第3話 脇役転生令嬢は原作の始まりを知る
原作のクレイヴには、婚約者はいなかった。だから、わたくしはもう原作から外れた未来を歩き始めたと勘違いしていたの。
原作が始まってしまったと気付いたのは、わたくしがクレイヴと再会した一カ月後のことだった。
クレイヴは伯爵として忙しくしているから、毎日は会えない。けれどその日は、わたくしに会いに来てくれていた。彼が執事だった頃なら、わたくしの部屋で一緒にお茶をしたのだけれど、彼とはもう正式な婚約者同士。密室にふたりきりでこもるのは良くないからと、応接室でクレイヴを迎えたわ。
「お嬢様、次の夜会のパートナーとして参加していただきたいのですが、よろしいですか?」
「夜会?」
わたくしが首を傾げると、クレイヴは微笑んで頷いた。
「はい。私はこれまで夜会に参加する際は、パートナーを伴わずに参加していましたが、正式に婚約者として、あなたをお披露目したいのです。……いいですか?」
ブルーサファイアの瞳が、わたくしを見つめるせいで、胸がきゅうっとなる。頬が赤くなってしまったのがクレイヴにはバレてしまったかしら。心配になりながらわたくしは、小さく頷く。
「ありがとうございます。とは言っても、主催ではないので、あなたを夜会の主役にすることはできませんが……」
それでもあなたを早く紹介したくて、というクレイヴの言葉に、わたくしの頬はいよいよ熱くなる。それを誤魔化すために、わたくしは話を促した。
「今度の夜会はどちらの家が主催なの?」
「アーチボルト家です」
「……え?」
その名前に、わたくしの心臓が、違う意味でどくん、と鳴った。嬉しさと恥ずかしさで火照っていた頬が、急速に熱を失うのを感じる。
「療養のために王都を離れていたアーチボルト家のご令嬢が、十年ぶりに戻られたというニュースはご存知でしょう?」
「……いいえ、知らなかったわ。そういう情報に、わたくしはうとくて……」
震える声をなんとか抑えて、わたくしは答える。
「次の夜会はそのロッティ・アーチボルト嬢のデビュタントなんです」
本来、喜ばしいできごとであるはずのその夜会を、わたくしは喜べない。だって、ロッティ・アーチボルト。彼女は、『堕ちゆく花たち』のヒロインなのだから。
***
『堕ちゆく花たち』の物語は、幼いころから病弱だったために辺境の領地で療養していた侯爵令嬢ロッティ・アーチボルトが、王都に戻ってくる所から始まる。つまり、既に原作ストーリーは始まっていたの。
もちろん、彼女が王都に戻ったからと言って、この先の未来が原作通りに進むとは限らない。現に、原作の中ではクレイヴには婚約者はいなかったけれど、今の彼にはわたくしという婚約者がいる。さらに言えば、原作では子爵位を継いだばかりだったクレイヴは、伯爵位を得ているのだから、原作とは大きく状況が違うわ。それでもわたくしが気がかりで仕方ないのはロッティ・アーチボルトのデビュタントは物語の序盤でもわたくしにとって大きな意味を持っているから。
彼女のデビュタントは、序盤でクレイヴが初登場する場面であり、ロッティとクレイヴの出会いの場なのよ。クレイヴが正式に夜会に招待されている以上、きっと彼女との出会いは避けられない。そして、出会ってしまえば、原作通りならクレイヴは彼女を好きになってしまう。
本当は夜会なんて欠席したかった。原作のとおりに物語が進行するのを見たくなかったから。でも、わたくしが参加しなければそれこそ原作通りになってしまうかもしれないわ。クレイヴに夜会への参加をやめてもらうことも考えたけれど、伯爵になったばかりの彼の立場を考えれば、侯爵家からの招待を断るなんて、百害あって一利もないもの。これがただの物語やゲームであれば、無理な行動をとったとしても後のことなんてどうでもいいけれど、この世界は現実。だから、わたくしが嫌だからと言ってクレイヴの立場を悪くするわけにはいかないわ。
だからわたくしは、クレイヴが参加するというロッティ・アーチボルトのデビュタントに出席するしかなかったのよ。
アーチボルト侯爵家のパーティーホールは、どこもかしこも磨き上げられていて、美しい生花があちらこちらに飾られている。あの花が咲く季節は冬のはずだから、きっと魔法使いにお金をたくさん積んで用意したのでしょう。立食形式で用意された食事の数々や、招かれている人たちの数、配置された使用人の多さからして、この夜会はきっととてもお金がかかったでしょうね。けれど、そんな大金をかけても惜しくないと思えるほど、ロッティ・アーチボルトのことをアーチボルト家当主が大事にしているということだわ。
「お嬢様、もしかして体調が優れませんか?」
会場に入ってから黙っていたわたくしの顔を、クレイヴが覗き込んできた。わたくしったら、クレイヴに心配をかけてしまったのね。よくないわ。
「ううん、あまり夜会に出ることがないから、少し緊張していただけよ。大丈夫」
「なら良いのですが……何かあればすぐに私に教えてくださいね。社交よりもお嬢様の方が大事ですから」
「わ、わかったわ」
真剣なクレイヴの顔に、頬が熱くなってしまう。クレイヴは優しすぎるのよ。いつもわたくしのことを気遣って……もしかしてこれは、わたくしがそうさせているのかしら。原作では『ポーラお嬢様』は、回想にしか出てこなかったのに、原作のクレイヴはそばにいないはずのポーラお嬢様の顔色をうかがって怯えていたもの。
原作のクレイヴと、わたくしの傍にいるクレイヴは違う。それは判っているのに、原作とリンクする部分があると、どうしても不安になってしまうのだわ。
しばらくして、使用人の一人がベルをりりん、と鳴らした。その音に振り返れば、使用人のすぐ傍に少女をエスコートした銀髪の男性がいる。少女の髪は男性と同様、明るい銀髪で、豪奢なドレスを身にまとっている。遠巻きだからここから彼女の瞳の色は判らないけれど、きっと瞳の色はスカイブルーね。
「お集まりの皆さま、ご注目ください」
使用人が声を張り上げると、男性が頷いて少女と共に一歩前に出た。
「諸君、今夜は娘のために集まってくれたことを嬉しく思う。存分に夜を楽しんでくれたまえ」
落ち着いた声でそう挨拶したのは、アーチボルト侯爵家のご当主であるフィリップ・アーチボルト様。侯爵様が少女に目配せすると、少女は綺麗なカーテシーをした。
「皆さま、本日はありがとうございます。わたくし、ロッティ・アーチボルトと申します。……仲良くしてくださいね」
花のような笑顔に、鈴を転がしたような可愛らしい声。そんな形容詞がよく似合う美しい少女はやっぱり、ロッティ・アーチボルト嬢だった。侯爵令嬢という高い身分に見合った教養を窺わせる美しい所作と、純粋無垢な少女を思わせる可憐さをあわせもった、ヒロインらしいヒロイン。そんな原作通りの彼女がいる。
「では、ロッティのデビュタントに」
アーチボルト侯爵様は酒杯を掲げたのを合図に、会場内で酒杯を持っていた人は合わせて掲げる。こうして、ロッティ・アーチボルト嬢のデビュタントパーティーが始まった。
とはいえ、わたくしは特にすることがないのよね。こういう場では、人脈作りに挨拶回りをすべきなのだけれど、クレイヴはわたくしに気を使っているのか、自分からはあまり挨拶に行かない。時折近づいてきた方々とクレイヴが話し始めた時には、わたくしは隣で微笑んで、紹介されたら挨拶をする。たったそれだけ。
この様子なら、クレイヴがロッティ・アーチボルト嬢と会話をすることはないかしら。そうすれば、クレイヴは原作のストーリーに巻き込まれずに済むかしら。
「楽しんでいらっしゃいますか?」
軽やかな声が、後ろからかかった。クレイヴとわたくしが振り返ると、そこにいたのは、ロッティ・アーチボルト嬢だった。
「ご令嬢。お初にお目にかかります」
二人で礼をとり挨拶をすると、ロッティ・アーチボルト嬢は目をみはった。
「まあ、そんなに畏まらなくてもよろしいのよ。わたくしのことはどうぞ、気安く『ロッティ』とお呼びくださいな」
ふふ、と笑ってロッティ・アーチボルト嬢が言えば、クレイヴは苦笑して首を振った。
「そのようなわけには参りません。アーチボルト家のご令嬢を、呼び捨てになど……ですが、せっかくのそうおっしゃって頂いたので、アーチボルト嬢とお呼びさせて頂きますね」
クレイヴがそう言った時、わたくしはきちんと微笑んでいられたかどうか、わからない。
「申し遅れました。私はフローリー家当主、クレイヴと申します。本日はお招きいただきありがとうございました」
「そんなにお若いのに、ご当主様なの? 素敵ね! けれど、ご当主様ならなおさら、わたくしに敬語を使う必要もありませんわ。わたくしは爵位を持たない子どもですもの」
「この敬語は癖のようなものです。私がこちらの方が話しやすいというだけなので、お気になさらないでください」
「そうですか?」
ロッティ・アーチボルト嬢はわたくしの方に目を向ける。
「彼女は私の婚約者です。……お嬢様?」
「あ……ごめんなさい」
声をかけられて、はっとしたわたくしは、慌てているのを気取られないようにカーテシーをして再度挨拶する。
「スウィフト家のポーラと申します。本日はお招きいただきありがとうございます」
「ふふ、あなたもそんなに畏まらないで。わたくし、こちらに戻ってきて日が浅くて、年の近いお友達がいないの。だから、仲良くして頂けるかしら」
「もったいないお話ですわ。けれど、ありがとうございます」
社交辞令と受け取って返事をすれば、ロッティ・アーチボルト嬢も頷いて、にっこりと微笑んだ。
「ではパーティーを楽しんでくださいね」
本当に挨拶だけのつもりだったらしいロッティ・アーチボルト嬢はそのまま離れていく。その背中を見送ってから、わたくしは思わず小さな息を吐いてしまった。
「お嬢様、やはり無理をしてらっしゃいますね?」
「大丈夫よ……」
わたくしの言葉に、クレイヴの手がわたくしのものに重なって、「お嬢様」と声をかける。彼の目は心配そうに、けれどわたくしが認めなければ承知しない、という意思の強さを窺わせていて。
「……いえ、やっぱり少し休憩室にいこうかしら」
「それがいいでしょう」
わたくしがあげた白旗に、クレイヴはほんのりと笑んで、休憩室へわたくしをエスコートしてくれたのだった。
身体が辛かった気はしないのだけれど、緊張のせいでいつの間にか疲れていたみたい。会場を抜け出て誰もいない休憩室に来たら、何だか少し、気が抜けてしまったわ。
「さっきより顔色が少し良くなりましたね」
ソファに腰かけたわたくしの前に回って、手を取りながらクレイヴはわたくしの顔を覗き込む。
「心配をかけてごめんなさい」
「お嬢様が謝ることではありませんよ。私がお嬢様を大事にしたいだけですから」
クレイヴは当たり前のように言ってくれて、嬉しいけれどすこし照れてしまうわ。
「ありがとう……」
わたくしがそう言うと、クレイヴはわたくしの手の甲に唇をつけてから、立ち上がる。
「私は飲み物を取ってきます」
「待って、一緒に」
いて欲しいという言葉わたくしが言う前に、クレイヴは執事さながらの動作でさっと部屋を出ていってしまった。この休憩室の中には、今わたくし以外誰もいないけれど、部屋の前には使用人が控えて入り口を守っているから、他の人が入ってくる心配はないの。だからクレイヴは席を外したのでしょうけれど、わたくしが心配しているのはクレイヴのことよ。もし、このあとクレイヴがロッティ・アーチボルト嬢に会ってしまったら……。
大人しく待っていた方がいいのは判っているのだけれど、やはり心配でわたくしは部屋を出た。クレイヴと入れ違いになるのを避けるために、入り口の使用人にことづけをしておくのも忘れない。……けれど、もし、もしもロッティ・アーチボルト嬢に出会ってしまっていたら、あの部屋に戻ることはないかもしれないわ。
胸がざわめくのを抑えながら歩いていると、曲がり角に差しかかったところで、どなたかの話し声が聞こえてきた。
「やはりわたくしのことは、ロッティと呼んでくださらないの?」
ロッティ・アーチボルト嬢の声だわ。このまま聞いていてはいけない。そうは思うのに、わたくしは足がすくんで、角を曲がれなくなってしまった。
「……あの場では言いませんでしたが……私はもともとスウィフト家の執事をしておりました。その癖、というのでしょうか。爵位が上の血筋の方に、馴れ馴れしくするのは気が引けてしまうのです。ですから、下の名前でお呼びするのはご容赦ください」
聞いたことのある、台詞だわ。
「まあ! では、婚約者様のことを、『お嬢様』と呼んでいらしたのはそのせいなの?」
「そうなりますね」
「……あの、クレイヴ様。過去に囚われるのはおやめになった方がいいのではないかしら。あなたは伯爵であって、もうポーラ嬢に仕える執事ではありませんもの。『執事』の気持ちを抱えたままでは、あなたの心が辛いでしょう……?」
これは、『わがままなポーラお嬢様』に振り回されて、爵位を継いだあとも身分が上の人間に対して過剰に怯えてしまっていたクレイヴに対して、原作ヒロインが告げた台詞と同じ。原作ではわたくしが婚約者として出てはいなかったけれど、「過去に囚われるのはおやめになったほうがいい」というのは、全く同じだったわ。
原作のクレイヴはこのヒロインの言葉に救われ、やっと爵位持ちとして胸を張れるようになり、同時にヒロインに溺れるように想いを寄せるきっかけとなるの。
……わたくしはクレイヴを虐めてなんかいない。クレイヴは望んでわたくしの婚約者になってくれた。状況は原作と何もかも違うのに、こんなに不安になるのは、ヒロインの台詞でクレイヴが彼女を愛してしまうのが怖いからなんだわ。
このまま知らんぷりをしていていいのかしら。いいえ、だめに決まっている。愛しい人に去って欲しくないなら、わたくしだって努力すべきよ! けれど、けれど……足がすくんで動かないわ……!
「そう、ですね……」
クレイヴが、ロッティ・アーチボルト嬢の言葉に頷いた。やだ、涙が零れそうだわ。わたくしはこんなに弱い人間だったのかしら。
「じゃあ、まずは呼び方から変えてみたらどうかしら?」
それはロッティ・アーチボルト嬢を『ロッティ』と親し気に呼び捨てにする提案。
「そうですね、口調はすぐには変えられませんが……わかりました」
そんなの、だめ!
「クレイヴ!」
思った時には、わたくしの足は動いて、叫んでいた。
「! どうされたんです?」
振り返ったクレイヴは、驚いたような顔でわたくしに近づいてきた。とっさに身体は動いてくれたけれど、彼にかけるうまい言葉なんて思い浮かばず、わたくしはもう一度名前を呼んだ。
「クレイヴ」
目の前に来たクレイヴと目が合わせられなくて、俯いてしまう。貴族の令嬢が、格上の屋敷でこんな風に叫んだり、黙り込んで俯いたりするのはとても無作法で失礼だわ。でも、どうしていいかわからないの。
クレイヴは、わたくしの頬を両手で包み込んで、そっと顔を上向かせた。そうして、わたくしの目尻の涙を指で拭ってくれる。
さまよわせていた視線を彼に合わせると、クレイヴの目が、ゆっくりと細められて笑んだ。その顔をぼんやりと見つめていると、クレイヴが口を開く。
「ポーラ」
柔らかに、優しい声がわたくしの名前を呼んだ。
今までずっと、『ポーラお嬢様』か、『お嬢様』としか呼んでこなかったクレイヴが、わたくしの名前を呼び捨てで。
驚きで思わず息を呑む。頭が真っ白になってただ彼の目を見つめ返していると、クレイヴは困ったように眉を下げた。
「……アーチボルト嬢に言われたのです。いつまでも使用人の気分ではいけないと。だから、婚約者らしく、貴女の名前を呼んでみました。……だめでしたか?」
「……っだめなはずがないわ! ずっと、ずっとそう呼んでもらいたかったのだもの!」
「良かった、ポーラ」
クレイヴの手に、わたくしの手を添えて言うと、クレイヴは嬉しそうに微笑う。
「まあ!」
張り上げられた声に驚いて、クレイヴの後ろにロッティ・アーチボルト嬢がまだいたことにやっと気付く。どうしようかしら、わたくし人前でこんな風に泣いたりして……!
「そちらにいらしたってことは、きっとさっきのお話を聞いていたのよね?」
無邪気なロッティ・アーチボルト嬢の質問に、まさか素直に盗み聞きしていたと答えられなくて、わたくしは言葉に詰まる。
「ポーラもクレイヴの言葉遣いを気に病んでいたのね。てっきりわたくし、ポーラがクレイヴ様にお嬢様と呼ぶのを強要しているのかと思って変なことを言ってしまったの。クレイヴ様にもポーラにもとっても失礼だったわ。ごめんなさいね」
「え……」
頬を染めて、気まずそうにしながらもロッティ・アーチボルト嬢は謝ってくれる。それは多分、原作と同じ、彼女の素直さゆえの行動なのだわ。ロッティ・アーチボルトは、いつでも悪気なんてなく、人の裏をかくなんてことをしなかったキャラクターだったんだもの。
「わたくしこそ、立ち聞きなんてはしたないまねをして、申し訳ありません」
「いいえ、婚約者が他の女性と二人で話していたら気になってしまうもの。わたくしの配慮不足だったわ。本当にごめんなさい」
心からの謝罪に、わたくしは申し訳なくなって首を振った。
「大丈夫です」
わたくしの言葉に、ぱっと顔を輝かせたロッティ・アーチボルト嬢は、わたくしの手をとった。
「改めて、お友達になってくれるかしら。ポーラ」
今度は社交辞令ではなさそうなその申し出に、わたくしは驚いてしまう。
正直に言って、わたくしはロッティ・アーチボルト嬢が怖い。それは『堕ちゆく花たち』の小説のせいだけれど、全てを原作小説と重ね合わせて彼女と距離を置くのは、ロッティ・アーチボルト嬢に失礼なのではないかしら。
「はい。ロッティ嬢」
「ふふ、嬉しいわ。でもロッティ嬢ではなく、そうね、ロッテと呼んで」
愛称で呼んで、とねだるロッティ・アーチボルト嬢にわたくしは目を瞬かせる。そんなに馴れ馴れしくしていいものかしら。わたくしが困って答えられないうちに、ロッティ・アーチボルト嬢は隣のクレイヴに目をやる。
「クレイヴ様も」
にこりと可愛らしく微笑んだロッティ・アーチボルト嬢は、クレイヴにも愛称を要求した。その魅力に、普通の男性ならすぐに愛称で呼んでしまうでしょう。原作のクレイヴもこのくだりでロッテと呼ぶようになっていたわ。先ほど浮上したばかりの心が、瞬間に沈んでいくのが判る。
「……せっかくですが、アーチボルト嬢」
首を振って、クレイヴは続ける。
「私は婚約者のいる身です。親しくするとしても、異性間では節度が必要でしょう。どうかこのまま、アーチボルト嬢と呼ばせてください」
クレイヴがそう断ったのに対して、ロッティ・アーチボルト嬢ははっと息を呑んで口を押さえる。その顔がみるみるうちに赤くなっていった。
「いやだ、わたくしったら……さっき配慮が足りなかったばかりなのに、また同じことを……! ごめんなさい、ポーラ。気を悪くしたわよね」
「あ、あの」
「ううん、言わなくてよろしいのよ。本当にごめんなさいね。クレイヴ様も……いいえ、フローリー伯爵様もごめんなさい。わたくし、淑女としてあるまじき振舞いでしたわ」
恥じ入るようにそう言ってから息を吐くと、ロッティ・アーチボルト嬢は美しいカーテシーをする。
「お友達になりたいのは本音でしたが、フローリー伯爵様には失礼いたしました。ポーラ、お友達の申し込みはまた改めてさせてちょうだい。今夜はこれ以上合わせる顔がないわ。失礼いたしますね」
そう言って、踵を返すと、ロッティ・アーチボルト嬢は去って行った。その後ろ姿になんと声をかけようか迷っているうちに、彼女は廊下を曲がって姿が見えなくなってしまう。
流れていた涙もいつの間にか乾いてしまっていたわたくしは、ほっと息を吐いた。そんなわたくしを見てクレイヴも深く息を吐く。
「……何と言うべきか、嵐のような方でしたね」
『嵐のような人』という評価は、小説通りだわ。けれど、小説の中のクレイヴは陶然としていたのに対して、今のクレイヴはどうしてか困惑したような表情で苦笑している。
「……もしかして、苦手?」
「このような言い方はどうかと思いますが……婚約者がいると判っている異性に対して、親しく友達になりましょう、という女性はあまり……お近づきになりたくありませんね」
苦々しい感情を隠しきれない様子でクレイヴが言う。
「ふふ」
「どうかなさいましたか?」
わたくしがつい漏らした笑い声に、きょとんとしたようなクレイヴが首を傾げた。
「ううん、少し、安心してしまったの」
「……まさか、私が彼女に好意を寄せるとでも思ったのですか?」
心外だという顔で言うクレイヴにますます笑ってしまう。
「だってロッティ・アーチボルト嬢はとても綺麗な方でしょう?」
「お嬢様、怒りますよ」
それは自分への信頼を損ねたという事実からくる不機嫌さ。自分を当然信じていて欲しかったという我儘が透けて見えて、わたくしはまた笑みがこみあげてきてしまう。
「また『お嬢様』に戻っているわ」
「っ慣れるまでは仕方がないでしょう」
「そうね、クレイヴ」
ふふふ、とまた笑いが漏れて、わたくしはクレイヴの腕にそっと手を絡める。
「だいすきよ」
「……今それを言うのはずるいです。もう、怒れないじゃありませんか」
そう言いながらそっぽを向いたクレイヴは、それでもしっかりとわたくしの腕を離さない。
小説通りの言葉でも、クレイヴは小説通りではない行動を取ってくれた。クレイヴはわたくしがもっと彼のことを信じていいのだと、訴えてくれる。その事実が嬉しくて、わたくしは上機嫌で夜会を終えたのだわ。
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