第2話

 サミュエル様の申し出に私は戸惑いました。それはそうでしょう。


「私の妻は四年前に他界している。つまり私には現在妻がおらぬ。だから君に私の後妻になって欲しいのだ」


 言っている事は分かりますよ。大女神様と共に誓う相手は一人、とはいえ、死別の場合に後妻を娶る事を禁ずるほど大女神様も頭は固くありません。後妻を娶る事は許されています。


 何でもサミュエル様の亡くなられた夫人はサミュエル様の五歳下。亡くなられた時は四十四歳ですから結構若くして亡くなられています。仲睦まじい夫婦だっただけにサミュエル様は大変悲しまれ、これまで後妻も愛妾も娶る事は無かったのだそうです。


 それなのにこんな嫁ぎ遅れの大年増を今更、後妻に迎えようというのですか? 意味が分かりません。


 しかしサミュエル様は真剣な表情と態度でお話下さいました。


「求婚の理由は君の事が気に入ったからだ。私ももうこの歳だ。今更娘のような年齢の君に情欲を抱いた訳ではない。しかし、君の聡明さ、能力、毅然とした性格に心打たれたのだ」


 女性として気に入った訳ではないと仰います。求婚のセリフとしては異例でしょうけど、おそらくは私の嫌悪感を薄めるためだと思われます。


「君の能力は、広大な領地を経営する侯爵夫人としてこそ輝く。家庭教師や伯爵領の経営の手伝い程度には勿体ない」


 つまり私の領地経営の知識と能力を買いたいということの様です。


「それならば私を家臣として召し上げて下されば良いのでは無いでしょうか」


「無理だ。手伝い程度なら兎も角、女性の君を侯爵家の家臣筆頭にする訳にはいかない」


 それはそうでしょうね。侯爵家の家臣には伯爵家の当主さえ含みます。伯爵家の娘の私が家臣筆頭になっても反発されるだけでしょう。


「しかし私の妻になれば、侯爵家の正夫人になれば、君は堂々と領地経営に手腕を振るえる」


 侯爵夫人は伯爵家当主よりも位が上になりますし、夫人は忙しい当主の代わりに領地を経営するのが当然です。なるほど。私が存分に領地経営で能力を発揮するには、侯爵夫人になるのが一番です。それは分かりました。しかし……。


「私は父の伯爵領の経営のお手伝いしかしたことがありません。侯爵領の統治など出来るでしょうか?」


 サミュエル様は呆れたようなお顔をなさいましたよ。


「何を言い出すのか。君は自己評価が低すぎる。君が経営に携わるようになってから、伯爵領の収益は倍増したと聞いているぞ? それにエクバールのあの様子を見れば分かる。君は天性の政治家だ」


 べた褒めですが、私には私自身の事は良く分かりません。しかし、サミュエル様が私を非常に高く評価して下さっている事は良く分かりました。


「悪いようにはしない。どうか私の所に嫁に来て欲しい」


 サミュエル様は改めて私に求婚なさいました。というより「侯爵夫人」という役職へのスカウトですね。これは。


 私は考え込んでしまいました。


 勿論ですが、このお話は私にとって悪い話ではございません。いえ、もの凄く良いお話だと言って良いでしょう。嫁ぎ遅れの伯爵家の七女にとって、侯爵家の正夫人になるチャンスなどほとんど奇跡のような幸運と言っても過言ではありません。子爵夫人になるよりもずっと良い話なのです。


 普通に考えて受諾一択。断ったりしたら両親や兄姉から「馬鹿だろう!」ともの凄く怒られるでしょう。エグバタナ伯爵家としても侯爵家、しかも上司であるサミュエル様に嫁を出す事は願ってもないお話なのです。


 後は私の気分の問題です。私はサミュエル様を睨みました。


「……私に、侯爵様が望むような能力が無いと、結婚後に分かった時はどうするのですか?」


「どうもせぬよ。その場合は普通の侯爵夫人として暮らしてくれれば良い。まぁ、そんな事は無かろうがね」


「……私に『妻』としての、女性としての役目は求めないのですね?」


「ああ。私はもう子供は要らぬから、君が望まぬなら求めぬ。勿論、君が求めてくれれば喜んで応じるがね」


 サミュエル様は苦笑なさいました。この方が好色だという噂は聞きません。夫人を亡くされてから今まで愛妾を一人も娶っておられない事も知っています。そして、お屋敷の使用人達からも非常に慕われ、息子であるエクバール様もサミュエル様を最初から敬愛していました。あの気位が高く自分より能力の低い者には従わないエクバール様が尊敬を露わにするのですから、サミュエル様は人格も能力も大変優れた方なのでしょう。


 ……この時点で私の心はかなり受諾に傾いていました。しかし、決心は出来ません。


「……考えさせて下さい」


「良いとも。エクバールの教師役が終わるまでに結論を出してくれれば良い」


 サミュエル様は快く保留を許可して下さいました。度量も大きく、心もお優しく、良い方です。この方なら約束を違えることはなさいますまい。


  ◇◇◇


 私は悩みました。なぜ悩むかと言えばあまりにも魅力的なお話だったからであり、同時に初婚であり、恋愛経験皆無のままいい年齢になってしまった干物女である私にとって、自分より三十歳も年上であるサミュエル様への嫁入りには心理的な抵抗が大き過ぎたからです。


 つまり要するに、私は男性観恋愛観をちょっとこじらせているのでした。自覚はあります。


 仕方が無いと思いませんか? 私は幼少時から伯爵家の箱入り娘として育ち、それでいて嫁に行かれても困るから(家にお金がありませんでしたので)あまり夜会にも出されなかったせいで男性と接触できず、そのくせ適齢期を過ぎたら愛妾にしようとするギラギラ下心丸出しの年上の男性に群がられ、すっかり男性不信になっていたのです。


 そんな私にとってサミュエル様はこれまで声を掛けてきた男性と違うようには思われなかったのです。勿論、人格高潔で誠実な方である事はお話ししてみても噂を聞いてみても分かりました。以前の奥様を大事になさっていて、夫人に操を立てて周囲の勧めにもかかわらずこの五年妻も愛妾も娶っておられない。好色な男性とは正反対の方である事も分かっています。


 しかし、私の経験皆無の恋愛脳は、ちゃんとした恋愛をしたいし恋愛して結婚したいなどと無理を言うのです。既婚の大きく年上の男性では嫌だと。いや、貴族の結婚で恋愛結婚は少ないですし、私はもう二十五歳で一般的な結婚適齢期から外れていて、この先恋愛が出来る見込みなど有りません。それは分かっています。


 だから悩んでいるのです。うーん。困りました。領地経営の業務に関わる事であれば即断即決で人に驚かれるほどの私が、もう一週間も悩んでいるのです。異例な事だと言えました。


「先生は父と結婚するのか?」


 エクバール様との授業中、突然そう問われて私は心臓が口から飛び出すかと思いました。


「な、なぜそれを!」


 するとエクバール様は少し不機嫌そうに華麗なお顔を歪めました。


「父から聞いた。先生を後妻にして領地経営を任せると」


 口が軽いですよサミュエル様! ……いえ、違いますね。サミュエル様は私との再婚を真剣に考えていらっしゃるのです。それで、一人息子であるエクバール様にきちんと自分の考えをお伝えになったのに違いありません。何しろ、私とサミュエル様の結婚に、一番反対の声を上げそうなのはエクバール様ですから。


「それで、父の求婚を受けるのか? 先生」


 エクバール様に言われて私は言葉に詰まりました。その答えが出せなくて私はこの一週間ほど悶々と悩んでいるのですから。


 頭を抱えて唸ってしまった私を見て、エクバール様は鼻で笑いました。む? 先生に向かって微妙な態度ですよ。しかしエクバール様は真剣なお顔で私の事を見据えました。


「何を悩む事があるのか。結婚すれば良いでは無いか」


 意外な言葉でした。私は驚きに目を見張ります。


「……私とサミュエル様の結婚に反対しないのですか? エクバール様」


 絶対反対すると思っていたのに。しかしエクバール様は不機嫌そうな顔をしながらも肯定なさいました。


「ああ。性格は兎も角、先生の有能さは嫌というほど理解した。その領地経営についての豊富な知識もそうだが、あっという間に侯爵邸の使用人を信服させてしまった統率力も凄まじい。侯爵夫人として申し分無いだろう。いや、その能力を知ってしまった父が、今更先生を手放せぬと考えたのも無理は無い」


 エクバール様は意外に高く私を評価して下さっていたようです。しかし……。


「その、私が後妻に入る事に抵抗は無いのですか?」


 散々エクバール様を乱暴に扱っている私です。言っては何ですが絶対に彼に嫌われている自信がありました。しかしエクバール様は簡単に頷きました。


「ああ。私は先生の性格は好まぬが、私の妻になるわけでも無し。それに父の妻と言っても侯爵夫人として雇用するようなものだろう。私の母になるわけでも無い。構わぬ」


 流石はエクバール様ですね。私はこの一ヶ月でこの方が非常に聡明で才能に恵まれた方だという事をよく知っていました。そして急速に人格的にも落ち着いて、感情で動くような事も無くなっています。自分が嫌いな人間をもきちんと評価して扱えるようにまでなったかと思うと、彼の人格の矯正を頼まれた私としても嬉しいです。


「それにな」


 エクバール様はクククっと笑いました。


「先生がこの屋敷に通い、頻繁に父に会うようになってから、父の表情が日増しに華やいできたのだ。知っているか? 先生が来る日前の日には床屋を呼んで髪と髭を整えさせているのだぞ?」


 私は驚きました。それは初耳です。それに、私に対する情欲は無いと仰っていたのに。


「あれはな、恋だな。まるで初恋だ。先生と結婚するのはあくまで先生の能力が欲しいからだと強調していたが、あれは照れ隠しだろう」


 不覚にも私はちょっと頬が赤くなってしまいます。私は情欲を抱かれた事はあっても恋心を向けられた事などありません。あの堂々とした紳士であるサミュエル様が、私に恋しているなど俄には信じ難いですし、反応にも困ります。ですが、嫌な気分はしませんでした。


「良く父の様子を見て、そして考える事だ。先生なら侯爵夫人くらい容易い仕事だろう。後は、先生の気持ちの問題だな」


 エクバール様はそう言って意味ありげに微笑んだのでした。


  ◇◇◇


 エクバール様に言われて私はサミュエル様の事をお会いする度に観察してみました。確かに、毎回凄くさっぱりした格好をなさっていましたね。元々凜々しい方で、若い頃は戦場を駆け回ったというくらい逞しい方でもあるのですが、年齢よりずっと若々しい印象です。


 その事を侯爵家の侍女長であるハイミンに聞いてみますと、ハイミンはクスクス笑ってこう言いました。


「この所どんどん若返っておいでですよ」


 何でも五年前、奥様を亡くされてからがっくりと老け込んでいたものが「なぜか」最近若さを取り戻しているのだとか。


 ハイミンは口には出しませんでしたが、私と会うようになって若返ったのだ、と匂わせていましたね。


 お会いすると、サミュエル様は私を丁重に扱って下さいます。まるでお姫様を扱うようです。私が恐縮しても「いいからいいから」とニコニコとしながら私をエスコートして下さるのです。それでいて慎重に私の身体への接触を避け、私に嫌悪感を抱かせないように配慮なさって下さっているのが分かります。


 求婚から二週間もお待たせしてしまっても、一切その事を口には出しません。侯爵様の方が遙かに身分が高いのですから、お待たせするなんて本来は失礼なのです。それなのに一切不機嫌なご様子をお見せになりませんし、そもそも求婚についての話題を出しません。しかしエクバール様にまでお話をしているのですから忘れている訳ではないのです。


 実にやり方がスマートで、それに気が付くと私は次第にサミュエル様に惹かれるものを感じるようになりました。当たり前かも知れません。私はおそらくこれまで、本当に魅力的な男性に出会った事が無かったのです。そしてサミュエル様は、後で聞きました所、若い頃は帝国中の貴族令嬢の憧れを一身に集めた事があるほどの方だったのです。


 現在でも帝国政府で要職を占めておられ、皇帝陛下も一目おいているという噂です。軍を指揮して隣国との戦いで大きな功を挙げた事もあるとか。これほどの男性は広大な帝国を探しても二人といらっしゃらないでしょう。


 そのお方が、私を妻にと望んだのです。好意を持って下さったのです。これは大名誉と言うべきでした。意識して過ごす内に、私はドンドンとサミュエル様に惹かれていきました。こうなると、もう選択肢は一つしかありません。


 求婚から二週間後、いつものようにエクバール様の教育が終わって、私はにこやかなサミュエルと向かい合って座りました。


 私は緊張しながらサミュエル様を正面から見詰めました。緊張していたせいで、多分睨むような表情になってしまったのでしょう。サミュエル様は上げ掛けたカップを戻して姿勢を正します。私は決意して口を開きます。


「サミュエル様」


 口調が固くなってしまいました。もう少し優雅な口調で話せると良いのに。


「何かな?」


「求婚の件についてお返事致します」


 サミュエル様は微笑みを浮かべたままゆっくりと頷きました。


「うむ」


 その優しいサミュエル様の表情に励まされるように、私は何とか口を開いて、言葉を発することが出来ました。


「求婚を、お受け致します」


 私が何とか言い切った瞬間、サミュエル様は「ふー……」と長い息を吐きました。そして破顔します。


「そうか。それは良かった。受けてくれるとは思っていたが、流石にドキドキしたぞ。私は心臓が弱いのだ。あまり緊張させないで欲しいな」


 私は反射的に謝りました。


「すいません」


「なに、大した事はない。君が私の所に来てくれると思うだけで心が躍って仕方が無いのだ。よく決心してくれた。ありがとう」


「こ、こちらこそ、不束者ですが、よろしくお願いいたします!」


 私が頭を下げると、サミュエル様はゆっくり立ち上がり、テーブルを回り込んで私の方に静かに近付いて来ました。私も立ち上がります。


 間近から、サミュエル様のアメジスト色の瞳が私の事を見下ろします。私は息を呑みました。顔が赤くなるのを感じます。


「……抱きしめても良いだろうか?」


 サミュエル様は、男性慣れしていない私に配慮して、これまで慎重に私へ触る事を控えて下さっていました。


 しかし、私にはもうサミュエル様への嫌悪感などありません。むしろどんどん膨らむ好意しかありませんでした。私はそれでもオズオズと頷くことしか出来ませんでした。


 サミュエル様は頷くと、その大きな身体で包み込むようにして私を抱きました。優しく、それでいて力強い抱擁です。暖かく、心地良い感触でした。


「歓迎しよう。我が妻よ。これからよろしく」


 私はその言葉に、不覚にも目が潤んでしまいました。私は何度も頷き、そしてどうにか言葉を絞り出したのでした。


「ありがとうございます。私の旦那様」


  ◇◇◇


 こうして、私とサミュエル様は婚約しました。


 大騒ぎになりましたよ。特に私の実家が。


 嫁入りなどとっくに諦めていた末娘が結婚すると言い出したのです。しかも相手がお父様の上司であるサミュエル様だというのですから。


 私の言葉を当初、両親は信用しませんでした。それはそうでしょうね。頭がおかしくなったのかとまで心配されましたよ。


 しかし、私はサミュエル様の書かれた結婚申込書を持って来ていました。お父様はサミュエル様の筆跡は当然知っています。なので一目でそれがサミュエル様の直筆だと分かり、正式な作法に則って書かれたそれが間違い無く本物だと分かり、これは冗談でも娘がおかしくなったのでもない事を悟ります。


 お父様はガタガタと震え出してしまいましたよ。お母様もお姉さまも愕然です。


 挙句に三日後にサミュエル様は正式に、我が家に結婚の申し込みに見えました。正装に身を包んだサミュエル様が、お父様に頭を下げて「ご令嬢を、我が妻に頂きたく参上した」と言った瞬間、お父様は泡を吹いて倒れてしまいましたよ。


 もう我が家はてんやわんやの大騒ぎになってしまいました。手回しの良いサミュエル様はお父様から婚姻の承認をもらうと(断れるわけがありません)すぐに紋章院から書類一式を取り寄せて作成し、紋章院の承認と皇帝陛下の承認を得てしまいました。これで私とサミュエル様は婚約したことになります。


 婚約式は我が家に負担だろうと省略されましたが。翌年には盛大な結婚式が行われる事も決まりました。格上のお家に嫁ぐのですから、我が家は莫大な持参金が必要になる所でしたが、サミュエル様の計らいでこれは侯爵家から融資を受ける形で解決されることになりました。要するに侯爵家から借りたお金を私が嫁入りの時に持って行くだけになったのです。当然無利子ですよ。


 婚約すると私は半分侯爵家の人間になります。この時点で私は侯爵邸に出入り自由の身になるのです。侯爵邸に私の私室が用意され、私の趣味でお部屋が整えられていきます。


 本来であれば、この時に夫婦の共用エリアも整えるのですが、サミュエル様は前の奥様と整えた共用スペースがお気に入りのようでしたし、私の趣味にも合いましたので手を付けませんでした。サミュエル様は整えて良いとおっしゃいましたけどね。


 夫婦の寝室は……。悩んだ末に一応は整える事に致しました。サミュエル様は何も仰いませんでしたけど、一応は。私はサミュエル様に好意を持ち始めていましたし、それに、正式な夫婦になるのにそれを完全に拒絶するのは不誠実な気がしたのです。


 でも、あくまで一応ですよ。お布団類、シーツ類、天蓋などを新調しておきました。その後様子を見てもサミュエル様は何も仰いませんでしたね。


 他にもウェディングドレスを作らせたり、侯爵家の家臣たちと顔合わせをしたり、侯爵家の歴史を調べたりしましたね。そんな風に忙しくしている内に、婚約期間は瞬く間に過ぎてしまいました。

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