徒然に、君想う。

夜海ルネ

未練たらたら、徒然なるままに。

 夏が帰ってくる。

 むせ返るようなアスファルトの熱、低空に陣を張る入道雲。去年の夏、君はあの雲を見て、「ソフトクリームみたいだね」と笑った。


 エアコンは一ヶ月前に沈黙を決め込んだ。扇風機もないボロアパートの一室は、自家製サウナさながらだ。茹だるような熱気が飽和している。

 缶ビールのプルトップをプシュッと開けて、目の前の虚空を執拗に見つめながら中身を喉に流し込む。喉が焼ける。勢いで全部飲み干した。




 あの夏、あの忌まわしき夏。彼女は突然、いなくなった。触れられない距離にまで、彼女は離れていってしまった。彼女は自分の車に乗り込んで、部屋を出ていった。もう連絡もつかない。


 でも、居場所は何となく見当がついていた。ちょっと遠いけど、まあ、会いに行けない距離でもない。


 今から、君に会いに行こうと思うんだ。一ヶ月前、そう決めたんだ。君は怒るかな。「何で追いかけてきたのよ」って、怒るかな。


 けど、ごめん。君が思う以上に、未練がましい男なんだよ。




 床に静かに寝転んだ。もう、体を起こす気力すら失せた。あとどれだけ、呼吸を続けていられるだろうか。


 投げ出した左手の薬指にはめ込んだ二つのダイヤが、鈍く光った。それは言葉にできない思いを浴びてルビーと成り果てた。また出会えたら、もう一つは君に。今度こそ。


 君がこの部屋から出ていって、一年。あの日も、むせ返るような暑い日だった。あの夏が、帰ってきた。


 君のいない一年を過ごした。ひどく退屈だったんだ。匂いも味も分からなくなってしまったんだ。ショックとか、そんな安っぽい言葉じゃ言い表せないほど、壊れてしまったんだ。


 ふと、泣けてきた。君に会えると思うと、嬉しくて嬉しくてしょうがない。君に会って初めて、生の意味を見出せそうな気がしている。


 瞼が重くなってきた。背中が、何だか温かい。体の中の温度が、部屋の床に漏れ出していた。濃くて赤黒い匂いが鼻をつく。


 霞んだ視界の中で、部屋の隅の棚に置かれた写真立てが目に入った。そこには君がいた。


 目が合った。


 ……ああ、僕はやっと、君に会いに行く勇気を——。


 ゆっくり、目を閉じた。心臓は、それきり黙り込んだ。包丁が突き立てられた腹は、とっくに痛みなんて感じていない。時間が静止した。


 遺影の中の君は、笑っている。永遠に、笑っている。

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徒然に、君想う。 夜海ルネ @yoru_hoshizaki

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