合同会社再生屋
倉木元貴
道は同じ 1話
2026年3月16日 月曜日 23時34分。
僕は死んだ。
付き合っていた彼女と居酒屋で呑み交わした後、2人でラブホテルに入って、僕がシャワーをしている時に。
「一緒に入ろう!」
そんな甘い誘惑に乗せられて、無防備にも彼女に背中を向けてしまった。その直後だった。背中に今まで感じたことのない、強烈な電気が走ったような痛みを感じだ。
何が起きたのか振り返ると、そこには血の付いた包丁を持っている彼女がいた。
ああ、僕は死ぬんだ。絶望に苛まれて、もう防御姿勢をとる気にもなれなかった。実際何回くらい刺されたのか知る術はないけど、覚えている限りだと、5回は刺された。最後の方なんて痛みよりも、僕の人生もう終わりなのか。と、悲しみと絶望しか感じていなかった。
今回ばかりは僕が甘かった。普通に考えて、さっきの居酒屋で別れ話を切り出したのに、泣き付かれて別れ話を撤回して、ラブホテルに行くなんて貪欲すぎるな僕は。彼女の言葉を信じすぎたのも間違いだった。この別れ話のきっかけも彼女の嘘だったのに。彼女が浮気をしなければ、こんなことにはなってなかったのに。
「おはようございます。
刺されてからずっと意識を失っていたが、真っ暗な空間で、突然男の声と足音が聞こえた。
真っ暗な空間だから、どこから声がしているのかわからない。というか、僕は死んだはずなのに、何で意識があるんだ。ここは病院なのか。
「いいえ違いますとも。ここは死後の手前の世界です」
死後の手前の世界? 何だそれ? そんなもの聞いたことがないぞ。それに、死後の手前の世界ということは、僕はまだ死んでいないのか?
「いいえ。井上様は確実に亡くなってします。ここは、その後の人生を歩むための選択を行う場所になっています」
さっきから何で心の声が聞かれているんだ。もしかして、自分で気が付いていないだけで、声漏れているのか。
「この空間では、心の中で話そうとも我々には聞こえるのですよ。貴方が善人か悪人か判断するために」
それ言っちゃたら意味がなくなるのでは。まあ、何はともあれ、俺は死んでしまった事実は変わらない。ろくな親孝行もしてないのに、もう終わりか。短かったな……、もっと長生きして、老後は田舎でゆったりと過ごそうとか思っていたのに、何だかそう考えていた自分が恥ずかしいよ。……この先の人生か。というか、死んでしまった人間の先は人生と読んでいいものなのか。霊生いや死生と呼ぶに
頭の中で情報を整理しているうちに、ゆっくりと歩いていた足音は僕の前で止まった。それと同時に、電気でも付けたようにあたり一面が明るくなった。真っ暗な空間から真っ白な空間に変わった。
「井上様」
呼ばれて声の方に顔を向けると、そこには30代くらいのメガネをかけた男が、似合わないスーツを着て、僕を見下ろしていた。目は開いているのか閉じているのか、線を1本だけ書いたような細い目。左口角が少しだけ上がっている様子が不気味さを醸し出していた。
「お短い人生の終焉にお悔やみの言葉もございません。それよりも、私の話をお聞きになりませんか?」
さらに口角を上げた男は、僕に笑いかけているようだった。気味が悪い。
「なるほど。貴方は閻魔様で、ここは地獄への入り口ということですか。よく物語に出てくる地獄の入り口とは似ても似つかないものですね」
男は今度こそ歯を見せて僕に笑いかけた。
「とんでもありません。私はかの閻魔大王様のような高貴な者ではございません。失礼いたしました。まだ名を名乗っておりませんでしたね。申し遅れました、私、合同会社再生屋の社員、尾形祐太郎と申します。私の役目は、貴方のような方々に選択肢を与えることでございます」
尾形と名乗った男は、そう言いながら名刺を取り出して差し出していた。僕は体を起こして差し出された名刺を受け取る。そこには確かに、合同会社再生屋、尾形祐太郎と書かれていた。
「合同会社再生屋……何ですかそれは?」
僕は単純に聞いただけだったのに、尾形は興奮して話し出した。
「よくぞ聞いてくださりました。人生に後悔を残したまま死ぬのは誰だって嫌だと思います。そんな貴方に過去に戻っていただき、前回とは違う選択をし、違う未来へと進んでもらい、後悔をなくしてもらうのが我々の仕事になります。先ほど言いましたように、このまま死んでしまうのも選択肢の1つですよ。もちろん私のオススメは人生をやり直すことですが、貴方はどちらにいたしますか?」
……よく理解はできないけれど、要はこのまま死ぬか、過去に戻るか選べってことだろ。そんなの後者に決まっている。もう1度人生をやり直せるのだったら、そっちの方がいいに決まっている。次は間違った道に進まない。もっと長生きをして、自分の人生を謳歌する。
「人生をやり直すのもいいですね。それに、殺されて死ぬのは癪ですし、貴方は怪しいですけど、まだやり残したことがあるから、人生をやり直したい」
僕の言葉を聞いてから、尾形は気持ち悪いくらいの笑みを浮かべる。
「はい。承りました」
懐を触り、何かを探している様子の尾形を横目に僕は胡座をかいて座った。
尾形は懐に隠していた三つ折りの紙を僕の前に広げた。
「床で申し訳ないのですけど、こちら、誓約書になっています。手始めにこちらにサインをお願いします」
誓約書ね。今まで説明書とかもろくに見てこなかったから、この文字だらけ嫌になるな。国語ずっと苦手だったから。
何々、まず1つ目は……。
「一つ、我が社のことは決して口外しない」
何だ。読んでくれるのなら先に言ってくれよ。それにしても何で口外禁止なのだ。
「口外を禁止しているのは、我々も人を選びたいからです。我々の存在を知ってしまった人間が、むやみやたらと、人を殺して過去の情報を盗んだり過去を変えてしまったり、とそんなことが起きないようにするためです」
「なるほど……」
確かに、未来の情報を知っていたら、過去も変えられるし、億万長者にもなれるもんな。それは危険だ。
1人納得していると、尾形は気にせず誓約書を読み上げる。
そういえば、心の声も聞かれているんだった。
「二つ、我が社のことや私のことは一切探らない」
「どんな会社なのか、探ることはできないということですか?」
「ええそうです。探られては困りますので、決して探らないようにお願いします」
「なるほど……」
なるほどとは言ってみたものの、会社を探るなと言われても信用問題があるから、なかなか難しい。まあ、人生をやり直せるのなら何だっていいか。……反社じゃなければ。
「三つ、故意過失問わず我が社に損害が出た場合は、全責任を負う」
「つまり、何かあった時は、全て僕の責任になるということですか?」
「ええ、そういうことです」
「そんなのおかしいじゃないですか! わざとじゃなくても責任を負うなんて!」
「ですから、私どもに不利益さえなかれば、それでいいのですよ。大きな問題を起こさない限り、当てはまることはありませんよ」
納得はできないが、この誓約書に書かれていることに納得しないと人生をやり直すことはできないと考えると、納得せざるを得なかった。
「四つ、以上三つの契約条件を破るようなことがございましたら、こちらの判断で、問答無用で契約終了とさせていただきます。その場合、貴方はもれなく地獄行きです。了承いただけましたら、誓約書の方にサインをお願いします」
契約の条件は厳しいが、この会社のことを誰にも言わずに自分でも調べずに、会社の不利益になることの基準が難しいが、過度に過去を変えなかったらいいってことだな。考えているだけでは簡単だけど、つい口を滑らせてしまわないか心配だ。でも、人生をやり直すためにはサインをするしかない。ここで、やっぱり辞めますとは言えない。
というか、自分の人生下手したら180度以上に変えてしまうけど、それは大丈夫なのか。恐ろしいから、自分と彼女以外の人生を変えることはしないでおこう。
「わかりました。サインします」
「ではこちらにサインと、捺印をお願いします」
「あの……書くものを持っていないのですけど」
「これは失礼いたしました。こちらをどうぞ」
見るからに高そうなボールペン。漆黒に金の装飾品。どちらも輝いて見える。
こんなボールペンあるんだ。
尾形に渡されたボールペンを使い、誓約書に自分の名前を書いた。名前を書く欄の後ろには、印という文字が丸に囲われていた。
「あの……手持ちは財布くらいしかなかったので印鑑を持ち合わせていないのですが……何で押しましょう」
「印鑑がなければ、指で構いませんよ。朱肉は用意していますので、こちらをお使いください」
朱肉を渡され、どの指で押すのか悩んで、とりあえず親指にしようと左手の親指を朱肉につけた。
なんせ親指印なんて初めてだから、どれくらいつけて、どれくらいの大きさがあればいいのか全くわからないから、親指の側面までベッタリつけたら、ただの朱色の楕円が紙には付いていた。
これは申し訳ない。書き直しになるのなら、いくらでも書き直すから。
そもそも指紋がしっかりとあった方がよかったのか。わからんな。
「これで大丈夫ですよ。これにて契約は完了しました。それでは井上様には過去に戻っていただきます。それでは良い旅をレッツスタートオーバー」
魔法の呪文のように言った言葉を聞いた瞬間に、俺の視界は渦を巻くようにぐるぐると回っていた。激しい頭痛と気持ち悪吐き気に襲われながら。次第に意識が遠のいて行くのがわかった。この経験は2回目だ。彼女に刺された時も、こんなふうに起きとけない感覚になり、意識が遠のいていた。
意識はしていないけど、目が勝手に瞑ったのか、真っ暗な空間になったのか。視界には何も映らなくなった。
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