初鰹

百歳

初鰹

 アルバイトが全員やめていた。たったひとり僕をのこして。グエンさん、チンさん、リーフィさん、ツェンさん。ごみ溜めだったロッカーをあけてみたら僕の制服だけがハンガーにかかって揺れていた。風もないのに、そよぐように揺れていた。右に四つほど並ぶロッカーをすべてあけてみたが空だった。

 立ち尽くしていると背後のドアが開いて女が入ってきた。知らない顔だった。「どうしたの? 泣いてるんですか?」いやそういうわけでは。「ふうん」女はツェンさんが使っていたロッカーに鞄をほうり投げ、シャツのボタンを外しはじめた。更衣室を出ようと思った。もう帰ってこないつもりでロッカーを閉めたら「あ、べつにいいですよ、居てもらっても」といった。女は藤峰と名乗った。


 この頃、東京では原因不明の細かい粉が舞っていた。店のマスクが飛ぶように売れ、喉スプレーや鼻スプレー、目薬、制汗シートなども売り切れ、黄砂なんじゃないかと店長はいっていた。インフルエンザの流行にあわせて大量に仕入れ、そして大量に余らせていたマスクの在庫がきれいに捌けていくので、店長は上機嫌であった。太平洋側から吹いているから黄砂ではないとツェンさんはいった。

「ちょっと粉がついたくらい、どうしたよ」

 ツェンさんは蕎麦をすすり「ケッペキはね、逆にきたないよ」とつゆを飛ばした。

 僕は毎休憩時間、ツェンさんと蕎麦を食していた。

 ツェンさんは履歴書を出さない代わりに人一倍働いていた。学生バイトがサボタージュするような日も、店長からの電話にワンコールで出、文句もいわず代理出勤し、黙って品を陳列し、検品し、処方箋をさばいて、ハードボイルドな女性だった。学生バイトが後日謝りにきたときも「いいさ」のひと言で済ませてしまうようなところに僕はふるえる。僕がおどおど口ごもったときも「背中まっすぐして吉崎」と鋭くいっては僕の背筋が伸びたのを認めるとサムズアップで応えた。けれども日頃からそんな調子だから、普通にしている状態であっても彼女の眉間には皺がよっており、学生バイトは一緒のシフトに入るのを嫌がった。グエンさんやチンさんやリーフィさんも、積極的にはツェンさんとシフトをかぶせない。しかし僕は二年間、ツェンさんと仕事をして、彼女が怒っているところを見たことはついになかった。内側にあふれる愛情が表に出てこないだけだった。

「あいつはもう、レジもカードも覚えた。見どころがあるよ」

 いつかツェンさんはいった。けれどツェンさんの思いはいつも届かなかった。働きづらい、もっと楽しく働きたかったと洩らして学生バイトは消えていった。


 今やめたら呪うから。店長は充血した目でこちらをにらみつけるが、ツェンさんやみんなのゆくえを教えてくれない。僕は黒魔術を信じるたちだったから、しかたなく藤峰と働いた。藤峰は無駄に喋るやつだった。粉のせいで喉が変で声かすれる。そういいながら、でも喋ることはやめなかった。今朝うがい液を飲んでしまったとか、喉スプレーが美味しくてやめられないとか、よく扁桃腺の話をした。耳鼻科いったら前の患者が扁桃腺を切るとか医者にいわれてて、うわーって思って。初日は喉の話で持ちきりだった。翌日は裏社会の話をしていた。ジョン・ウーのせいで眠れない。藤峰の目はらんらんとしていた。

 ツェンさんたちがやめてから店長の姉夫妻が臨時で手伝いにきてくれたため、店はなんとかしのいだ。夫婦揃って手伝うということはどちらが家計を握っているのか、藤峰は余計な詮索を入れた。インターネットの募集はかけなかった。そんなもので来るやつにロクなやつはいない。店長は学生バイトが逃げ出すのををネット求人サイトのせいにした。

 藤峰は姉夫婦が近づくとしゅんとなる。明らかな年上とはうまく話せないと藤峰は目を伏せた。だからなのか僕たちはたいていふたりでシフトを組まれた。

 店は午後から客足が増えるので、僕たちは早めに昼食をとる。ツェンさんがいなくなってからも惰性で同じ蕎麦屋に通っていたが「違うところも行きましょうよ」と藤峰が提案したのでこれも惰性でつきあいはじめた。この界隈はやたら蕎麦屋が多かった。藤峰は天ぷら蕎麦や山かけ蕎麦や、そういうものを毎回注文する。リッチな身分のようである。僕は薬局の収入でささやかに生計を立てていたので、どこでもざる蕎麦頼んだ。

 マスクの売れ行きにはうんざりしていた。列が店を半周もして、あんなにマスクを買い占めても口が足りないのではないか。日本人はそういうところに節度がない。


 額の汗を拭きツェンさんは働いていた。粉が気管に入るようで、何度も咳払いをして、喉元を細い指先で掻いていた。

「うがいしなよ」

 店長が助言すると、ツェンさんは顔をしかめた。店長に連れられて店の奥に行き、僕もなんとなしについていくと緊張した面持ちでコップの水をみていた。ツェンさんはうがいをできないことがわかった。洗面台でむせた。

 最後に会った日も、ツェンさんは店長と一緒にうがいの練習をしていた。

「うがい、できました?」

「できないね」

 僕はツェンさんのためにのど飴を購入した。知らなかったけれど彼女は飴が好きだったみたいで、とても喜んでくれた。たぶんそれが最後にみた笑顔で、その輪郭がわずかにほどけかけていると気づいてなおさら悲しくなった。

 ツェンさんのいない夏がこようとしていた。

 去年の夏、ツェンさんと僕は仕事終わりに縁日へ寄った。涼しい夜だった。ツェンさんはみかんの水飴を舐めながら歩いた。金魚すくいを通りすぎ、焼きそばの列に並んだ。フランクフルトにマスタードをかけ、あんず飴を呑みこみ、射的は通りすぎて、ソースせんべいを重ねていた。僕がおごるといったからである。ルーレットでソースせんべいを一五〇枚当て、ソースを全種類つけろと屋台の兄さんに要求する。最後にまたみかんの水飴を噛んだ。僕はその様子を眺めながら発泡酒をちびちび飲んでいた。

 人のいない方へ僕たちは歩いた。陽は落ち、風が足下を抜けて木の匂いがしみていた。ツェンさんは割り箸で歯についた水飴をとっていた。

「ここ、縁結びの寺らしいですよ」

 僕が教えると、ツェンさんは鼻で笑った。

「わたし、縁切りのほういきたいけどね」といった。

「それなら東慶寺ですね、鎌倉の」

「神はいるよ」ツェンさんは真面目な顔だった。

「なにか祈りにいきませんか?」

「神はフトコロが深いからね」

 僕は五百円玉を投げて、ツェンさんは割り箸を投げた。そして手をあわせた。

 縁日がひらかれることを店長から聞くなり、行きましょう吉崎さん、と藤峰はいった。僕は首を横にふった。

「ひとりでいけっていうんですか」

 藤峰は拗ねている。どうやら友達がいないらしい。僕は今年の手帳を購入したときから、この日をおさえていたのだ。手帳にはまだ(ツェン・縁日)とつけてある。

「なんだ、いくつもりじゃないですか縁日」

 藤峰は僕の手帳を取り上げて、胸ポケットからペンを抜き、(ツェン)のところに二重線をひいた。そして自分の名前を書き入れ、うなずいた。僕とツェンさんの予定は雑な線で絶えた。


 藤峰は縁日の女だった。職人的な手さばきで大量の金魚をすくう。射的でジッポを落とす。道ゆく子どもたちにスーパーボールを分け与えた。金魚袋のなかで、金魚たちが縫うように泳いでいた。藤峰は上手に身体をひねって人の波をかわし、僕はたまに置いていかれながらも背中を追った。とっく発泡酒はぬるくなっていた。

 見失いそうになるたび藤峰は大きく手をふった。もう粉はやんでいて、その白い腕がはっきり見えた。

「粉はかつおぶしね」

 最後の会った日、ツェンさんはのど飴をころがしながらいった。

「舐めたの?」

 店長が訊くとツェンさんはあいまいに笑った。

「わたし去年、あの寺で吉崎と祈ってるとき、かつおぶし買わなきゃと思ってた。今年はちゃんと祈らなきゃ」

 ツェンさんは粉で霞んだ夕空を眺めていた。


 僕が追いつくと藤峰は往来から脇に寄った。それから、こぶりな巾着からぼろぼろのメモ帳を取り出した。黒ずんで角が取れている。これね、ツェンさんのですよ。藤峰は僕の目をまっすぐに見ていった。

「制服のポケットに入ってました。手製のマニュアルかな」

 それがマニュアルなんかでないことを僕は知っていた。ツェンさんの願いごとが書かれたリストだ。なにを祈るか考えてたら、人生を考えるハメになった、ニガテね、そういうの。ツェンさんはメモに目を落としながら、疲れた口調で教えてくれた。

「中国語だから読めないですけど」

 藤峰は金魚を僕に預けてメモ帳を開き「でも雰囲気ならわかりますね」と僕の顔の前でひらひらさせた。

「ほしい?」

 藤峰は無防備に笑った。僕にはツェンさんの希望などひとつも思い浮かばなかった。

「わたしはまあ、あってもなくても? あなたがほしいかですよ」

「ほしいっていったらくれるの」

「わたしの心は広いですから」

「……いらないよ」

「かわいくないですねえ」

 藤峰は困ったような笑みを浮かべた。バッグの中にメモ帳をしまった。あげませんよ。金魚を僕の手から取り返して石段を登ってゆく。藤峰は浴衣を着ていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

初鰹 百歳 @momo_tose

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る