思い立った彼に恥はないのか

黒本聖南

第1話

 迂闊だった。

 今朝、いや昨夜の時点ではまるで予想もしていなかった。

「……」

 それまでちょっと迷惑なくらい騒いでいた栗音くりねさん。今やその口は閉じ、微動だにせずそれを見ている。恥ずかしいからそんなに凝視しないでほしい。

 ──エロ本。

 野郎が一人暮らす部屋なんだ、あるだろう別に。昨日も散々お世話になって、片付けるのも面倒でそのまま出勤して、今夜もお世話になるつもりだった。


 栗音さんと酒盛りする予定なんてなかったんだ。


 それが、バイト先の新人が二日目で飛びやがり、ヘルプを求めても誰も来てくれず、クソ忙しい中、俺と栗音さんの二人で店を回さないといけなくなった挙げ句、引き継ぎの時に夜勤の奴らから「え、備品の荷解き全然終わってないじゃないですか……」とか面倒そうに言われたことに、俺も栗音さんもぷっつん来て、酒だ酒だ飲まねえとやってらんねえよクソがとなり、急遽酒盛りが決まった。

 そこまではよくあることだろうし、店を出てすぐの所に居酒屋があるんだ、そのまま駆け込んで取り敢えず生から始めることもできただろう。

 だけど栗音さんは真っ直ぐコンビニに向かった。ちょい待っててと言って、多分五分以内に戻ってきた時には、缶ビールを何本も両腕に抱えていた。

「あの、袋はどうしたんですか?」

 訊くべきことは他にあったと思う。何で缶ビールなんですか、居酒屋に行かないんですか、とかさ。

 一重の俺とは違うぱっちりとした目を爛々と輝かせて、笑みの形に歪んだ口は言葉を吐いた。

小手こて先輩の家で飲むから大丈夫!」

 中途半端な長さの黒髪と同色の獣耳と尻尾が、元気良く動いているかのような幻覚が視えた。

 彼の言葉は返事になっていないようで返事になっている。俺の家はバイト先から徒歩十五分の所にある。そのせいでどれだけ休日が潰れたことか。安易にこのバイトを選んだ自分を日々呪ってきたけど、今夜の比じゃないな。

「……公園じゃ駄目なんですか?」

 赤茶に染めている髪を掻き乱しながら、一応訊いてみる。

 買ったものは仕方ない。自宅までの道には公園もある。近所迷惑になってしまうかもしれないけど、いきなり来られるのは俺が困る。

「小手先輩の家がいいよ!」

 曇りなき眼は頑なだった。

「いや、あの、散らかってますし」

「大丈夫大丈夫、俺ん家もきったないし」

 何も大丈夫じゃない。

「楽しめるものとか、ないですし」

「酒がある」

 力強い言葉だ。確かに、酒があれば何もいらない。

 何も言えない。

「……行きますか、じゃあ」

「わーい! あっ」

 栗音さんはご機嫌のあまり、自宅に着くまでに何回も缶ビールを地面に落としていた。


 俺を先輩と呼んでいるけど、年齢は栗音さんが一歳上だ。


 バイトを始めたのが一年早かったのと、教育係だったというだけで、彼は俺のことを先輩呼びしてくる。別に付けなくていいですよと言っても、夢だったんだよと言って引かなかった。

「学生の時、部活とかなんもやってなかったから、仲良い先輩とかいなかったの。で、そう呼ぶ機会もなくて、しくじったなって少し後悔してるわけ。その埋め合わせ、で合ってるか知らないけど、頼むよ、呼ばせて」

 そんなことを言われたらもう、好きなようにさせるしかない。最初こそ歳上に先輩呼ばわりされるのは違和感があったけど、今となってはもう慣れた。

 缶ビールを拾いながら自宅に辿り着いて、言うほど散らかってないじゃんなんてお世辞を頂き、一応もてなしがてら、このままだと腐らせそうなきゅうりをつまみに提供しようと準備していた。

 その間、新人の、夜勤の、そして店長の悪口を大きな声で言っていたのが、いつの間にか静かになって、戻ってきた時には、エロ本を凝視されていたと。

「驚きました?」

 きゅうりの塩漬けを卓上に置きながら訊ねてみる。返事はない。

「一応、私物です」

 やっぱり返事はない。そんなにショックを受けたのか。それなら来なければ良かったのに。

 開かれたエロ本には、ベッドに横たわり身体をくねらせる、裸体の男が写っていた。どの頁を開こうとも、ほぼ男の裸体しかない。ゲイ向けのエロ本だからな。

「……今日は、やめときます?」

 未来のことは一先ずおいといて、もう帰ってくれないかなと、雑誌を閉じながら訊いてみる。

「……先輩」

 腕を掴まれた。

 砕こうとしてるのかと疑いたくなるくらい、掴む手に力が込められていく。

「……俺、見たよ」

 こうしてるのと言って、反対の手で後頭部を髪ごと掴まれた。

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