ヤヒロのルーティーン
ニートの朝は早い。
毎日六時に起床し、顔を洗う。そして、ランニングウェアに着替えて、出発だ。
家を出て、しばらく走ると、
「おはようございます。今日もいつも通りの時間ですね、ヤヒロ先輩」
小柄だけれど、髪を後ろに結っている姿は、スポーツマンという言葉が似合っている。
「おはよう。お前も早いな」
「だって、折角、ジョギングをするなら、話し相手がいた方が楽しいじゃないですか」
「そんなもんかね。俺は一人でも変わらないけどなあ」
「またまた、照れちゃって」
弥子がにんまりと笑う。その顔を向けられた当の本人は、その表情を見ることなく、しっかりと前を向き、走り続けている。
「それで先輩、仕事は決まったんですか?」
「んー、もうなんか、しばらくニートでいようかなと思ってる」
「ニートにしては、生活習慣が規則正しいんですよね」
弥子は呆れた顔をする。規則正しいのに呆れられるというのは、何とも妙な状況である。
「でも、働いてないんだから、無職でニートなのは確かだろ」
「まあ、働いてないから無職だし、無職だからニートっていうのは正しいんですが…」
納得のいかない顔をする。コロコロと表情が変わるのが、弥子の可愛いところである。
「ニートって普通、一日中寝てたり、部屋に引きこもってゲームしてたり、家から出ないもんなんじゃないんですか?」
「それは流石に、偏見だろうよ」
「でも、そういうイメージありません?」
「イメージだろ? 現に俺は、毎朝外に出てるぜ」
「だから、先輩がおかしいんですって…」
「人それぞれだろう? 俺はダラダラ過ごすのが苦手だから、そうしているだけだぜ」
「こんなにアクティブなのに、何でニートなんでしょう」
ヤヒロの表情が曇る。
「あ…ご、ごめんなさい……」
地雷を踏んだ。そう思った。
「気にしてないよ。好きで就職してないだけだし」
ヤヒロは笑った。
そうは言われても、弥子は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
話の流れで茶化してしまったが、ヤヒロが仕事と就職で苦労してきたことを本人から聞いて、知っていた。
その上で、それをネタにしたことは、恥ずべき発言だと思った。
ヤヒロが新卒で入った会社はブラック企業だった。基本給は良かったものの、残業は全てサービス残業。月の残業時間は労働基準法を完全に無視していた。
それでも、何に執着していたのか、一年間続けた。しかし、余りにも過酷な就業状況により、心身ともに崩れ、辞める結果となった。体に不調をきたしてから、初めて辞める気になったという、異常な精神状態だった。
そんな、ブラック企業にすっかり洗脳されてしまっているヤヒロをサポートしてくれたのが、弥子だった。少なからず感謝はしていた。だから、弥子の悪態に近いジョークも笑って応えることができた。
弥子は、自分のツテをフル活用し、退職金と払われなかった残業代を、もぎ取ってくれた。そのお陰でヤヒロは、今のニート生活をすることができている。
「本当に気にしてないよ。弥子には感謝しても仕切れないし」
よかった、地雷を踏んではいなかったようだ。弥子は安堵した。
「それにしても、ブラック企業を辞めてからも大変だったぜ。再就職しようにも、面接が酷い。ブラック企業だったんで辞めたと言えば、それはあなたの主観ですと言われる。体調不良で辞めたと言えば、体調が不安定ならば採用は難しいと言われる。資格が必要ないと真に受けて面接に挑んでみたら、資格もないのかと罵られる。誠心誠意頑張りますと言えば、一年間しか続かなかったのに誠意とは何だと言われる。いやー、求人を出している企業って、全部ブラックなんじゃないかなぁ!」
急に長広舌に、しかも早口で矢継ぎ早に吐いた。
見誤っていた。地雷は踏んでいた。それどころか、地雷を貫通して、地面に足が付け根までめり込んでいる状態だ。
「せ、先輩、落ち着いて!」
いつもだったら、ヤヒロの家の前で解散なのだが、このまま走り続けるのは無理だと判断した。
「ベンチに座りましょう」
いつものジョギングルート。大きな公園内を走るので、等間隔にベンチがあった。今はそれが有り難かった。
弥子に促されるままにベンチに座るヤヒロ。頭を押さえて、黙っている。
しばしの沈黙が続いた。
「悪い、昔の記憶がフラッシュバックした」
「いえ、私の発言が切っ掛けなので…」
ヤヒロの引きつった笑いに、弥子が苦笑いで返す。傍から見れば地獄絵図だ。気まずい空気が流れる。
「でもさ」
ヤヒロが重い口を開いた。
「このままだと貯金が尽きるのも確かなんだよなあ。折角、弥子が勝ち取ってくれたのにな。尽きる前に、再就職しなきゃいけないのに、参ったよ」
頭を抱えながら、ゆっくりと話した。
「先輩、ごめんなさい」
自分の発言のせいで、ヤヒロの気持ちを沈ませたと思うと、申し訳なかった。
「気を遣わせて、ゴメンな」
悲しそうな笑顔をする。その表情に、弥子の胸は締め付けられる。
お互いがお互いに、悪いと思い謝っている。奇妙な状況に話が続かず、変な沈黙が訪れる。
「そ、そういえば、妖怪の研究って、まだ続けているんですか?」
沈黙を何とかしなくてはと、考えに考えて出てきた質問だった。
ヤヒロは大学時代、民俗学を専攻しており、特に、各地に伝承されている妖怪伝説に熱を入れていた。
「時々、本とか読み返してる程度かな。暇だからな」
自分で言ってに笑ってしまった。暇という表現は、自虐ではなく、自然に出たヤヒロの言葉だった。
「先輩って、本当に妖怪が好きですよね」
「妖怪の伝承は面白いよ。どんな些細な現象でも、妖怪のせいにしちゃうんだぜ」
ヤヒロの目に光が戻ってきた。弥子の導き出した話題は成功だったようだ。
しかし、妖怪に詳しくない弥子には、残念ながら、ここから話を広げることができなかった。
考えを巡らせる。妖怪を知らない弥子でもできる話題…。
「あ、そうだ、妖怪で思い出した。今日は、先輩の好きなVtuberの
兎月猫彌。登録者数五十万人越えの、今を時めく人気Vtuberだ。
兎と猫の混血妖怪。その設定が、ヤヒロの癖に刺さったらしい。
「ああ、そういえばそうだったな」
「あれ? 興味ないんですか?」
「何か最近、配信傾向がマンネリ化してきてると思ってな」
「まあ、確かに」
歌枠。ゲーム配信。雑談。どのVtuberも同じことの繰り返しをしていた。それは、兎月猫彌も同じで、ヤヒロはマンネリを感じていた。
動画配信者というのは、真新しい企画で注目を集めて、視聴者を増やし、たくさん再生してもらわないと、稼ぎにはならない。
しかし、一定数のファンができて、最低限の再生数が確保された配信者は、その限りではないのかもしれない。ヤヒロは兎月猫彌の現在の姿を見て、最近そう思う。いや、もしかしたら、ユーザー全体から見ると、ヤヒロの考えが少数派で、大多数が、そのマンネリを求めているのかもしれない。
「あ、でも、今日は面白そうなことやるみたいですよ」
「え? そうなのか?」
「先輩、最近、全くチェックしてないんですか?」
「そうなんだよね…あはは」
ヤヒロはつい笑ってしまった。人間と言うのは身勝手だ。自らが毎日同じことをやれば、ルーティーンといい、良い意味を見出す。しかし、他人が同じことを繰り返せば、マンネリと言い嫌う。
「今じゃ、弥子の方が詳しくなっちゃったな」
自らに対して嘲笑する。
「まあ、そういうこともありますよ。それで、今日の配信なんですが、何でも、新しいシステムを導入したみたいで、モーションキャプチャーで取り入れた動きを、グリーンバックなしで、リアルタイムで画面に映っている本人に、直接投影させるみたいですよ」
「システムの話か…」
ヤヒロの顔が引きつる。
「あ、ごめんなさい、嫌でした?」
「いや、何か複雑な気持ちで」
ヤヒロが好きなだったのは、彼女自身だ。バーチャルリアリティのシステムに興味があったわけじゃない。
引きつった表情筋を動かし、ヤヒロは笑顔を作ろうと努力する。そのため、歪な笑顔になってしまった。その表情は、弥子を不安にさせる。
「話をしない方がいいですか?」
「いや、いいよ、続けて」
どうせもう観なくなっていたのだ、今さらだと思った。
「わ、分かりました」
一つ咳払いをして、気を取り直す。
「そのシステムは、カメラで映している本人に、バーチャルの像を投影するんです。つまり、現実世界にそのまま、そのキャラがいるように見えるんだそうですよ」
「それって、ライブ映像でってことか?」
「そうです」
「バーチャル技術は、そこまで発展していたのか」
システム自体に興味がなかったとはいえ、Vtuberを観ていた以上、バーチャル技術がどういうものかのかは分かっていた。
カメラを通して、現実世界に、さもバーチャルの存在がいるように見せる技術はあった。加えて、映した本人を加工するというものはあった。しかし、ライブ映像で完全に置き換えてしまうというのは、初めてではないだろうか?
少なくとも、ヤヒロにはない知識だった。
「面白そうな企画だな」
「でしょう!」
ヤヒロが食いついてくれて、弥子は胸を撫で下ろす。
「あ、そうだ、先輩。その配信、十九時からなんで、良かったら一緒に観ません?」
「え? 何で?」
急な提案に、ヤヒロは戸惑った。
「あ、いや、その、一人で観ても詰まらないじゃないですか」
「そうか?」
弥子はため息を吐き、作戦を変えた。
「私が、一人で観ても詰まらないんです」
先程の姿を見て、今のヤヒロの状態が心配になった。今日は家に行って、先輩の状況を確認したいというのが、弥子の真意だった。
「そ、そうか」
だから一緒に観ようというのは、よく分からなかった。
「それに、社会人の先輩として、私の仕事の話も聞いて欲しいですしね」
「まあ、そういうことなら」
弥子のゴリ押しの勝利だった。
「時間も時間ですし、食事しながら観ましょうよ」
「ああ、いいぜ」
「じゃあ、仕事帰りに、買い物して帰りますね」
「いや、いいよ」
「え?」
なぜ否定されたのか。弥子の頭に疑問が浮かぶ。
「ほら、俺ニートだろ。時間あるから、夕飯作って待ってるよ」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「あははは、そういえば先輩は、何でもこなせる、パーフェクトニートでしたね」
言われたことを理解したと同時に、そんな言葉が自然と出ていた。
「ヤバいニートみたいじゃないか」
「ヤバいことはヤバいですよね、色々な意味で」
「何だよそれ」
「だって普通、食事を作って待ってるのは、女の子の役目なんですよ」
「それこそ、偏見だろうよ」
「女の子がやりたいことって意味ですよ」
ヤヒロは、弥子の言わんとしていることが分からなかった。
「まあ、いいです。今の先輩には難しい話ですよね」
冗談めかして言われたが、ヤヒロには何だか馬鹿にされた気分だった。しかし、弥子の言う通り、分からないのも事実だったので、それ以上何も言えなかった。
「そういうことなら、夕飯はお願いしますね」
「おう。でも、期待はしないでくれよ」
「いいえ。先輩が申し出たんですから、期待してますね」
白い歯をのぞかせ、悪戯っぽい笑みがそこにはあった。
「あ、いけない、遅刻しちゃう」
話がひと段落着いたところで、時間を確認した弥子は焦った。
「ごめんなさい先輩、今日は先に行きますね」
そう言うと、全力で走り出した。あっという間に小さくなっていく。
「せんぱーい!」
しかし、公園の入り口で足を止めると、こちらを振り返り、大きく手を振ってきた。
「楽しみにしてますからね~」
遠くて顔が見えないが、きっと笑顔だろう。
「わざわざ、そんなこと言うために、足を止めたのかよ」
可愛らしい後輩の行動に、自然と笑みがこぼれた。
「わかったよ!」
手を振り返してやる。
その姿に満足したのか、弥子は踵を返して、あっという間に走り去って行った。
無邪気な弥子の姿を見て、ヤヒロも夜の視聴会が楽しみになってきていた。
「腕によりをかけて、夕飯を作るかな」
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