第17話

 忘れていたのは、その、誓いにも似た約束をした直後だった。

 思い出さなくてはいけなくて、そして、忘れていなければならなかったことだったのだ。


 修治が階段を下りるのを、珍しくさやは階段の下まで一緒におりたのだ。さやが、階段最後の鳥居の奥で、修治を見送る。決して鳥居からは出ない。修治はさやに手を振って、階段の最後を一段を降りた。


 そのとき、修治は気付いていなかった。階段の死角から車が走ってきていたのを。さやに目を向けたまま、修治は車のくる道に入ったのだ。


「危ない!」


 修治の体はどんっ、と押されて草の茂みに入った。


 一瞬だった。修治を助けるために車の前に立ったさやの体は、車に押された。体は軽くはねて、フロントガラスに乗る。ガラスにぶつかったと思ったら、跳ね飛ばされ、道の脇に落とされた。修治の目にはスローモーションで鮮明にその一連の動作が目に映った。


 まるで、車は何もぶつからなかったかのように通り過ぎていく。車体には一点の血も残さずに。

 だけど、さやは、血まみれだった。


「さや!」


 突き飛ばされた衝撃で、痛みを訴える体を修治は無理に起こしてさやに駆け寄る。さやの怪我に比べたら、修治の痛みなんて、かすみたいなものだ。さやを抱き起こそうとした修治に、さやは弱弱しい笑顔を向けた。


「……修治、大丈夫だ。私は、人間じゃないから、簡単に死なない」

「でも…」


 首を振って、修治はさやの手を握る。


「ほら、少しずつ治り始めているだろう?」


 腕の擦り傷が治り始めているのを見せて微笑む。けれど、えぐれた腹は、一向に血を流すのを止めない。


「さや! 嘘だろ? 死んじゃうよ!」


 修治は顔を歪めて、必死に泣くのを堪えながら、叫んだ。その言葉に、さやは腹に手をあてて、息を吐き、もう一度腕を見る。先ほどふさがりかけていた傷は、そのまま止まっていた。自己治癒が、進んでいない。


「………そうだな」


 苦しそうに息を吐いて、重くこたえた。


「誰か呼んでくるから! 待ってろ」


 歯を食いしばって、ぎゅっと目を一旦閉じてから、もう一度目を開く。それからそっとさやを地面に横たえて、修治は立ち上がりかけた。そこへさやが修治の足をつかんで、制止をかける。


「いや、しゅうじ、私は誰にも見えないから、治してもらえないよ」

「どうして」


 何故止める、と修治の目がさやを非難する。けれど、さやは弱く首を振ってその無言の非難をかわした。


「私は、大人には見えないんだよ。大人には、私は存在しない。……ばけものだから」

「でも!」


 修治は必死に首を振る。それでも、誰かを連れてくれば、誰か、見えるかもしれない。誰かが、さやを元気にしてくれるかもしれない。


「…見えたって、もう治せないよ。死ぬときだけ、人間になるからさ…大人に見えたって、そのときは、もう治せない…」


 さやの言葉に、しばらく沈黙が流れる。それで、修治は膝をついて、さやの側に座った。さやはふっと息を吐いて。修治の手を握る。修治は血がつくのも構わず、その手を握り返した。


「修治、約束をもう一つしよう」


 修治は無言でさやの言葉を促す。


「忘れろ」

「え?」


 さやの言葉に修治の顔が強張った。


「私のことを忘れるんだ」


 繰り返して、さやは念を押した。


「なん…で…」


 掠れた声で訪ねる。けれどそれに対するさやの答えは、まだない。

さっき忘れないと、そう約束したじゃないか。…そんな言葉が修治の顔に浮かんでいるようだ。


「そして、大人になったら思い出してくれ。私を、私の中の鬼を連れて行くために。……約束を守ってくれたら、この裏切られ続けた鬼を連れて行ける…」

「鬼…?」


 そこで初めて、修治は意味のある問い返しをした。さやは荒い息を吐きながら、激しく咳き込んで、呟く。


「……私の中のばけものだよ」


 ぴくり、と修治は体を強張らせる。さやは構わずに、荒い息を抑えながら、言葉を紡ぐ。


「私は、ここで死ぬ。けれど、逝かないで待っているから…。しゅうじ、お前は私を大人になっても忘れないと……そう約束してくれた。だから、お前が、大人になっても…私を忘れず、私の声を聞き、私に触れることが出来たら……」


 今度は、浅い、けれど苦しそうな息をさやは吐く。開いた方の手で、何とか、修治が泣かないように、修治の頬を撫でた。


「必ず迎えに来いよ」


 それが最後の言葉だった。ぽとり、とさやの手が落ちる。

 さやが事切れると、修治は、さやの言葉どおり、さやのことを全て忘れた。一緒に遊んだことも、さやが、死んだことも。


 神社の前の道で、少年は発見された。少女の死体を抱えて自失した少年は何を聞かれても、何を言われても、何もいわなかった。ただ、発見した町の人に、この子は誰だ、と言われたときに、一度だけ、「さや」と答えた。聞き返されても、あとは何もいえなかった。本当に忘れてしまったのだ。


 この事件のために、数日間、修治は病院で過ごすことを強いられた。そして、記憶の封印は、長く続かなかった。きっかけは、病院に見舞いに来た祖母の何気ない一言だった。


「もう、神社には行っちゃいかんよ」


 祖母がいつもくれる、砂糖菓子を弱弱しい手つきで、修治は口に運ぶ。


「行っちゃ、駄目なのか?」


 修治はのろり、と顔を動かして祖母の顔を見た。修治は神社に行ったような記憶がない。なのに、祖母には止められる。意味が判らなかった。祖母は、気遣わしげな表情を浮かべて、修治の顔を見返している。…病身にこの修治の事件は、さぞ体に障っただろう。しかも、祖母が化け物だと思っている『さや』と同じ名の少女の死体と共に修治が発見されたのだ。心配はもっともだった。


「もう、あんな思いはしたくないだろう?」


 祖母は、修治がさぞかし怖い思いをしたのだろう、と修治の頭を撫でてやりながら言う。修治が全てを忘れてしまったのは、酷く怖い思いをしたからに違いないと祖母や母は思っているのだ。だから、思い出さないように、怖い思いをしないように、神社に近づかないことだけは注意しておかねばならなかった。


「……でも…」


 言いかけて、修治の頭に、ふつり、と封じられたばかりの記憶が曖昧に戻る。

「……俺、神社に行かなきゃ。さや…そうだよ。さやと約束したんだ」


 それは最初にした約束だった。それだけを思い出した。とにかく、さやに会いに行かなきゃならない。ひとりにしたら、さやは泣くだろう。さやが泣いた顔を見た覚えは、修治にはなかったが、泣くような気がした。


「さやなんかおらん! 死んだんだ! あの女の子は死んだんだよ!」

「だって、約束した。明日も、明後日も、その次も遊びに行くって…!」


 金切り声で叫ぶ祖母に、修治は叫び返す。


 そうして、祖母が激しく止めるのにも関わらず、修治は、病院を抜け出て、神社へ行った。けれど…


 けれど、神社にさやはいなかった。末枯れた神社には、賽銭箱の横に、枯れた花が一輪、差してある空き缶があるだけで、それ以上、人の臭いはなかった。


「さや…?」


 きょろきょろと見回して、修治は必死にさやの姿を探す。毎日さやが活けていた、空き缶の花。それが枯れている。


 いつかさやは言っていた。


『この神社は誰もいないだろう?だから、私が毎日花を生けるんだ』

『空き缶っていうのが、しょぼいとおもうけどな』

『うるさいな。私は気に入ってるんだよ。……きれいだろ?』


 ふたをくりぬいた空き缶に花をさして、さやは嬉しそうに空き缶を日にかざす。空き缶がキラキラと光って、一緒に揺れる花がとても綺麗だった。


 花は、毎日さやが活けていたのだ。枯れた花が空き缶にささっていたことなんか、一度もない。なのに。


 修治は、さやの姿を懸命に探す。やがて、神社に夕焼けが降りて、少しずつに思い出す。約束をしたこと。そして、その後に……徐々に、修治は思い出してきて、不安になってくる。そこへ追いかけて、祖母がやってきた。


「いないのか? さや!」


 修治は必死に誰も居ない神社で叫ぶ。


「しゅうちゃん。こないだ、女の子が死んだんだよ」

「……」


 祖母が言うのに、修治は聞こえないふりをした。もう、思い出していた。さやが、死んだことだけ、思い出した。その時交わした約束を、修治は思い出していない。だから、修治は認めたくなかった。…さやが、死んでいなくなってしまったなどと。


「身元がわからなくて、名前は確かじゃないけど、しゅうちゃん、あんたはさや、って呼んだよ。着物を着た女の子だった」


「いやだ…知らない! 知らない!!」


 叫んで、暴れた後に、修治は気を失って、病院へと連れ戻された。

その日から、修治は、自らも自分が一緒に遊んだ女の子のことを忘れた。ただ、神社に近寄ることなく、忘れるように努めるうちに、いつしか本当に忘れてしまったのだ。


***


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