河裸稞(がらら)

烏目浩輔

前編

 日本のしろのほとんどにほりが確認できる。敵の兵や野生動物の侵入を防ぐ障壁のひとつとなるように、城の周囲に大規模な溝を設けて水を通したものが堀だ。

 どの城の堀にも水棲生物の営みがみられるものだが、大阪城の堀のそれは専門家の頭を悩ませているという。


 周囲の川や池と繋がっていない大阪城の堀は、外部環境とのかかわりが完全に断たれている。そのような閉鎖された環境に棲む生物は、餌や栄養を充分に得ることができない。ゆえに生態系がさほど発展しないのである。

 しかし、大阪城の堀はその常識から外れており、非常に多彩な水棲生物が認められる。閉鎖環境下では異常といえるほど生態系が豊かなのだ。

 生物学者たちもその事実には首を傾げるばかりで、これまで不可解な例外として扱ってきた。


 だが、不可解な例外のわけが判明したかもしれないのだった。

 である。


 大阪城に棲まう河裸稞を説明するには、戦前までさかのぼる必要がある。

 戦前の大阪城周辺地域で奇妙な伝染病が蔓延したことがあった。激しい嘔吐を何度も繰り返すうえに、昼夜問わず便や尿を垂れ流すため、罹患者は脱水と栄養失調でひどく痩せ細った。最終的に死に至った症例も少なくなかったという。


 やまいの詳細な記録が不足しているために断定はできないものの、現在のノロウイルスに近いものが、蔓延していたのではないかという説が有力だ。ただ、ノロウイルスよりも感染力が強く、致死率も高い印象であるから、未知のウイルスだった可能性も捨てきれない。

 

 いずれにせよ、当時のが病の治療に尽力したのだが、それでも死者の数は増えていく一方だった。大人も子供もその病の犠牲となった。


 すると、民衆のあいだにある噂が広まりはじめた。これはやまいではなく呪いではないのかというものだ。戦前には呪術の存在がまだ信じられていた。

 一度呪いだという噂が流布されはじめると、多くの民衆がそれを信じるようになった。死者が増えれば増えるほど、その噂は広まっていったのだった。


 そして、しゃという女がその噂をいっきに煮詰まらせた。

 迦紗は高位の神社に仕えている巫女であり、若くとも霊妙な力に通じていると畏れ、うやまわれていた。その迦紗がこの病は呪いによるやくであると断じたために、民衆の心は呪いだという噂になおさら傾倒した。


 やがて民衆は迦紗に「何者が仕掛けた呪いなのか?」と問うたのだった。

 

 迦紗は民衆に応じて神に祈祷を捧げだ。まもなくして神の声を授かり、その神託はすぐに民衆に伝えられた。


 ――の地に満ちるじゅは、大海の彼方かなたよりたり。


 つまり、大阪城界隈に蔓延している呪いは、外国からきたものだと結論づけたのだ。それを聞いた民衆ははっと思い至り、リュウ一家の仕業に違いないとささやき合った。


 劉一家は大阪城のほど近くに住んでいる中国人の貧しい家族だった。屑板を組み合わせだけのみすぼらしい家に、夫婦と十歳になる娘の三人で暮らしていた。

 当時の大阪城界隈で外国にかかわりがあるとすれば、中国人の劉一家に限られていたため、呪いは彼らの仕業であると決めつけられたのだった。


 民衆はもう一度迦紗に「この呪いへの対処法はないのか?」と問うた。

 


 迦紗は再び祈祷を神に捧げて、呪いへの対処法を、神託として民衆に伝えた。

 呪い返しは呪術者に死をもたらす必要があるため、この呪いをおさめるには劉一家の命を奪わなければならない。ただし、単なる死であれば呪いは再び戻ってくる。ひどい苦痛を伴う死を与えてやることで、呪いはこの地を恐れて二度近づかなくなる。

 つまるところ迦紗は、リュウ一家を拷問して殺害しろと指示したのだ。


 民衆はすぐさま劉一家と捕らえると、迦紗の言葉に則って、ひどい拷問を加えて殺害した。

 最初に命を奪われたのは十歳の娘である劉苡鈴イーリンだった。


 民衆は夏の太陽のもとで、苡鈴を裸に剥き、手足を縄で縛りあげた。それから、苡鈴を数名で取り囲んで、彼女の全身に小刀で浅い傷を無数に刻んでいった。

 痛覚が多く存在するのは皮膚の表面だ。浅い傷を無数につけると失血死などには至らないが、気が触れるほどの恐ろしい痛みに襲われる。深い傷をひとつつけたときと比べれば、何十倍もの苦痛だともいわれているのだ。ようするに、簡単には絶命させぬように、かつ耐えがたい痛みを与えられるのだった。

 そうやって民衆は苡鈴の顔面や身体からだや四肢に浅い傷を無数につけた。指一本一本にも執拗に傷を刻んでいき、髪を剃りあげて頭の皮膚にも傷をつけた。


 さらに民衆は苡鈴のまぶたを縫いつけて、目を閉じられないようにした。夏の陽に焼かれた目玉はどんどん乾涸びていき、とうとう視力を失い、なおも乾涸びていってぼろぼろと崩れていった。

 いつしか全身の傷にうじがわき、幼い苡鈴は苦しみ抜いて、とうとう体力が尽きて息絶えたのだった。


 そして、娘の苡鈴がそうやって死んでいくさまを、民衆は父親と母親に見せつけた。

 苡鈴が死ぬまでは両親にいっさい拷問を行わず、しかし手足を縛りあげて動きは封じ、拷問されている苡鈴のそばに捨ておいていたのだ。

 拷問に苦しみ続ける娘のそばで、両親はなにもできずに泣いていた。

 もう殺してやってくれ。両親は民衆にそう懇願したという。


 苡鈴が死んだあとは、母親の劉紅花ホンファへの拷問がはじまった。

 中国にりょうけいという処刑法がある。刃物などで肉体を少しずつでぎ落としていき、長時間にわたり激しい苦痛を与えながら、死に至らしめるという残酷な処刑法だ。紅花にはその凌遅刑が行われたのだった。


 民衆は紅花を裸にして大木に縛りつけ、ふくらはぎの肉からぎ落としていった。肉を削ぐにはあえて歯のこぼれた小刀を使ったが、削ぎ落とすだけでは失血死する可能性がある。小刀で肉を薄く削いだあとは火で焼いて止血し、また小刀で肉を薄く削いで火で焼いて止血した。失血死に注意しながら少しずつ肉を削いでいった。


 ふくらはぎが終わると同じ要領で太ももの肉を削いだ。さらには腹の肉も削ぎ、尻の肉も削ぎ、背中の肉も削いだ。削いだ肉を周囲に捨てていたため、何匹ものカラスがそれをついばみにやってきた。

 身体からだの肉をあらかた削ぎ終えると、今度は頭部に小刀を差し向けて、鼻や耳を削ぎ落とした。それから顔面や頭の肉を削ぎ、上唇と下唇も削ぎ落とした。


 頭部の肉を削いでいる最中に紅花は死亡したが、失血による死ではなかった。激しい痛みを長時間にわたり与えられていたために、心臓が耐えられなくなって死亡したのだった。



     後編に続く





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