第12話 仮の名前

 ローズマリー達が怪我をした男性を助けてから1ヶ月程経った。怪我は順調に回復していたが、彼は相変わらず自分の名前を思い出せなかった。


「おはよう! 調子はどうですか?」

「おはようございます。お陰様で調子はいいです」

「よかった。朝食にしましょう」

「いつもすみません」


 バックヤードの休憩室にローズマリーが朝食を持って来た。怪我が順調に治ってきているとはいえ、骨折した脚はまだ不自由なので、男性は休憩室で寝起きしている。


 普段、従業員が出勤してくる前に1階の台所で朝食をとっていたローズマリーも、男性に合わせて休憩室で彼と共に朝食を食べる。昼食は以前、他の2人の従業員マイケとゲハルトと交代で休憩室でとっていたが、男性が来てからは、マイケとゲハルトが先に台所で昼休憩をとってから、ローズマリーと男性が最後に2人で休憩室でお昼ご飯を食べている。だが店が暇な時は、ゲハルトがローズマリーに一緒に昼休憩にしようと誘ってきて男性も入れて3人で昼食にする事も少なくない。


 朝食は、いつもの通り、皮がパリパリの小さな丸いパンとハム、チーズだけであるが、豪華な時はゆで卵が付く。ローズマリーが朝食で飲むのはコーヒーだが、ブラックではなくて牛乳を入れる。男性にもそうしたら、何も文句を言われなかったが、微かに眉間に皺を寄せたような気がしたので、翌朝ブラックで出したらそちらの方がお気に召したようだった。それ以来、ローズマリーは彼にはコーヒーをブラックで出している。


 2人は、テーブルについて丸パンを水平に切ってハムとチーズを挟んで黙々と食べた。男性は元々、寡黙なので、ローズマリーが話さなければ会話がない。ローズマリーは、聞きづらい事を聞きたくて口を中々開けないでいた。


「その……朝からこんな事を聞いて申し訳ないのだけども、何か思い出せましたか?」

「いえ、思い出そうとすると相変わらず頭が痛くなります」

「そうですか。でも名前がないのは何かと不便ですよね。私が仮の名前をつけてもいいですか?」

「そうですね。ならお願いします」

「コンスタンティンとかどうですか?」

「いいですね。よろしくお願いします」

「よかった、マイケとゲハルトにも伝えておくわね。実は私の父方の祖父の名前なの。小さい時にかわいがってもらったわ」

「そうなのですか。そんな大切なおじい様の名前をいただいてしまって申し訳ないです」

「いえ、祖父の名前をもらってくれて嬉しいわ。もう1杯、コーヒー飲もうと思うんだけど、貴方もいかが?」

「ありがとうございます、お願いします」


 ローズマリーは、休憩室を出て同じく1階の裏手にある台所へお湯を沸かしに向かった。台所は本来、バックヤードとは別のプライベートゾーンだったが、2人しかいない従業員には自由に使ってもらっている。食事を2階に持って行くのは面倒なので、婚約者クレメンスがいた頃も来客がない限り、普段は台所のテーブルで食事していた。


 お湯を沸かす間にローズマリーは、コーヒーミルにコーヒー豆を入れてハンドルをクルクル回して豆を挽いた。湧いたお湯を挽いたコーヒー豆の上に輪のように注ぐと、ふっくらとコーヒーが膨らんでくる。その時に漂ってくる薫りが何ともかぐわかしい。


 ローズマリーがコーヒーの薫りを楽しみながらドリップしていると、台所の扉が開いた。


「若奥様、おはようございます」

「あら、ゲハルト。今日も早いのね。コーヒーを淹れたんだけど、貴方も飲む?」

「ありがとうございます、是非!」


 ローズマリーは、棚から1個カップを出してお盆の上にポットと共に置いた。それを見てゲハルトの眉間に皺が寄った。


「今日も休憩室で朝食をとっているのですか?」

「ええ。彼、まだ足が不自由でしょう? ここまで来てもらうよりも休憩室の方がいいかと思って」

「あの……若奥様、こう言っては何ですが……彼の事を甘やかし過ぎではないでしょうか?」

「でも脚を骨折しているのにこき使う訳にいかないでしょう? 治ったらその分、手伝ってもらうわよ」

「え?! 治ったら?!」

「まあ、少しは恩返ししてもらってもいいかなって思うでしょう? それでちょっと試しで働いてもらって本人がここを気に入れば、正式に雇おうって思うの」

「でも、うちの商会に今、そんな余裕はないですよね?!」

「後1人くらい大丈夫よ。男手が少なくなったから、相手に強気に出られる事が多くなったでしょう。私が貴方と仕入れや納品に出掛ける時に店にも男性が残っていると安心なのよね」


 ゲハルトは更に何か言おうとしたが、ローズマリーはポットとカップを乗せたお盆を持って台所から出て行ってしまい、慌てて彼女に続いた。ローズマリーは休憩室の前に着くと、ゲハルトに扉を開けもらって休憩室に入り、早速新しい名前で男性を呼んだ。


「コンスタンティン、ゲハルトも一緒にコーヒーを飲むって」

「コンスタンティン?」

「彼を今日からコンスタンティンって呼ぶ事にしたの。祖父の名前なのよ」


 ローズマリーは話しながら、ポットからカップにコーヒーを注ぎ、そのカップと牛乳を入れたピッチャーをゲハルトの前に置いた。


「はい、どうぞ。ゲハルトも牛乳入れるんだったわよね?」

「はい、ありがとうございます」

「コンスタンティンはブラックね」

「ありがとうございます。ところで……名前もいただいた事ですし、何かお店でお役に立てる事はないでしょうか? このままではタダ飯食いになってしまいます」

「前も言ったけど、怪我人を働かせなきゃいけないほど、うちは困ってないのよ。怪我人なんだから身体を治す事だけを考えて」

「でもそんな訳には……」

「心配しないで。治ったら恩返ししてもらうから。うちには男手がゲハルトしかいないでしょう? ゲハルトと一緒に商品の積み込みや搬送を手伝ってもらおうと思ってるけど、本当に治ってからでいいからね」

「え?! 俺と一緒に?」

「コンスタンティンだって病み上がりでもマイケや私より力あるでしょう?」

「ええ、体力には自信が……あれ?」

「おい、記憶がある……戻ったんじゃないか?」


 ゲハルトは、コンスタンティンの記憶喪失が偽装なのではと疑ってローズマリーにそんな訳がないと叱責されたのを思い出し、言い直した。


「なぜか体力には自信があるように自然に思えたんです。でも体力勝負の職業だったのかどうかまでは分からないんですが……」

「貴方は逞しそうだから、確かに体力ありそうね」


 ゲハルトはをしてしまい、ぎょっとしてローズマリーを凝視した。もっともそれは誤解で、ローズマリーはコンスタンティンが昏睡状態の時に身体を清拭していたので、彼が引き締まった肉体を持っているのに気付いていた。ゲハルトはそのような世話をマイケがやっていたとばかり思っていたので、ローズマリーがやっていたと当時知っていれば、若奥様にさせる事じゃないと烈火のごとく怒っただろう。


 一方、ローズマリーは自分の言葉で清拭した時に見たコンスタンティンの逞しい身体を思い出してしまい、頬が熱くなったのを自覚した。その様子をゲハルトはちらりと見て眉間に皺を寄せた。

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