誤解しないで、吾川さん
蟹場たらば
1 チンチラを下ネタだと思っていた吾川さん
今にして思えば、
四月、高校の入学式の日――
掲示板でクラスと出席番号を確認した僕は、そのまま生徒玄関へと歩き出した。
10番の下駄箱に靴をしまう。上履き用のサンダルに履き替える。会場の体育館に全員で移動するために、まずは一年三組の教室に集合する――
そのはずだった。
「えっ」
教室に向かいかけた僕の耳に、女子の驚く声が飛び込んできた。
「あ、あれ?」
今度は困惑するような声だった。
反射的に足を止めて、僕は声のする方に視線を向ける。
すると、彼女と目が合った。
まるで子犬や子猫のようだった。小柄な体格に反比例するように、くりくりと大きな瞳をしている。
けれど、今その瞳には、不安と焦燥ばかりが浮かんでいた。
知らない女子に話しかけるのは気後れしてしまうけれど、助けを求めるような視線を無視はできない。
それに同じ下駄箱を使っているあたり、彼女も三組の生徒なんだろう。今日から一年間顔を合わせる相手だと考えると、ますます無視するわけにはいかなかった。
「どうかした?」
「わっ、私21番の、私の名前は吾川
不測の事態に混乱しているのか、それとも初対面の相手に緊張しているのか。彼女は支離滅裂にそう答える。しかし、言いたいことは大体分かった。
それにトラブルの原因も。
「誤解だよ、吾川さん」
僕は下駄箱の扉を閉めると、表に記された数字を示す。
「これは21番じゃなくて27番だよ」
「え?」
「上が26番で、下が28番でしょ。だから、これは27番の人の下駄箱。21番はこっちだね」
案の定、扉を開けてみると、今度は何も入っていなかった。
他人まで巻き込んでおきながら、結局トラブルの原因は自分の勘違いに過ぎなかった。そのことを理解した瞬間、彼女は真っ赤になってしまう。
「ご、ごめんなさい。私、早とちりしてたみたい」
「ちょっと書体がまぎらわしいよね」
恥ずかしがるような、申し訳なさそうなような様子の彼女を見て、僕はそうフォローするみたいなことを言うのだった。
ともあれ、これでもう問題は解決しただろう。僕は改めて一年三組の教室へと向かうことにする。
けれど、彼女に再び呼び止められてしまうのだった。
「あの、わた、私は吾川愛羽っていいます」
名前ならさっき聞いたばかりだけど……
もっとも、別に彼女もそのことを忘れていたわけではなかったらしい。
「あなたは?」
「僕? 僕は
こうして僕と吾川さんは、他のクラスメイトたちより一足早く、自己紹介を果たすことになったのだった。
また、その流れで、教室には二人で一緒に行くことになった。道すがら、「どうして親と一緒じゃないの?」とか、「中学はどこの出身なの?」とか、「部活は何かやってた?」とかいう話をする。
それから、「吾川さんのリボン緩んでない?」という話にもなった。
「入学式だからって、そんなに緊張しなくても」
……というのは、僕がまだ吾川さんのことをよく分かっていなかったがゆえに出てきた感想だった。
◇◇◇
五月、高校生活にも慣れ始めた頃――
休憩時間中に、僕は次の授業の用意を始める。教科書とノート、それから英和辞典を机の上に並べる。
指名の仕方からいって今日は当たらないだろう。ただ英語の先生は厳しいから、念のため予習の見直しをした方がいいかもしれない。そんなことを考えた時だった。
「せっ、清家君」
吾川さんがスマートフォンを見せてきたのだった。
「これどうかな?」
「どうってネズミだと思うけど」
「い、一応チンチラなんだけど」
大きな耳に、太いしっぽ、ふさふさの毛…… よく見れば、ハツカネズミやドブネズミとは全然違う。スマホに映った画像は、確かにチンチラのようだった。
でも、それが僕に何の関係があるんだろうか。
「前に『チンチラが気になってる』って話してるのをたまたま聞いちゃって。それで友達に飼ってる子がいるから画像を送ってもらって。あ、動画もあるよ」
「誤解だよ、吾川さん」
慌ただしい手つきでスマホをいじりだした吾川さんに対して、今度は僕が画像を見せる。
「僕が言ってたのはこっち」
「……猫?」
「そう、チンチラって猫にもいるんだよ」
ネズミのチンチラは、毛皮がコートやマフラーに利用されることもあるほど、体毛が豊かなことで知られている。それにちなんで、長毛種のペルシャ猫の内、特定の毛色の個体のことを、チンチラと呼ぶようになったのだそうである。
「そ、そうだったんだ。ごめんね」
「ネズミの方も好きだけどね」
半分は吾川さんへの気遣いから出た言葉だったけれど、もう半分は僕の本心でもあった。もっと言えば、猫やネズミに限らず、生き物全般が好きなくらいである。
だから、僕は別の画像も見せたのだった。
「ちなみに、チンチラってウサギにもいるよ」
「ウサギにも!?」
こんな風に吾川さんが早とちりをするのは、決して珍しいことではなかった。というか、日常茶飯事と言ってもいいくらいだった。
この一ヶ月の間にも、授業の変更があるのを忘れたり、寝癖がついたまま登校してきたり、オシキャットを推しの猫のことだと勘違いしたり、毎日のように何かをやらかしていたのである。どうやら吾川さんは、かなりそそっかしい性格をしているらしい。
だから、英語の予習を見せたり、それとなく鏡を見るように言ったり、オセロットみたいな模様という意味だと説明したり、僕は何かあるたびに吾川さんをフォローしてきたのだった。
◇◇◇
そして、六月――
休憩時間になると、僕は空き教室へと向かった。
「二人だけで話したいことがあるから」と、吾川さんに呼び出されていたのだ。
しかし、よほど言いづらいことらしい。僕がやってきたのを見ても、吾川さんはなかなか話を切り出そうとしない。ただ顔を赤くして、もじもじとするばかりである。
けれど、最後には意を決したように口を開くのだった。
「せ、清家君」
例の大きな瞳を見開いて、吾川さんは僕をまじまじと見つめてくる。
「こっ、今度の日曜って空いてますか?」
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