9月の約束

カツ イサム

9月の約束

 生きている中で間一髪という言葉を感じたのは、お互い初めてであり、また早い鼓動が聞こえたのは静かな夜更けのせいでは無かった。


 その日彼は仕事の月末処理のに追われ、気がついたときには社内には誰も居なく、最寄り駅まで行く終電にも間に合わなかった。帰り支度をし、途中駅まで行き、そこから歩くことにした。幸い1時間近くかかるが帰れる距離ではあった。途中のコンビニで缶ビールとつまみ買い、飲みながら囓りながらのんびりと帰った。昨日、彼は恋人の浮気が原因で恋が終わったばかり。気持ち的にもモヤモヤしていて、どうしようもない心境だった。

 彼の家に帰るには、少し大きく長い橋を渡る必要がある。この橋は街の中心部から住宅街に延びていく道路で、朝や夕方は通勤通学で人や車でごった返している。ただ深夜になるとほぼ無人になるところだった。その橋は等間隔に街灯はあるが、歩道側はあまり明るくない。彼は上流側の歩道を歩いていた。特にどちらを歩くというわけではなったが、この橋に来るまでの間、横断歩道の信号に従って歩いていたところ、上流側となったのである。明日から9月になるというのに、まだ夜は暑かった。飲んでいた缶ビールも次第に温くなり始め多ので、グイッと飲み干した。視線が正面になったときに、少し先の暗闇に何かが見えた。その何かに集中してみると、人だった。

 「こんな時間になんだ?もしかして幽霊か?」そんなことが彼の頭によぎる。しかし、次の瞬間、その人影は靴を脱ぎ欄干に昇ろうとしていた。おい、自殺するのか?そう思った瞬間、彼はカバンや空き缶を手放し、その影に向かって全力で走っていった。人影は欄干の上に立とうとしていた。彼がその人影を確認したとき、まるで白装束を着ている様で一瞬「人か?幽霊か?」と再度疑問が浮かんだが、全速力をと止める程の力は無かった。両足を抱きかかえて歩道側に倒れ込む。彼女はその状況を理解出来ず、彼の抱え込みにそのまま身体が付いて行ってしまった。両目から出ていた涙の雫は、下を流れる川にそっと包み込まれていった。

 歩道には男女が倒れ込んでいる。彼は大きく息を切らし、彼女は涙が止まらずにいた。彼は荒い呼吸を整えようとしながら「はぁ、はぁ…け、怪我…、はー、ない、はー、ないですか、はー」と尋ねた。彼女はその言葉を聞いた途端、まるで子供のように声を上げて泣き出し、その涙はアスファルトにボタボタ落ちていき、悲しみを吸い取っていった。



 彼女が泣き止むまで彼を付き添っていたが、このまま一人で帰すわけには行かない。かといって警察などを呼ぶのも面倒であった。訳がなければ、こんなことをするわけが無い。困ったあげく、近くのコンビニへ一緒に行き飲み物を買い、公園で落ち着かせることにした。ただ、ここで訳を聞くのは良くないと思い、彼はただ、彼女のそばに居て何か話し出すのを待った。夜更けの公園は外灯以外寝静まっていた。そのベンチに座る二人。彼女が話し出したのは、空が少し明るくなったときだった。

 「あの、私…ごめんなさい…ありがとう…」秋の虫にかき消されしまいそうな声だった。「余計なお節介かもしれないけど、何か出来ることがあれば…」彼はそう言って、名刺の裏に連絡先を書いて彼女に渡した。「今日は家に帰って、ゆっくりして」そう言って立ち上がり、彼は家に帰ることにした。



 彼は午前中だけ休みをもらい、短時間睡眠をし午後から出社をした。昨日の夜のことは自分の心の中でとどめておこう。彼女も何かあれば連絡をくれるだろうと思った。仕事の忙しさは相変わらずで、あの夜の出来事も次第に薄れていった。それは彼女からの連絡が無かったからでもある。心の何処かで心配はしていたが、連絡がないのであれば、きっとやり直した…いや、違う場所で自ら…そんなことを思うも、日々の生活がそのことを隅に追いやってしまっていた。

 彼女から連絡があったのは、丁度1か月後だった。連絡が出来なかったことのお詫び、助けてくれたことにお礼、そして、会ってお話がしたいとの誘い。彼は安堵と共に、会ってどうするのかを考えてしまった。ただ、ここで邪慳にするのもと思い、会う約束を取り決めた。



次の休みの日、街中で彼女と待ち合わせた。初めて会うわけでは無いが、何となくぎこちない。彼女は自殺をしようとしていた、彼はそれを止めた。この関係はどうにも覆らない。まず何を話して良いのか。ほぼ初対面である事から、自己紹介をした。お互い年齢は近く、住んでいる場所も一駅違う位だった。当たり障りの無い話をしても、正直話題は尽きていく。彼は意を決して「もし答えたくなかったら良いんだけど」と前置きをして話を切り出した「何故あのようなことを?」。すると彼女は俯いてあの日のような、小さな声でぽつりぽつりと話し始めた。会社のこと、親のこと、彼氏のこと。全てから逃げ出したくなって、気がついたらあの状況に居たと。ただ、あなたに助けられて、その後生かされている意味を考え直して、立ち直るの時間を要した。それで連絡が遅くなってしまったのと。それを聞いて彼は胸をなで下ろした。ただ、いつかまたスイッチが入るかもしれないという怖さも何処かに残したまま。その後二人は、ちょくちょく会うようになった。



 紅葉を見に行き、クリスマスツリーをバックに写真を撮り、除夜の鐘をつき初詣へ。チョコレートをもらい、そのお返しを。ピンク色の並木ではその吹雪に一瞬心を惑わされ、長期連休には二人で旅行に行き、一つになった。一本の傘でデートをして、渚で暑さと引き換えに日焼けをし、水着の跡が色あせていく。

 二人はいつの間にか深い仲へと変わっていった。



 そして、1年が経とうとした。



 彼はあの日と同じく、月末の処理に追われていた。気がついたら社内には誰も居なく、最寄り駅まで行く終電にも間に合わなかった。帰り支度をし、途中駅まで行き、そこから歩くことにした。彼の頭に中に嫌なことが過った。まったくあの日と同じ状況。ただ、今彼女はあの時とは異なり、恋人という立場であり、二人ともとても楽しく過ごしている。自殺するような感じもないし、思い過ごしであろうと。



 会社を出て、彼女に「仕事遅くなった。これから帰るね」と連絡した。いつもだと数分で既読になり返事が来るのに、その日に限っては既読にすらならなかった。あぁ、もう寝てしまったのかな?と思い、彼はそのまま途中駅まで行き、また徒歩で歩いて行った。今日は信号の関係で、下流側の歩道を歩く事になった。そういえばあの日、ビールを飲みながら帰って、彼女が飛び降りるところを見て助けたんだな。そんなことを思い出しながら歩いていた。

 ふと上流側の歩道を見ると、誰かが歩いてきている。こんな時間に歩く人も珍しいなと思いながら少し気になって見てみると、彼の鼓動があの日のように早くなった。



 彼女だ。



 この時間に何をやっているだ。すぐに彼女の元に行かなきゃ。ただここの歩道は人が車道に出られないようにガードされている。彼女はふらふらと、あの日のあの場所まで無気力に向かっている。彼は思わず大きな声で名前を呼んだ。その声は虚しくも夜に飲み込まれてしまう。彼は全力で走り、彼女の元に向かう。横断歩道までたどり着き、上流側の歩道についてとにかく走った。彼女は彼の方を見て、小さく手を振った。靴を脱ぎすっと欄干に昇り。そして音だけがしている川に消えていった。

 彼がたどり着いたとき、彼女の靴はまだぬくもりが残っていた。そして手紙が添えてあった。その手紙をカバンの中に入れ、警察に電話をした。


 その後のことは彼も覚えていない。後から言われて覚えているのは、彼女は橋の真下の辺りで見つかったこと。いわゆる全身打撲。遺体と面会をしたが、まるで眠っているようだった。揺さぶったら、いたずらに笑って「バレちゃった」といつもふざけているように目を開けそうな感じだった。


 四十九日が終わり、少し気持ちが落ち着いてきたところで、警察にも言わなかった手紙を開けてみた。本来は早く開けるべきだったのだろうが、封筒の表には彼の名前と“落ち着いたら読んでね”と可愛い文字で書いてあったのだ。この文字に何度癒された事だろうか。そんな事を思い出しながら、彼女が好きだったアイスティーと、自分用にアイスコーヒーを入れテーブルに座った。彼女が目の前にいると思って読みたかった。この封筒のセンスも彼女らしいな。彼女のかけらが随所にあり、やはり辛かった。

 読むのは怖かったが、封を開けて、便せんを取り出す。そっと開いて、文字を彼女の声に変換をして読んでみた。



 「この手紙、どこで読んでいるのかな?私の遺影の前?それともアイスティーを入れてくれた前かな。まず、あなたに謝る。本当のごめんなさい。一度助けてくれたのに、また同じ事をしてしまって。でもちょっとは考えたの、同じ状況ならもう一度助けてくれるかなと。でも読み進めてると言うことは、叶わなかったんだね。奇蹟って1回だけなのかなぁ。2回起こってくれたら、私は生き直したと思う。でもダメだった。この手紙を読んでいるんだから、ダメだったんだよね、きっと。

 ちゃんと説明しないと納得できないと思うので、お話しします。私の誕生日、嘘をついていました。9月1日なんです。私は昔から誕生日が嫌いだったの。子供の頃、学校でイジメられていてね。夏休みで解放されていたのに、誕生日と共にまたイジメが始まるの。誕生日プレゼントと称して、嫌がらせを沢山受ける。そんな日が楽しいわけ無いよね。私の人生暗かった。小中高とどこでも同じだった。完全なトラウマ。大学に入ってそれから解放されたと思ったの。でも誕生日パーティーと言われて、酔わされてレイプされたことがある。もう最悪でしょ。社会人になっても、気持ちはいつも重いまま。精神的にも毎年誕生日が来るのが辛かった。毎年、歳を取らずに人生を終わりにしようと思っていた。去年のあの日、誕生日を祝おうとしたところで、彼氏が浮気してるのがバレてね。やっぱり私は生きている意味が無いんだって。それであそこにいたの。その時はあなたに助けられた。私の人生の中で一番の出来事だった。すごく救われた。奇蹟ってあるんだなぁって。だから、恋に落ちた。信じて良かった。でも、奇蹟は続かなかった。

 ここからはあたなが悪いのではないので、心配しないで。一つ、先日あなたの部屋で元カノの写真を見つけたの。私が知っている人だった。そう、浮気した彼の相手だったの。かなり落ち込んだけど、あなたも元カノの浮気が原因で別れたって聞いてたから、お互い被害者だからね。もう一つ、元彼が復縁を求めてきたの。もちろん付き合う気は無い。大切なあなたがいるからね。でもね、私の写真や動画をネット上にあげるって脅かされたの。これは元彼にいつの間にか撮られていたの。私も知らなかった。セカンドレイプだし、デジタルタトゥにもなる。また、誕生日になる前に苦しいことが来ちゃったの。もう一度言うけど、あなたは本当にステキな人。私を助けてくれた人。私に奇跡を起こしてくれた人。感謝しかないの。でも、これ以上生きているのが辛くて。“何で俺に相談してくれないんだよ”って今怒ってるでしょ。でもね、あなたに迷惑を分けちゃいけない。絶対問題しか起きない人生に、あなたを巻き込みたくなかったの。あなたのことが、本当に好きだったから。最後のわがまま、許して下さい。私がこの世から消えてしまって、あなたに辛い思いしかさせていません。でも、運命の人を私が引き寄せる約束するから。あなたは自分磨きをして待っていてください。


サヨナラ、奇蹟を運んでくれたあなた」


 その手紙を何度も何度も読み直し、彼の涙はテーブルの上に落ちて溜まり、やがてアイスコーヒーのコップの結露と混じり合っていった。 

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