120話 生きる理由

 潮風にゆらゆらと靡く長く延びた黒髪。透き通るように澄んだ瞳が拓をまっすぐ見つめている。

 拓は驚きのあまり言葉が出ず、その場に立ち上がることしかできなかった。

 思わずあの名前を言いそうになる。だって、目の前には“アキ”が立っていた。最後に別れを言いに現れたアキがそのままの姿でやってきたと錯覚してしまうほどだ。


「やっと来てくれましたね、狭山 拓さん……たっくんって言った方がいいですか?」


 彼女が眉を下げ、方針状態の拓に問い掛ける。


「わたしのこと覚えてないかもしれないですが、実は10年前に何度か会ったことがあるんですよ?」


「……雛梨、ちゃん」


 拓の口からようやくその名前が溢れた。雛梨は一気に目を輝かせる。


「嬉しい! 覚えててくれたんですね!!」


 無邪気な子供のように喜ぶ姿に拓はとても複雑な感情を抱いていた。再会の嬉しさはもちろんあったが、どちらかというと疑問ばかりが膨らんでしまって素直に喜ぶことができない。


「どうして、雛梨ちゃんがこの場所を知ってるんだ?」


「実は10年前に、狭山さんの友達の女の人からこれを貰っていたんです」


 雛梨は持っていた鞄の中から古い折り畳まれた紙切れを出してきた。差し出された紙切れを受け取り、拓はその中身に目を通す。そこには拓の両親の命日とこの場所の住所が記載されていた。その字はたぶんアキの書いたものだ。雛梨にこんなものを渡せるのはアキしかいない。


「いつ、これを」


「いつだったか、わたしがお父さんの会社から何でだか分からないけど逃げ出してきて、その後にそのお姉さんに親戚の家まで送ってもらったんです。その時、別れ際に貰ったんですよ……もしも狭山 拓に会いたくなった時はここへ行けば会えるよって」


 あの時のことは拓の記憶の中にもまだ強く焼き付いている。しかし、アキがまさかそんなことをしていたなんて想像もしていなかった。


「けど、あの後いろいろあって家族一緒に海外へ移住することになったんです。慣れない海外生活のせいで、この手紙の存在もすっかり忘れていたんですけど……3年前に日本へ戻ってきて自分の荷物を整理してたらこれを見つけて……狭山さんにすごく会いたくなったんです!!」


「だから、ここに? もしかして3年間毎年通ってくれたの?」


 もちろんですと、雛梨はどや顔で即答する。


「はじめは狭山さんがどのお墓に来るのか分からなかったんですけど……今回来たときにこのお墓だけ手入れされてないのに気がついて、もしかしたらこのお墓が狭山さんに関係してるのかなって直感的に思ったんですよ。それで、せっかく来たから狭山さんが来るの待つ間に掃除しておこうって」


 雛梨の手を見るとところどころ汚れていた。


「ごめん、俺がやらなきゃならないことなのに……ありがとう」


「どういたしまして」


 素直に言葉を受け取ってくれる雛梨に拓の顔も自然と笑顔になる。


「でも、もしかしたら狭山さんにはもう会えないんじゃないかって思ってました。10年前、狭山さん病気だって言ってたから……嫌な想像してたんです。あの時、わたしが狭山さんのことを救ってあげるみたいなこと言ってましたけど、今考えたら本当に子供じみた発言で恥ずかしくなっちゃいます」


「そんなことないよ。雛梨ちゃんのおかげで俺はこうして今も頑張って自分の足で立っていられてるんだ」


「わたしのおかげ?」


 拓はまっすぐ雛梨を見つめる。


「俺はずっと自分の人生を諦めて生きてた。けど、雛梨ちゃんが背中を押してくれたから手術して、自分の夢のために前へと進めた。雛梨ちゃんがくれた花のおかげで自分のやりたいことも見つけられた……今ここに居られるのはすべて雛梨ちゃんのおかげなんだよ」


 過去から来た雛梨のしたことは今の雛梨には全く関係のない話なのかもしれない。けれど、拓のいない世界で生きてきた雛梨がつくりあげた奇跡の欠片は確かに拓の中で輝き続けている。


「そんな風に言ってもらえるなんて思ってもみなかったから」


 雛梨が戸惑いながら靡く髪をそっと指に絡めた。うっすらと涙を滲ませていることに気がつく。


「あの時、わたし小学生だったし……全然子供だったから狭山さんの記憶にすら残ってないって覚悟もしてたんです。正直、忘れられてたら怖いなって思ってたし……ここで待つのもおかしいって」


「けど、来てくれた。ありがとう……俺、雛梨ちゃんとまた会えて嬉しいよ」


 一歩、拓は雛梨に近付く。


「俺に会いに来てくれてありがとう」


 雛梨の頬がほのかに赤く染まるのがわかった。


「わたし、実は狭山さんに一度助けてもらったことがあって……その時からずっとわたしは狭山さんのこと想ってたんです! わたしの初恋で……ずっとこの気持ちを伝えたかった」


 勇気を振り絞るように雛梨はまっすぐに拓の目を見つめる。


「狭山さんから見たらわたしはまだまだ子供かもしれません! けど、あの時に感じた気持ちは今も変わってないって言い切れます。どんなに時間が経っても、どれだけ離れていたとしても、この気持ちは揺らがないって自信をもって言えます!! ここに来たのがその証拠で……それぐらい狭山さんのことが好きなんです!!」


 ただ素直で真っ直ぐな言葉は拓の中に眠っていた感情を呼び起こす。

 拓の中にはアキがいて、自分が恋をしたのはアキとうひとりの人間だと思ってきた。だから、拓自身も雛梨に会うのが少しだけ怖かった。けれど、そんな怖さは一瞬にして吹き飛ぶ。


「俺はちゃんと雛梨を見てたんだな」


 拓の呟きの意味が分からず、雛梨はきょとんと目を丸くする。


「雛梨ちゃんから見たら俺だっておじさんみたいなものだけど……できれば、これからの人生は君と歩いていきたい」


「え? それって」


「俺も雛梨ちゃんが好きだ。だから、君のためにこれからを生きていきたい」


 誰かの役に立って死にたいと考えていた頃の自分を不意に思い出す。

 拓はふっと笑い、雛梨の手にそっと触れた。


「俺が生きる理由は、この先ずっと君を幸せにすることだと思うんだ」


 雛梨は嬉しそうに微笑む。

 そして、また新たな未来に向かってふたりは歩き出した。



 END……

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