ほどくことはできんぞ」


 鼻で笑うあいつは、カゴに入れた虫が暴れるのを見て楽しんでいるかのようだ。

 嗜虐的にニヤつく顔が、無性に腹が立つ。

 躊躇はなかった。

 俺は口に溜まった吐瀉物の残りを、ヤツの顔面めがけて吐き出した。


「なっ……!」


 俺の予想外の行動に、ヤツは反射的に避けようとする。そのとき、俺の首を掴む力が緩んだ。


「――こんなところで、死んでたまるかよ!」


 俺は緩んだヤツの腕を掴み返し、歯を立て、思いっきり噛みついた。ミチリと、音が鳴る。


「がアっ!」


 ヤツは間抜け面で悶え、俺を振り払おうと腕を振る。少し粘るが、それも無駄な抵抗で、俺はすぐにふっ飛ばされた。


「こ、この死に損ないがァ……!」


 噛まれた腕を押さえ、ヤツは怒りでめちゃくちゃになった顔面で俺を睨みつける。目は血走り、口が裂けるのではと思うほど口角を吊り上げて歯を軋ませている。

 ムカつく面をしてやがる。俺の沸点はとうに限界を超えていた。


「うるせえなうるせえなァ! どいつもこいつもうるせえよ黙れよ!」


 俺の口から、怒りに任せた憤懣ふんまんが吐き出される。


「どいつのこいつも俺を雑に扱いやがって! ムカつくんだよ! 俺が何も言い返さなかったら何やってもいいと思ってんのかバカヤロウが! 『どうせその程度なんだろ』って目ェしやがって! 決めつけんなよ! 好き勝手しゃしゃって俺を値踏みすんじゃねえよ!」


 怒り、苛立ち、不満――溜まりに溜まった俺の感情でこいつを生き埋めにして、墓石を蹴り飛ばしてやりたい。


「あれは俺のミスじゃねえ! てめえが点検を怠った結果だろうが! それを、最終確認は俺に任せておいただ? 俺に言われた通りにやっただけだ? 責任転換も甚だしいんだよ!」

「貴様……一体何を――」

「うるせえ、今俺が喋ってんだよ! 責任転換野郎は黙っとけバカヤロウが! その後もわざと起こしたミスを俺のせいにしやがって! やることがいちいち女々しいんだよ!」


 心の底にくすぶっていた俺の感情が、全て放たれる。折れていたプライドが歪んだ形のまま、真っすぐに直ろうと蠢きはじめる。

 言いたいことを言ったが、まだ全然足りない。こいつをどう苦しめて懲らしめてやろうかで俺がいっぱいだ。

 そのとき、俺は何かを感じ取った。とても大事で、重要な繋がりが、俺を呼んでいる。

 そしてそれは、すぐそこにいた。

 ユンボだ。ヤツに放り投げられた青塗りのユンボ。

 また、ユンボと目が合った。

 その瞬間、俺がこの異世界に転生された理由が分かった。

 俺のためだ。俺は俺のためにここに飛ばされたのだ。

 俺は、あのユンボだ。

 まだやれるのに、勝手に諦めて、手放して、ねて、不貞腐ふてくされて、一人ぼっちで立ち往生。

 そんな俺自身を変えるために、この世界にやってきたのだ。

 これは、俺のための異世界転生だ。


「うおおおおおおおおおおおオオオオオオオオ!」


 雄叫びを上げながら俺は全力で駆ける。相棒の力を借りるために。

 そして乗り込むと、シートベルトを装着し、体に刻まれた手つきでエンジンを起動させる。

 が、駄目だった。どれほどエンジンを掛けようとしても、ユンボは息吹を上げない。

 バッテリー切れだ。あんなに放置されていれば、エンジンが掛からないのは当然か。

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