女として生きるシリーズ③ かぼちゃの落ちる夜

南部りんご

かぼちゃの落ちる夜

 土曜日の午後一時、カジュアルフレンチと銘打つ店で、波子は食後のコーヒーを飲んでいた。柿とブルーチーズのサラダ、発酵バターがたっぷり添えられた香ばしい焼き立てパン、スズキのグリルに牛ほほ肉の赤ワイン煮込み、デザートはクレームブリュレ。あたたかいものは皿も熱く、冷たいものはぬるくなる前にてきぱきと提供された。こういう店にくるのは独身時代以来だ、と思う。

 都内のビルの隙間にある店舗だというのに、窓際には花が活けてあり、店内の音楽はゆったりしている。普段の生活からは完全に切り離された、ふわふわした善意であふれている、作りこまれた空間だった。

 波子は大学時代の友人三人と、約二年ぶりに食事をしていた。

「この間銀座に行ったお店は、デザートが六種類から二つ選べたの。今度はそこもいいかもね」

 波子の右隣に座る友里が提案する。彼女は食道楽で、都内の色んな店を友人と食べ歩いている。この「女子会」の主催も彼女だった。白銀の一等地に自宅を持つ彼女は、自動車メーカーに勤めながら、実家から出ずに悠々と暮らしている。

「波子、旦那とは仲良くやってるの?」

 向かいの席にいる萌は、ホットミルクを飲んでいた。彼女の前に置いてある、真っ白なころんとした形のポットに、波子の顔がゆがんで映っていた。萌は一年ほど前に歳が六つ上の男性と結婚して、長く勤めていた銀行を辞めていた。今は家庭に入り、妊娠中だという。

「うん。萌は?新婚生活はどう?」

 萌は苦笑する。

「平日が暇すぎて、今はパン教室に通っているところ。旦那は夜遅くまで帰って来ないし、犬でも飼おうかなと考え中」

「ペットかあ、うちはダメだな」溜息をつくのは萌の隣に座る麻美だ。「月の半分がフライトだもん、植物ですら枯らしたよ」

 萌は航空会社の客室乗務員で、世界中の空港を行き来している。五年ほど前から、国内線部署から国際線部署に異動し、嬉々として毎日飛行機に乗っている。責任は重いし業務内容は過酷だがやりがいがあると、入社してからずっと同じことを言っている。根無し草な性分だと自分でもわかっているようで、地に足をつけるために、最近、職場近くにマンションを購入したらしい。

 銀座のレストランも妊娠もマンション購入も、波子には全てが遠い世界の出来事のように感じた。絵本の中のおとぎ話のように、妙にぼんやりした色で、イミテーションの宝石のような輝きを持っていた。

 波子は自分の家を思い浮かべる。駅から歩いて二十分、築十五年の割には小ぎれいで、けれどたまに隣人がうるさい三階建アパートの1DK。

 レストランを出るとき、思ったよりも会計が高くて一瞬固まった。ランチで五千円は波子にとって日常な金額ではなかったが、顔色には出さないように支払いをすませた。

 店を出たとき、友里が小さな声で波子に言った。

「ごめん、大丈夫だった?私からすると、この味のレベルで、この金額ってお得だと思ってここにしちゃったんだけど…」

 波子は曖昧に笑ってやり過ごした。

 駅の前で解散して、波子は地下鉄に乗って自宅へ向かった。

 電車の座席に深く腰掛けながら、ああ、疲れたと呟いた。呟いてしまったら、急に体が重くなった。

 卒業して十年、同じ場所で学んだ友人達の人生は、いろんな方向に向かっていた。それは、大学生だった頃は想像もできない方向だった。波子の今の生活も、当時の予想とは大きく異なっていた。三十二歳になる頃には、主任に昇進していて、幼い子供がひとりいて、結婚記念日には夫と行きつけのレストランに行くようになるのだと思っていた。

 自宅最寄りの駅に着くと、波子は駅前のスーパーマーケットに向かった。冷蔵庫の食材はほとんどなくなっていたはずだ。今週は夫が残業続きだったので、夕食は栄養のある緑黄色野菜を入れようと決める。野菜売り場に行くと、カボチャが山盛りに積まれていた。百グラムで二十八円、まずまずの値段だ。皮がつやつやしていて、色のいいものを選んで買い物かごに入れる。かぼちゃのグラタンにしようと、肉売り場に移動してひき肉を選ぶ。ふと、隣のステーキ肉の売り場が目に入った。

 ステーキ肉の値段を見て、後悔が押し寄せる。今日のランチ会に行かなければ、夫に和牛のステーキを食べさせてあげられたのに。

 もう友人とのランチ会に行くのはやめよう、と思う。以前もそう思って二年間断り続けてきた。けれどどうしてか、ある瞬間、日常以外の場所につながりを求めて行ってしまうのだった。

 自宅に帰ると、夫が不在だった。買い物にでも行っているのかもしれない。波子は買ってきたものを次々に冷蔵庫に入れる。かぼちゃを手に取ったとき、誤って取り損なった。かぼちゃが、ごろん、と床に落ちる。

 ああしまった、痛んでいないといいのだけれど。そう思ってしゃがみこみ、かぼちゃを手に取ったとたん、波子の中で何かがいっぱいになった。

 唇が震える。冷蔵庫に額をつけて、ぎゅっと目を閉じた。そうしないと、泣いてしまいそうだった。

 私からすると、この味のレベルで、この金額ってお得だと思って。

 友人の言葉がよみがえる。波子がおそらく一生持つことのないブランドの鞄、デパートのロゴが入った紙袋。同じ教育を受け、そう変わらない能力で社会に出たのに、どうしてこんなにも違うのだろう。

 波子が新卒で入社した会社は、名前を知らない人がいない大手メーカーだったが、朝までの残業と営業ノルマに追われる日々に、体を壊して流産し、退職を余儀なくされた。波子の学歴は秀でたものではなく、資格もなかったため、正社員への再就職は難しかった。ならば子育てを、と思ったが、一度流産してしまったせいで、著しく妊娠しにくい体であることが分かった。

 夫は、まだ高齢出産にもならないし、焦らなくていいと言ってくれた。波子は週四回、パートでスーパーのレジ打ちをするようになり、夫は残業を増やした。それでも、波子の母親が脳梗塞で倒れたり、夫の父親が交通事故で足を悪くしたりと出ていく金額は大きく、生活は楽にはならなかった。この状況で、何十万もかけて不妊治療ができるわけもない。

 友人達と自分を分けたのは、いったい何だったのだろうと波子は思う。知名度に惹かれてあの会社を選んでしまったからか、ハードワークに耐えうる心と体を持っていない自分が悪かったのか、退職後に急に景気が悪くなって思うような就職口がなくなってしまったのが原因だったのか。

 全てが関係している気もしたし、全てが関係ないような気もした。

 玄関の方から、鍵を開ける音がした。夫が帰って来たようだ。波子は立ち上がって出かけた涙を拭い、かぼちゃを冷蔵庫に放り込んだ。

「ただいま。ラップがなかったから、買ってきたよ」

 夫が靴を脱ぎながら言う。波子はおかえりなさい、と答えながらお湯を沸かす。

「ありがとう、紅茶淹れるね」

 台所に向かっていると、夫に顔を見られないですんだ。心が落ち着くのを待って、ゆっくり紅茶を淹れた。その間、夫はリビングで外着から部屋着に着替えていた。

 琥珀色の熱い紅茶をマグカップに注ぎながら、波子は冷蔵庫の中のかぼちゃについて考える。あわてて、変質しないように冷蔵庫に放り込んだかぼちゃ。今は冷たく冷え始めて、冷静になっているかぼちゃ。

 冷蔵庫から一生出なければ、外の世界がうらやましいこともない。

「牛乳、入れる?」

 リビングにいる夫に呼びかけると、入れてくれるかな、という返答が帰って来た。

「ごめんね、外に行って疲れているよね。何か手伝う?」

 足音がこっちに向かってきた。波子はやんわり断る。

 この人はいつもそうだ、自分を丁重に扱ってくれる。子供が産めないかもしれない女にも、敬意を払ってくれる。私は幸せだ、と思う。この家の中で、十分に満たされている。

 波子はマグカップを持って、リビングに向かう。背後で、冷蔵庫が閉まる音がしたような気がした。

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