1話


 失敗した。しかも全てが自分の判断に拠るところだったので誰かになすり付けることも難しい、俺は仕方なくコーヒーの方だけを神妙な顔をしながら頂くことにした。何でもない日の個人経営の喫茶店でのメニュー選びにおける冒険的試みは、ただ心情不安をもたらすだけだという教訓を得たことで満足しよう。ルーティンとは存外馬鹿にならないものだ。


 ルーティンと言えるほど通い詰めている訳でもない、どちらかと言うと今回限って珍しくこちらの方まで付いて来たという事実を踏まえれば、反例の一つとして考えることもできるだろう。忍耐というのは得難く失い易し、そういうことだ。

「なあ、前の解答例、ファイルのやつ。あれ今持ってたりする?」

「どうして?」

「使おうと思って」

「置いてきた。さっきでも言ってれば持ってきたのに」

「別にいいよ。大したことじゃない」

 こんな一言がフォローとして添えられる時、それは大抵のだけれど、俺は静かにカバンを開け(恐ろしい位静かな店内だ、学生が4人も居るにしては)、プリントの束と罫線入りのノート用紙数枚を引っ張り出す。そして壁に軽くもたれかかりながら模範解答を眺めることで自分の読解力を再確認する。


 小さなカップが空になるのには十分な時間が経ち、俺の方は整数の持つ特異な性質についての考察をより深め、机を挟んで向かい側では3ページに及ぶ長文の読解を続けているのが一人、おそらく大黒柱だろう柱のすぐ傍の席では、ちなみにこの狭い店内には見えるだけで柱が三本も居座っている、一人が英作文の構成についての興味深い講義を行っていた。

 正直に言って、最初に取り掛かる課題として整数問題はゴールデンラズベリー賞を取れるに違いない、数学を解くような頭に切り替わってくれないのだ。逆説的に今この脳みそは数字なんてうんざりだと感じているのだろうという推察は出来た。そこで俺は自分の仕事はもう終わったとばかりに机を片付けて、紙の束は次に取り出すとき世界が嫌いになるかもしれないという予感を振り払いながらバインダーにそっくり詰め込み、ポケットの重みのせいだろうか、今思い出したように話し始めることにした。


「さっき言ってたさ」

「うん」そう言って松本が手を止めたのを見て、少し悪い気もしてくる。

「細田さんの話だけど…」

「オレもそんなよく知らないから」

「うんまあ、こっちも全然」

「じゃあいいだろ」

「でもさ、気になるだろう?」

 ここで食い下がるのが吉と出るか、しかしこのタイミングを逃してしまえば他に思いつかない。とりあえず教室で堂々と振る話題ではないことだけは確からしい。

 松本は少しだけ声のトーンを落とし、だけど自然に、横の講義中の二人の注意を引かないように気を払いながら、顔だけはにやついている。

「気になるか?」

「クラスメイトだからな、嫌でも目に入る」

「へえ」

 そう言うと一旦流れが途切れた。奴は見透かすようにこちらを見定めて、その仕草にこの剣呑な時間が長引く兆候を感じ取る。俺は素直に白旗をあげた。

「朝からその話で持ちきりだ。だからってクラスの連中に聞いて回るなんてちょっと考えられない」

「素直になれよ。正直に聞けばいいのさ」そう言った松本はが外れたようだった。声の調子が元に戻ってしまっていたからだ。


「結局、何があったんだ」

「昨日な。三年の先輩と一緒に出てくるのを見たんだとさ」

「それだけ?」

「ムカつく奴だな。教えてやったのに」

「思ったのと違った」

 松本はまだ気を悪くした様子で残りの手札をさらけ出す。

「その三年っていうのも、角田先輩らしいってことくらいだ」

「へぇ」

「一体何なんだ?」

「素直に驚いてるんだ。あの細田華子がねぇ…」


 学生生活における非日常というのが、細田華子という存在を形容するのにもっとも相応しい言葉だ。ハナコ、凡庸な名前だ。逆に同じ名前は学年に二人といない、名付け親もこんな名前にしたからには彼女が一つ抜きん出ることを期待したはずだ。

 実際、共学になったばかりのこの学園にとって彼女は劇薬そのものだった。個人的に注目するポイントを紹介すれば、自習時間に眼鏡をゆっくりと掛けるあの仕草だろう。あんなビン底を引っさげても花は霧吹きで水を吹きかけたように鮮やかに咲く。

 そしてもちろん、純潔。彼氏なんていたことがないという神話をまだ誰もが信じ切っていた、かといって別にデマでも構わない。結局のところ皆徒党カルテルを組んだように揃って手を出そうとしないのだから。


 そのはずだった。

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