I will be with you

明日葉叶

第1話 砂と風の国

 僕はあの日から同じ夢を見ている。

「無謀だ! イーギス! 引き返せ!」

 僕の頭の中で繰り返されるのは同じ光景。繰り返される街に響き渡る実況のスピーカー。その響きは乾いた空に霧散した。

 誰よりも優勝を期待されていた伝説のパイロットである兄さん、イーギス・フロイトは千年に一度現れるとされる砂嵐、通称「カパラの壁」に消えた。その瞬間、カパラ国民から熱気が失せた。

 僕は国民の誰よりも兄さんを近くで見ていて、誰よりも兄さんを知っていて、誰よりも兄さんを信じていた。

「お前ならできるさ。俺にもできるんだから。飛べ、フロント。お前にもイーギスの血が流れているんだから」

 兄さんはそう言っていた。

 でも、僕の記憶の中の兄さんは真っ黒な煙を吐く戦闘機の中から出てきた真っ黒な体で、何も話すことはなかった。

 

 僕は、何もできずにタンカーで運ばれる兄さんを見ることしかできなかった。

 

 砂と風の国「カパラ」

 この国には大陸三大祭のうちの一つ、カパラ航空レースがある。

 大戦中に同盟国であった隣国が敵国に襲われ、窮地を救いに飛び立った若きエースパイロットたちに由来し、以後数十年にわたり終戦記念日を盛り上げる一大イベントになっている。

 この国の男なら誰でも憧れるパイロット。誰に教わるでもなく、技術は自然と受け継がれ、その過程で派手な演出も悪い先輩なんかから伝わる。乗れることが普通だし、空中で回転する回数が多いほど女の子にもモテる。そういうものらしい。

 でも僕にはそんなことは関係ない。

 怖いし、そんなことできなくても僕の人生はきっと平凡に過ぎていく。だからずっと耐えてきた。学校が終わるまで、大人になれば何かが変わるって……。

 年に一度の特別な日に、僕は学校に植えてあるヤシの木にしがみついていた。もちろん僕の意思じゃない、そうしないとならない状況になってしまっていた。

「おい、今日でお前も13だろ? そんな調子で航空レースに出られるのかよ?」

「ジン、お前まさかフロントが航空レースに出られるとでも思ってたのかよ?」

「兄貴が伝説でも、こいつがポンコツじゃ乗せる飛行機もかわいそうだぜ」

 僕が全身から脂汗を流しながら必死に重力に抵抗している間にもジンとカンとダンは、足を震えが止まらない僕を嘲笑する。

「いいから梯子持って来てよ……! こんな高さに教科書投げられちゃ授業ができないよ……」

 青々と茂るヤシの葉の間におそらく三人のうちの誰かが投げ捨てた僕の教科書が見えた。

「なんで俺らに指図するんだよ? これは誰かがお前に対して与えた試練で、これを乗り越えないと立派な大人にはなれない。俺らはそんな試練に立ち向かう友達を間近で応援したいだけの単なるお人よしだろうがよ」

 ようやく手が届きそうになった瞬間、真下にやってきたジンが思い切り幹を蹴とばし、伸ばした手は虚しく空を切る。応援したいだけの友達が、幹を蹴るはずがないだろ?

 おかげで数センチ体躯が下がる。同時に、胃液が喉をせり上げる。出来るだけ下を見ないようにと周囲を見渡す努力はしているけど、かえってそれが逆効果になりうることだってある。

 市場に並ぶ赤い果物、それを買い求める若い女性と値切りに応じない店主。その隣には木材でできた簡素なおもちゃを親にねだる子供なんていて、普段なら決して校門が遮って見ることのできない高さがある景色。見れるということは、すなわちそういう視点に僕がいるということを指す。冷静にそんなことを考えている間にも、血の気が引いて意識が遠のいてきた。

「おいあいつまた気絶しかけてるよ」

「誰かマチルダ先生呼んで来いよ! また内股でわたわた走ってくるぞ!」

「そいつは名案だな! もたもたするな! マチルダ先生が授業に行く前に呼びに行くんだ」

 僕はもう誰が何を言ったのか聞き取れないほど、落下への恐怖で頭が支配されていた。落ちたくない、落ちたたら……。

 どこか遠いところから何か鈍い音がして、気が付けば足元に何か固いものが。

「早く下りてきなさい。フロント、あんたほんとに伝説のパイロット、イーギス・フロイトの弟なの?」

「う、うるさいなぁ……。別に僕だって好きでこんなところに上ったわけじゃないのに」

「そういうことじゃなくて、お兄さんならあんな奴らになめられなかったってこと」

 ようやくどこにも落ちることのない限界点に足を落ち着けた僕は、改めてお礼を言うことにする。

「でもありがとうリンクス。助かったよ」

「もう! 次からは自分で何とかするのよ?」

「えー!? いいじゃないかもう一回くらい助けてくれても」

「もういい加減私に甘えない! 今日誕生日なんでしょ?」

 僕をいつも助けてくれる幼馴染のアローネ・リンクス。大きな瞳、黒くてつやのある髪、僕なんかよりずっと頼りになる女の子。

「だって……、いつも……、たすっけて…………」

「はいはいもう……泣くなフロント! もうすぐ授業だよ? 早くいかないとマチルダ先生も泣いちゃうでしょ」

 泣いちゃえばなんでも許してもらえるなんて思ったことは一度もない。でも、僕はこうして困ったときには必ず助けてくれるリンクスのことが好きだった。


「はい、じゃあ次のページを……」

 僕は社会の授業が好きだった。いじめられる毎日でも、特別な瞬間が訪れるときがくる。航空レースを間近に控えた今日であることは予想外だったけど。

「大陸歴三年、大きな戦争が隣の国サンドスを襲いました。唯一のオアシスを敵兵に奪われたサンドスの国民は、乾きに苦しみました。そこで飛び立ったのが我が国の英雄たちです」

「はい、リンクスさんそこまで。皆さんも知っての通り、カパラとサンドスはとても仲がいいですね。戦争の時もお互い何か起きた時は助け合おうと約束した仲でした。皆さんも、友達が困っていたら決して見捨てず、助けてあげてください。それが人であり、カパラの英雄とも謳われたイーギス君のお兄さんが伝えたかったことだと、先生は思います」

 マチルダ先生は普段はおとなしく、何か事件が起きた時はあたふたと動くだけで何もできない先生だけど、この話題になったときだけは元気になる。

 僕も同じだ。兄さんの名前を聞く時だけは、一人じゃない。

「そんなにフロントの兄貴はすごかったんですか? 親父に聞いてもそんなことはないって言ってました」

「何を言うんですか!? 航空レース三連覇はいまだに誰にも破られたことはないし、彼ほど風に愛されたパイロットは居ない。カン君のお父さんがいうのはおそらく、彼にはギャラリーを沸かせる技術、すなわち曲技飛行ができなかったと言いたいんでしょう。それはわかりやすく言うと……」

「先生落ち着いて。普段おとなしい癖に航空レースになると興奮するんだから」

 僕が少しだけ兄さんの話題に照れる中、誰かが言った言葉でクラスが沸いた。

「でも、兄貴は兄貴でしょ? もういないし、弟はヤシの木さえ女の子の助けがないと下りられないポンコツだろ」

「こら! カン君! ……ごめんね、フロント君。先生ついこの話題を出しちゃって」

「……いいんです。もう昔の話だし、事実ですから」

 僕は兄さんとは違う。臆病で、甘えてばかりで、泣き虫で、あの時も僕は何もできないままずっと立っていた。

「兄貴にできて弟にできないなんて誰が決めつけたのよ!? 何がトレーニングよ聞いてあきれちゃう。あんな方法で高所恐怖症が克服出来たら今頃あんたも毎日おねしょする癖が治ったでしょうよ!」

 リンクスが口を大きく開けて、カンに怒鳴っていた。

「ばっ……、バカじゃねぇの? もう俺だって今年で14だぞ? そんなもんするわけねーだろ? 第一、あんなもんトレーニングなわけねーだろ。俺らだってたまたま通りかかってたまたま見かけたんだから……」

「そうよね? まともなトレーニングさえすればできるようになるわよね? よし、あんたら三人航空レースに出なさい。フロントが相手してあげるわ」

「いいぃっ!?」

 驚きのあまり、変な声が出てしまって余計にみんなの注目を浴びてしまった僕は立ち上がるリンクスを見上げていた。

「じょ、上等だよ! 負けたらどうするんだよ?」

「負けたら?」

「そうだよ。俺ら三人だって出る予定じゃないんだし、俺はともかくジンは去年のチャンピオンだ。喧嘩売られてだまってられるかよ」

「いいわ。フロントが負けたらなんでも言うこと聞いてあげる。ただし、フロントが勝ったらもうフロントをバカにしないこと! いい!?」

「いいだろう。後で後悔しても遅いからな!?」


 大変なことになってしまった……。

 僕は学校からの帰り道、一人家へと向かっていた。もう日が暮れる。夕日は僕を後ろから照らし、真っ赤な日差しの中に僕の影だけが長く伸びる。日が暮れてしまえばもう今日やれることはない。大陸一大きなオアシスがある国だといっても、国民の貧富の差は激しい。僕の家は電気も通っていない。暗くなればランプの明かりで照らせるけど、よほどのことじゃない限りは父さんは許さない。

 父さんは設計士だった。毎日仕事熱心に働いて、休みになっても模型を作っては僕たち兄弟に飛行機のすばらしさを永遠と語っていた。兄さんが乗るはずだった飛行機もそう。父さんが設計した特別なものだった。父さんが設計した特別な飛行機に特別な兄さんが乗る。それは僕にとってもわくわくすることだったし、楽しみでもあった。でも、それが叶うことはなかった。

 些細な事だった。設計にしか興味を示さない父さんが、兄さんの出るレースを見に来るという話だった。

 それが父さんの会社の都合でなくなってしまった。兄さんはひどく落ち込んだ。そして、父さんへの日ごろの怒りが乗る機種を変えた。

 それから父さんは会社を辞めた。僕が家につくと必ずお酒を飲むようになっていた。

 はっきり言うとうちに飛行機を買えるようなお金はない。父さんももうきっとそんなツテはない。

 僕の能力どうのよりももっと現実的な問題をリンクスは知っているのだろうか。

 そういえば最近、リンクスはうちに遊びに来ない。兄さんが生きていた時は、三人で仲良く飛行機の模型で遊んでいたのに。

「なぁにそんなに暗い顔して! そんな顔してたら天空神アイテール様に嫌われちゃうぞ!」

 後ろから肩を急にたたかれて誰の仕業か思いつく。

「またその話? リンクスも信心深いから急に突拍子もないこと言い始めて……」

「仕方ないでしょ? こうでもしないとあいつらまたあんたに突っかかってくるんだから」

「僕にはできないよ……、悪いけど僕は……」

「勇気がないのよ。君は。それだけだと私は思う」

「勇気だけじゃどうにもならないこともあるよ」

「勇気がなかったら名機もただの鉄の塊よ? 飛び方は私がレクチャーしてあげる。びゅーんって加速したらぱって飛べばいいの」

「そんな感覚の問題?」

「物は試しよ」

「そんな無責任な……」

「今日はもう遅いからまた明日。まずは飛行機をどうにかしないとね」

 僕はリンクスの誘いを断ることもできなかった。

 怖い。でも、けど。そんな思いがずっとあった。


 僕の家には小さな泉がある。国が持っている大きなものとは違うから人に水を売ることはできないけど、その代わり僕と父さんの飲み水になっていて、その周りにはヤシの木が数本。その実を売って生活のお金にしている。魚も住んでいて、それも食べたり売ったり。

「ただいま」僕は鞄と砂埃よけのゴーグルをテーブルに置く。

「早かったな……もうそんな時間か」父さんは茶色い液体が入った小瓶を一口飲む。僕のほうを見ずに、ずっと泉越しのヤシの木のほうを見ている。……兄さんが事故を起こしたアムール砂漠の方だ。

「今夕飯の支度をするよ。昨日泉で大きなハタハタを見かけたんだ」

「そうか……。あの魚は焼くのがうまい」

 飛行機のこと、話すべきなんだろう。でも、父さんには話すことはできなかった。父さんはもう飛行機とは関係のない生活を送っている。父さんは飛行機を捨てたんだ。

 部屋の奥の僕の部屋から釣り具を持って来て父さんの隣へ。こうして二人で魚が釣れるまで夕日を眺める。それが僕ら家族の日常だった。

 時折父さんが僕の竿を借りて釣りをするけど、僕のほうがそれに関しては才能があるらしく、釣れたことはない。でもやめない。本人が言うには、「雰囲気を楽しむ」らしい。

「フロント、お前今日何かいいことあったか?」

「どうして急に?」

「珍しくうれしそうじゃないか。いつもは浮かない顔して戻ってくるくせに」

「実は、リンクスに勉強を教わることになって……」

 僕は嘘をついた。本当のことを話したら、きっと父さんは正気でいられなくなる。

「ほぅ、お前あの子が好きなのか」

「そ、そうじゃなくて!! 昔みたいに……、この家に来てくれたら少しは賑やかかなって」

「そうかそうか……。勉強はいいぞ。かしこくなればこんな貧乏にならなくても済む。飛行機に乗らなくても最新の車でどこまででも行ける」

 やっぱり父さんは飛行機を避けている。あからさまに、見たくない過去をずっと見ているのに。

「でさ……。あの……お願いがあるんだけど」

「どうした? 言ってみろ?」

 父さんは僕が珍しくねだるものだから、座っていた椅子の横のテーブルに飲んでいた小瓶を置いて僕に胸をそらす。

「飛行機が欲しんだ……。む、無理ならいいよ。別に。リンクスが父さんの飛行機を見たいっていうからさ」

「模型でもいいんだろ? 倉庫にあるだろ」

「あの……。ちゃんと、飛ぶ奴を……」

「……お前、飛行機に興味があるのか?」

「あ、いやっ、その。そうじゃなくて……」

「明日は無理だ。それより、フロントあたりが来てるぞ……!」

「え!? あ! ちょっ!!」

 見ると僕の握てっていた竿に強烈なしなりが起きていた。間違いなく、これはこの間見かけたハタハタだ。泉が透明なおかげでよく見える。

 

 泉側に開け放たれたガレージ兼キッチン兼ダイニングで父さんが器用に火を起こす。ファイヤーピストンとかいう方法で、海の向こうの島国の人たちが昔からやっていた方法らしい。ガレージにあった細いパイプを組み合わせて、機材をこしらえた。

 カンッという音がガレージ兼キッチン兼ダイニングに響く。鉄パイプから抜き出した棒の先端に赤い火が灯っていた。

 明日は無理だ。僕はその言葉に少し安心した。だってそれを伝えればもしかしたらリンクスもあきらめてくれるじゃないか。

 釣れた魚に包丁を入れて、はらわたを抜く。そうして父さんの起こした火であぶれば、イーギス家特製の白身魚の炙りが完成する。

 兄さんはどう思ったんだろう。約束された出来事が起こらなくなって、結末が最悪な方向へと転んだとき。

 例えばこの魚を食べてくれる人がいなくなったとき、この魚を兄さんはどうしただろうか。

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