第11話「働き詰めの若旦那」
トリセンド・スチーム・ファクトリー。緑光石と蒸気機関による画期的なエネルギー革命によって、蒸気の時代の幕開けを呼んだ立役者が創設した企業の名だ。元々は小さな町の工房でしかなかったTSFは、今や王国でも有数の大企業へと成長しており、今もなお拡大を続けている。
現在は二代目が社長を務めるTSFの、次期社長として有力視されているのが、一人息子のヴィクター・トリセンドである。創業者であり祖父はすでに退き、現社長の父親は王国中を飛び回っている。若き次期当主はすでに、彼らに代わって屋敷での仕事を引き受けていた。
トリセンド家の大邸宅にある執務室。無数の書類が次々と運び込まれ、また運び出されていくTSFの中枢とも言える一室に彼はいた。
「お疲れ様です、若旦那」
重要機密も多い執務室にノックもせず入ってきたのは、褐色に焼けた偉丈夫。TSFの主任技師を務めるゴルドーだった。執務机で書類に埋もれていたヴィクターは、彼を見ると落胆を隠すこともなくため息を吐き出した。
「随分な対応ですねぇ」
「こっちはここ数日、ずっサインし続けてるんだ。サインを自動で書くような蒸気機械を作ってくれよ」
「そんなことしたら若旦那の仕事がなくなっちまうでしょう」
表でのやり取りとは違い、いくぶん砕けた様子の二人。トリセンド家の次世代を担う者として幼少期から蒸気機関に関する英才教育を受けてきたヴィクターと、経験豊富な技師は、自然と付き合いも長かった。
「それで、何しにきたんだ? 仕事の邪魔をしにきたわけじゃないだろう」
作業の手が止まったタイミングを見計らい、メイドが紅茶を用意する。朝からずっと働き詰めだったヴィクターは、時計を見てようやく正午を過ぎていることを知った。
「なに、ちょっとした報告ですよ」
メイドが持ってきたサンドウィッチを横から摘みながら、ゴルドーが言う。その表情はヴィクターの目にも珍しく、ニヤニヤと笑っていた。
「……シャーロットのことか?」
「そういうことです。どうやら、蒸気博覧会に出す物を決めたようで」
「そうか」
ヴィクターの反応は素っ気ない。しかし彼が幼い頃から間近で見てきたゴルドーは、その内心で興味津々なのをしっかりと見抜いていた。
若くして生き馬の目を抜くような熾烈な商業界で揉まれてきたヴィクターは、年を重ねるごとに感情を冷たい仮面の下に隠すようになった。そんな彼が、今まで最優先としていた仕事を後回しにしてまで手を伸ばしたのは、とある古い貴族の令嬢だった。
貴族のご令嬢とは思えない、蒸気機械を自ら作るという趣味を持つ彼女。ゴルドーが初めてその少女のことを聞いた時、にわかには信じられなかった。しかし、彼が驚くほどのハイペースで縁談が進み、彼女がこの屋敷へとやってきた。そして、ヴィクターから工場を与えられ、そこで女性たちと共に働いている。
「どうやら、二輪車を改造するようです」
「ほう、二輪車を……。なるほど」
その令嬢は、自らの手で一から設計図を起こし、蒸気駆動二輪車を作り上げた。ただの玩具ではなく、実際に乗り回せるような立派なものだ。実際にそれを見たゴルドーは、そこでもまた驚く羽目になった。
彼女は与えられた工場で、自ら作った二輪車の改造に挑むという。自分が苦労して作ったものに再び手を加えるというのは、職人であっても勇気のいることだ。自分の未熟さを認めるということは、なかなかできることではない。
「二輪車はすでに他社も色々と出している。なかなか競争の厳しい分野だぞ」
「へへ。それくらいあのお嬢さんなら分かってるでしょう。昨日は工場の従業員たちに乗り方を教えてましたよ」
「ということは、女性向けに二輪車を改良させるのか」
ヴィクターはすぐにシャーロットの意図を察した。頷くゴルドーを見て、彼はくつくつと喉を鳴らして笑う。
二輪車はTSFの競合もさまざまなものを出している。日常で使えるようなものから、レース用の速度を求めるものまで実に多様だ。しかし、彼らは皆、ひとつの常識の中で争っているに過ぎない。彼女は、その常識という壁を打ち払おうとしている。
これこそ、ヴィクターが求めていたものだ。
「嬉しそうですね、若旦那」
「新しい時代の幕開けが始まってるんだ。これほど胸躍ることはないだろう?」
蒸気機械は紳士のため。そんなしがらみに亀裂が走る。
やはり自分の目は間違っていなかった。ヴィクターは強く確信する。
あの時感じた、彼女の力強さ。あれこそが、STFに必要なものなのだ。
「そのために色々アイディアを出し合っているようでしてね。俺のところにも意見を聞きに来ましたよ」
「…………は?」
サンドウィッチを摘みながら上機嫌に語るゴルドー。彼は一転して氷のような目を向ける主人に気が付かない。
「俺も久しく二輪車なんて乗ってなかったんで乗せてもらったんですが、ありゃあいいや。工場内の移動用に揃えてもいいかもしれないですね」
「ゴルドー」
「なんですか? うわっ!?」
名前を呼ばれて振り返り、そこでようやくゴルドーはヴィクターの険しい表情に気付く。椅子からひっくり返りそうになりながら、おずおずと様子を窺う。ここまで感情を露わにするヴィクターは久しぶりのことだった。
「お前、二人乗りしたのか?」
「え? いや、二輪車は一人乗りですからね。それに久しぶりとはいえ乗れないわけじゃあないんで」
「そうか。……そうか」
何かを噛み締めるように言葉を繰り返す。様子のおかしいヴィクターに、ゴルドーは首を捻る。
「……俺も相談にくらい乗るんだがな」
そんな彼の小さな呟きは、幸か不幸かゴルドーの耳には届かなかった。
蒸気の国の黒煤姫〜結婚したら工場長になりました〜 ベニサンゴ @Redcoral
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