26話 初めての恐怖心

 なにか特別な話をすることもなく眠りにつき、朝を迎えたアキは誰よりも早くキッチンに立った。拓のお母さんはまだ眠っている。昨日も先生と話した後、休むことなく抜け出した仕事場へと戻っていって、帰りも夜10時を過ぎていた。満里奈は疲れていたのか客室で寝ていたため、友達を泊めたとだけ伝えて自分も先に部屋へと戻った。どこかお母さんの背中がひとりにして欲しいと訴えているような気がしたからだ。


「あら、アキちゃん早いのね」


 唐突に呼びかけられた声は昨日と打って変わって明るく、アキは少し驚きながら振り向く。エプロンを付けた拓の母、名前は確か陽子ようこと拓が言っていた。陽子は慣れた手つきでフライパンを火にかけ、冷蔵庫から生卵を三つ取り出す。


「おばさんは疲れてるんだから、わたしが作りますよ」


「疲れてなんかいないわよ。気にしないでアキちゃんはお友達を呼んでおいで……そう、お友達!」


 陽子は思い出したように笑顔でアキの顔を見た。


「急にうちに泊まるなんて何か事情でもあるの?」


「ごめんなさい。拓が大変な時に」


「それは気にしてないわよ。あの子の貧血なんて今に始まったことじゃないから……それより、そのお友達なにかあったの?」


「何かっていうか」


 言い訳を考えていなかったアキは返事に困る。まさか真実を伝えるわけにはいかない。

 そもそも、10年後の組織に命を狙われているとか言ったところで冗談だと笑われて終わるに違いない。


「なんて言うか……知らない人に付け回されてるみたいで」


 嘘は言ってない。


「まあ、それってストーカーってこと?」


「確信はないみたいなんですけど、怖がってて」


「それは怖いに決まってるわ。学校でもガラスが割れるなんて事故があったばかりだしね」


 陽子は物騒ねと、肩を震わす仕草をしながら、温まったフライパンに卵を落とした。


「そのガラスが割れた時に拓が助けた人が彼女で……いろいろ重なって不安だったみたいで」


「そうだったの!? まあまあ、それは大変な一日だったでしょ……親御さんは知ってるの?」


「ふたりとも今は海外で」


「それは不憫だわ」


 まるで自分事のように悩みだした。


「ひとりでなんて怖いわよね。寂しいに決まってるわ」


 独り言のように繰り返し、出来立ての目玉焼きを小皿に取り分ける。そのタイミングで満里奈がそっとキッチンを覗く。


「あの、おはようございます」


「あらまっ」


 満里奈の顔を見た途端、陽子は口を半開きにした。


「昨日は突然泊めていただいて、挨拶もしないまま眠ってしまってすみませんでした。それに狭山くんに怪我までさせてしまって……」


 満里奈が謝罪を示すように頭を下げようとすると、それを止めるように陽子が満里奈の両肩を押す。


「謝らなくていいのよ! あなたは? 怪我無かったの?」


「は、はい」


「それは良かった。えっと」


 陽子が伺うように満里奈を見つめる。その意味を察し、満里奈は慌てて口を開く。


「片倉 満里奈です! 狭山くんと同じクラスです!」


「そうなの! こんな綺麗な子が拓のクラスに居るなんて知らなかったわ」


 寝ぐせの付いた満里奈の長い髪を陽子は遠慮なく手櫛で直す。


「こんな家でよかったら好きなだけいてちょうだい。親御さんが帰ってくるまでは家にいてくれて構わないから」


「いえ、そんなご迷惑じゃ」


「子供は遠慮しなくていいの! 困ったときはお互い様って言うでしょ? それに人がたくさんいると賑やかになるから、わたしも嬉しいのよ」


 陽子はシワシワになるような満面の笑みを浮かべた。


「ありがとうございます」


 満里奈は安堵したような、どこか嬉しそうな笑顔で陽子に笑い返す。


「そう、今日も学校は休校みたいよ。ガラスの破片が散乱して片付けに戸惑ってるみたい」


「それなら満里奈さんとふたりで拓のお見舞いに行ってくるよ」


「あら、なら着替え頼める? わたし午前中は仕事なのよ」


「うん、任せて」


 助かるわ~と、陽子はフライパンに新たにハムを入れ始めた。辺りにいいにおいが漂う。


「朝ごはんもうすぐだから、先に顔洗ってきなさい」


 アキと満里奈は昨日ろくに食べずに寝てしまい、空腹が限界に達していた。今にも鳴りそうなお腹を押え、洗面台へと走った。



 その日は夏にしては日差しが優しく、いつもよりかは過ごしやすい日だった。

 朝食抜きで始まった検査で、拓は空腹を感じつつ、いくつもの検査室を回り歩いた。一通り検査を終え、看護師から食事の許可が出されたものの、病院食は片付けられた後だった。拓は仕方なく財布片手に売店でパンと牛乳を買い、病院の敷地内にあるちょうどよい木陰のできたベンチに腰を落とす。

 買ってきたパンを頬張りながら、ぼんやりと昨日の出来事を思い返していると、なんとなく自分の体に違和感を覚えた。


「なんで」


 微かにパンを持つ手が震えていたことに気付く。

 拓は幾度か深呼吸を繰り返すと、その震えは徐々に治まっていった。


「今更、怖いとか情けないな」


 自分の中に隠れていた死への恐怖心に初めて触れた瞬間。

 拓は懸命にそれをまた消し去ろうと、硬く目を瞑り、静かな闇に身を委ねた。

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