化粧と傷口

赤野チューリップ

短編小説

マスカラ、シャドウ、ネイル、ツインテール、リップ、香水。世の中には美しくて可愛いものが沢山ある。私は至極単純な人間だから、そんなものを身につけるだけで私の心はいつだって煌めくし、ときめける。自己満足だなんて周囲からは後ろ指を刺されるかもしれないけれど、そんなことどうだって良い。だって私の可愛さを認められるのは間違いなく私自身だし、私は可愛くあれる私の事が大好きだ。


待ち合わせ時間を五分ほど過ぎた当たりで、パパから連絡が来た。

〈愛ちゃん。ごめんね仕事で三十分ぐらい遅れちゃうかも。待てるかな?〉

〈大丈夫だよ!買い物してくる!〉

バックれないだけマシ。そう思って嘘混じりの返信をしてスマホを閉じる。昼過ぎの駅前はやけに空いていて、私は駅前のカフェに足を踏み入れた。平日ということもあるのか、カフェの中には子連れのママ友集団やセールスマンであろうスーツ姿のサラリーマンがちらほらといる。私はお気に入りのカフェモカを我慢しブラックコーヒを注文した。駅前を見下ろせる窓際のカウンターに席を陣取る。ここからならパパの到着も確認できると思ったからだ。少しお腹が空いたが、ダイエット中の私にとってカフェの中では食べられるものが少ない。強いて言えばサラダぐらいだろうが、わざわざ買いに行くのも面倒だった。女の子は大変だ。体重だって直ぐに変動するし肌だって荒れやすい。食生活に少しでも気をかけないだけで、皮膚のホメオスタシスは直ぐに破綻する。可愛くありたい私にとったら、それが怖くて仕方がなかった。

〈仕事終わったから今から行くね。〉

〈わかった!待ってるね!楽しみ!〉

パパに片手間で返信して手首を眺めた。バーコードの様な線が手首に垂直に何本も入っている。その線を撫でるとチクリと手首と心が痛んだが、昨日つけたばかりの線がいい様のない私の不安を優しく抱擁してくれた。この世界で私の事を守ってくれのはこの線だけだった。

〈着いたよ〉

〈わかった!今から行くね!〉

通知が入り外を覗くと駅のロータリーを彷徨くパパの姿が目に入った。私は飲みかけのコーヒーを急いで返却口に置きトイレに駆け込む。備え付けの小さな鏡で自らの姿を確認しリップを塗り唇に潤いを与える。キスしたくなる唇。そんなキャッチコピーに魅了され、即決で買ってしまったリップは私の貯金をまた圧迫したがそんなことどうだっていい。可愛くなる為には必要な出費だった。

メイクもヘアセットも完璧。大丈夫。私は今日も可愛い。そう言い聞かせて颯爽とカフェを去った。カフェを出る際に流れていたお気に入りのバンドの曲のが私の背中を優しく押していた。


「ごめんお待たせ。」

「大丈夫だよ!お仕事お疲れ様!」

「ありがとう。今日はどこ行こうか?」

「ショッピング行って、ご飯食べたい!」

「いいねー。じゃあ行こうか。」

そう言ってスーツ姿で小太りのパパは駅とは逆方向にあるデパートに向かい歩き出す。私はパパに置いていかれない様、パパの横を早足で付いていった。

「いやー部下がさミスしてその対応して大変だったー。ほんっとあいつ使えない。」

「そうなんだ!大変だったね!」

「うん。そう言えば愛ちゃんまた痩せた?」

「え!?わかる?めっちゃ嬉しい!」

「俺の為にやってくれんたんだもん。見逃す訳ないでしょ?また可愛くなったね。」

「えー嬉しい!ありがとう。」

そんな軽薄なやりとりに私は半分飽々していたが、パパが喜んでくれるなら私はどうだって良かった。色々と話しているうちに私たちはデパートにつき、コスメコーナーを見て回る。

「愛ちゃん何か欲しいものある?」

「えーなんだろうなー。あ!シャドウ欲しいかも!最近ね!私の好きなブランドで新作がでたの!」

寄せては返すトレンドの波にしがみつくことに私は必死だった。それは私自身トレンドの最前線こそが一番可愛く魅了的だと思っているからであった。

「じゃあ買ってあげるよ。」

「え!本当に?でもこの前も買ってもらったし…」

「大丈夫だよ。俺のために痩せて可愛くなってくれんだんだもん。お礼だよ。」

「えー嬉しい。じゃあお言葉に甘えちゃおっかな。」

「うん。たくさん甘えて。」

「ありがとう!」

パパはいつも私に色々な物をくれる。それがまるで愛情表現かの様に。私は私でそれこそが自分自身の可愛さを認めてくれる最高の指標だと思っているし相互利益状態で損はない。

「ありがとう。」

「いいえ。じゃあ軽く他のところも見てご飯行こうか。」

「うん!」

私には到底手が届かないであろうブランドのショッパーが眩しくて変に気持ちが大きくなる。私がパパの腕にしがみつき上目遣いで甘える形を取ると、パパは照れくさそうに私の頭を撫でた。ヘアセットが崩れそうですごく嫌な気分になったが、これはこれで仕方がないと鷹を括り私は持ち前の欺瞞の笑みを浮かべた。

パパはまた嬉しそうな顔をした。


「どう?おいしい!」

「うん!すごいおいしい!」

個室の焼肉店でパパが私に尋ねた。駅から少し離れたこの店はこじんまりとしているものの、その内装や個室の密閉感から高級感が肌身に伝わる。

「ここの肉ね、A5ランクを使ってるからすごく高いけど美味しいんだよ。だから愛ちゃんにも一度は食べて欲しくて。」

「えー!私お肉大好きだから嬉しい。」

私はまた嘘くさい笑顔を貼り付けた。肉なんて嫌いだ。太るし、脂なんて体に毒でしかない。次の日には肌だって荒れている気さえする。

「愛ちゃんは彼氏とかいるの?」

「いないよ!私モテないからなー。」

「そうなんだ…。」

「ん?どうして?」

「いやモテそうじゃん愛ちゃん可愛いし。」

「いやー全然だよ。私なんて。」

こんなこと彼に聞かれたら私はまた怒られる。それに私が週五で色々なパパと遊んでいるなんて知ったら、彼はまたどんなことをしてくるか分からない。

「愛ちゃん明日予定は?」

「特にないよ。」

話の話題が尽きようとしていた。部屋の中には静寂が襲う。

「そうなんだ。」

「うん。ちょっとお手洗い行ってくるね。」

「うん。いってらっしゃい。」

酒が回った赤い顔をしながらパパは私を見送る。私は急いでトイレの個室に飛び込むとカバンの中から使い慣れたスプーンを取り出し、柄の部分を口の奥に押し当てた。早く吐き出さなきゃ。また太ってしまう。肌が荒れてしまう。可愛くなれない。

体の機能は上手くいってるものでポイントに当てれば、吐瀉することなんて容易だった。全てを吐き出し綺麗に生まれ変わった私は鏡を見て服装と髪を整え、パパの元に戻った。パパは虚な瞳で肉が焼けるのを静かに見つめていた。

「愛ちゃん何か食べる?」

「もう大丈夫かな。お腹いっぱい。」

「えー全然食べてないじゃん。いいよ気使わなくても。」

「んーん。本当にお腹いっぱいなの。ごめんね。」

「そっかー。じゃあそろそろ帰ろうか。」

「うん。」

その後他愛もない話をし、パパは会計を済ませて私を店外までエスコートする。大人らしいその出立ちに、昼間はリーマンなんてやってるんだろうなんてそこはかとなく思った。

「じゃあ今日はありがとう。シャドウ大切に使うね!」

お決まりの定型文を読み上げる様に私は言う。時刻は23:00を回っていた。

「愛ちゃん。」

「ん?なに?」

深刻そうなパパの顔だった。今思えばそれは恐らくこれから先の関係を暗に意味しているものだった。

「あのさ。」

「うん。」

「この後さ。家こない?」

那由多と聞いた殺し文句をパパは口にした。

「家はちょっとなー。」

「じゃあホテルとかで。」

「ごめんね。」

「ホ別二万で。足りないならもっと出すよ。愛ちゃんとエッチしたいんだ。」

「ごめんね。そういう事はやってないの。」

「そうか。」

パパは静かに私から視線を外す。この人もここで終わりだな、そう思った。

「うん。ごめんね。」

「ううん。こちらこそごめん。気をつけて帰ってね。」

「うん。ありがとう。またね。」

私はそう言ってパパに背を向け歩き出す。こういう事はよくある。けれど、私のセオリー上ではこれ以上の関係性は許してはいない。私はパパを性欲の対象として見ることはできなかった。

後ろをふと振り返るとパパはもう私に背を向けもう歩き出し、そのうちネオン街へと消える。私は帰りがけに貰った札束を数えながら帰路を進めた。


「千尋、こんな時間まで何してたんだよ。」

家を着く頃には私の偽りの“愛”と言う名はすっかりと身から離れていた。

「飯は?」

「ごめんなさい。」

怒られて萎縮した子犬の様に私は申し訳なさを全身で表現する。タクシーを使い家に着く頃には0:00を回っており、彼の怒りが爆発していた。

「腹減ったんだけど、あと煙草買ってきたんか?」

「ごめん。忘れちゃった。」

「は?」

「ごめんなさい。」

「ごめんで許されないから。手出せ。」

「ごめんなさい。ごめんなさい。やめ…!」

言葉を言い切る間も無く、彼は持っていた煙草の火を私の左手に押し当てた。強い痛みが私を襲った。

「これでもうしないよな?」

「う…はい。」

その場に倒れ込み涙目の私を彼は見下ろす。彼に傷をつけられるのは何回目だろうか。半分は仕事のしない彼を養う為に始めたパパ活も、今や何の意味となっているのか私には分からなくなってくる。

「いいや。自分で買ってくる。もう外出るなよ。」

「はい。」

扉が閉まる音がして私は机の上に置かれたペン立てからカッターを取り出した。彼を怒らせたのは私のせいだ。もう嫌だ。こんな私。可愛くない。可愛くない。可愛くない。白く剥き出しになった組織に血が滲み出す。滴り落ちる生温い赤の雫を私はゆっくりと拭った。鉄の匂いが鼻の奥に意味ありげに残り、またそれが涙を誘う。私はそのまま寝室に向かい、次の日の昼過ぎまで眠りこくった。


ハル君と出会ったのは二年前の冬だった。友人に連れらていった合コンに彼はいた。彼はインディーズバンドのボーカルをやっていて、その人気は皆無だったが夢に向かって必死に活動している彼の姿が私はとても好きだった。彼を好きなってから私達の関係性の進行は早かった様に思える。そのうち彼と私は互いの家を行き来するようになり、同棲する形となった。彼はどこまでも優しく、心の広い人間だった。バンドが解散するその日までは。解散後、彼の夢は挫かれそこから彼は酒に溺れ始めた。バンドが結成される以前から行っていたコンビニのバイトも解散後直ぐに辞めてしまった。“夢を失った人間は堕ちる。”と先人はよく言ったもので、彼はそこから行き場のない怒りを私にぶつけてくる様になった。彼が心配だった。だから私は今も彼の元にいるし、彼には私が必要だと今でも勝手に思っている。彼の幸せには私が必要不可欠だと私は確信めいていた。


「千尋。」

昔の思い出と共に重い瞼を開いた私の目の前には彼の姿があった。

「ハルくん?」

「昨日はごめんな。大丈夫か?手。」

酒が抜けたハル君はとても穏やかだった。久しぶりに見た本当のハル君の姿だった。

「大丈夫だよ。痛かったけど私が悪いもん。」

「いいや俺がわるい。」

そう言って彼は私の額に柔らかなキスをした。私の体温が上がるのが分かる。やはり私は彼が大好きだった。

「ハル君。」

「なに?」

そう言って私も彼の唇にキスをした。あの最近買ったリップがすっかり取れてしまった私の唇は自分でも分かるほどに乾いていた。

「おれもう酒やめるよ。」

彼が幾度となくその言葉を溢しているのは知っているし、これからも酒の波に溺れ続けるのは私も知っていた。けれど、今だけは彼の言葉を信じよう。そう何処と無く思った。

それから私たちは何度もキスをした。彼が私の傷を優しく撫でる。何度もごめんと言いながら彼は私に欲情していた。

「いいよ。」

その一言が私から溢れると、彼は私の体を優しく愛撫する。互いの体が愛に塗れるまで、私は彼を全身で感じた。

「痩せたな。千尋。」

裸の私を見つめてハル君が呟く。

「うん。最近ご飯食べてないから。」

「大丈夫?」

「うん。平気だから。早くきて。」

「うん。」

不安そうなハル君の頬を撫でながら湿った体で彼を受け止める。止めどなく溢れる愛情と色欲はいつしか、この狭い寝室を満たして気づけば西の空が茜色に染まっていた。

「もう夕方だね。」

「だな。」

傷だらけの私の裸を彼が優しく抱きしめて言う。たまにでいい。これからも本当のハル君が見れれば私はそれで幸せだと思った。

「ハル君。」

「なに?」

「愛してるよ。」

「俺も千尋の事愛してる。」

彼の体温が熱くなり、私の体にその温度を分け与える。あの瞬間の私たちは“私は彼の心ごと、彼は私の傷ごと”深く愛し合っていた。


ただそれだけだった。

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化粧と傷口 赤野チューリップ @akano_1999

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