第一話「黄金の騎士と黄昏の少女」⑥
下から上に向かい、黒から白へと変わっていくだけの世界で、彼女は瞼を開けた。
そこは大地もなければ空もない、果ての見えない空虚な場所だった。無音のなかでただひとり、彼女はあたりを見回すが、視線は確かに動いているのに、どんなに下を向いても自分の体を見ることができない。手を動かそうとしても、その手すらない。
視界だけが宙に浮いたような状態。だが不思議と、焦りはなかった。
ここはどこか。そんな疑問が浮かぶ前に、彼女は不意にこう思った。
(あ、また)
死んだ、と。
そう感じた理由はわからない。わからないが、異変は確かに彼女の身に降りかかった。
真っ白な頭上から突如として闇が侵食し、あたりが暗黒に呑まれはじめる。
その光景に彼女の視線は慌ただしく走り、そしてぴたりと動きを止めた。
暗闇のなか、それよりも濃い影がいる。
(誰――)
ふと気づけば、彼女はたくさんの人影に取り囲まれていた。ぐるりと一周、人、人、人。おそらく人だ。どれもこれも、ぼやぼやとした白い輪郭を持つ影に過ぎないが、頭もあるし足もある。だが性別や年の頃まではわからない。
そこにどこからか、秒針が時を刻む音が聞こえてくる。闇の奥から近づいてくるその音に、人影たちは合わせるようにして、首を左右にかしげはじめた。
秒針の音が大きくなるにつれ、彼らは一糸乱れぬその動きで、だんだんと距離を詰めてくる。
それに目を奪われるうち、彼女は言いようのない切迫感に駆り立てられた。だんだんと、そうしなければいけない気がしてきたのである。だんだんと、だんだんと、そうしなければいけない、そうしなければ、そうしなければ、そうしなければ、と。
その強迫的ともいえる意思の改竄は、秒針の音が途絶えると同時に消えてなくなった。
見れば、一心不乱に首をかしげていた影たちは、みな倒れて動かなくなっている。
すると彼女は、自分の足元(正しくは、足があるはずの場所)に小さい波紋がなびいていることに気づいた。
(水――?)
知らぬ間に水が張られたようである。心なしか闇も薄らいだらしい。
その黒い水面に月が映る。たゆたうそれは、見上げてもどこにもありはしない、虚像の月だ。
まるで夜のような水面は、溢れ溢れて広がっていく。彼女はそれを、人形のごとく動きを止め、見つめ続けた。
黒い水はどんどんと
同時に、彼女を包み込む空間そのものから、
「ないの! ないの!
と、老若男女さまざまな人の声が重なり、闇に気味悪く響き渡った。
彼女に、自分の顔がどうなったかを確かめるすべはない。ただまわりを見回すだけである。
そのうちに彼女は、己のうちにさまざまな感情が割り込んでくるのを感じた。
行きたい。イキたい。逝きたい。生きたい。どれも自分のものではない、けれど、自分かもしれない誰かの、声。
しかし、それに耳を傾ける間もなく、暗闇は急にしんと静まり返った。
そこで視線を横に滑らせた彼女は、
(あれ……)
と、暗闇の彼方になにかを見つけた。
目だった。同じ目線の高さで目があった。闇のなかに浮かぶふたつの目が、じっとこちらを見つめていた。
彼女がゆっくりと近づくと、水面に浮かび上がるようにして顔が出てきた。
それは、口を悲しみに歪ませ、左の目は怒り、右の目は笑っている自分の顔だ。
口づけを交わせる距離で対面したとき、その顔は黒く染まり、結局最後は、目と口だけしか残らなくなる。
そこにまたカチカチと、時計の音が響きはじめた。
そんな奇妙奇天烈な光景が、浮上する意識と引き換えに曖昧になり、
直後、
「おおう、起きたか」
と遠慮のない声量で野太い声が響く。目をやれば、熊のような大男が傍らに座し、なにやら殊勝な面持ちでこちらを覗き込んでいた。
「先生……」
神楽夜は白いアルミフレームの簡易ベッドをきしませ、身を起こす。そこで彼女は、いつの間にか患者衣に着替えさせられていることに気づいた。
しかしいくら思い返せども、この病室らしき場所に担ぎ込まれた記憶はない。
神楽夜は問いのまなざしを大男に向ける。対する
「悪いことをした。どこか痛まんか?」
言われた神楽夜は体のあちこちを触って確かめるが、
「……いや、なんとも」
この娘は頑丈さが取り柄である。打撲どころか掠り傷ひとつなかった。
「なんと詫びていいものか。とにかく、生きていてよかった。倒れたときはさすがに肝を冷やしたのでな」
「倒れた……?」
「戦いのすぐあとだ。もう五時間になるな」
麟寺の言に神楽夜は目を見張った。その脳裏によみがえるのは、襲い掛かってくる黄金の騎士の姿である。
(そうだ……)
彼女は思い出された死闘の記憶に、顔を渋いものにした。よく生き残れたものだという自賛などない。あれは幸運が重なっただけだと、己が一番理解している。
(あの時)
騎士はこちらの一撃を防ぐわけではなく、なぜか両腕を広げようとしていた。その意図するところが解せず、神楽夜はますます顔つきを険しくする。
それが麟寺には、体調が思わしくないと映った。
「どうした、苦しければ横になってかまわんぞ。俺とショウキは京に戻るが、世話はここの者に任せてある。ゆっくり休め」
そう言って席を立とうとする。
その時、神楽夜の目が、パイプ椅子の脇に置かれた
「先生、それは?」
すかさず訊く。実にめざといもので、中身はだいたい想像がついている。もなかだ。麟寺が
小豆の丸みがほどよく残る粒あんはずっしりとしていて、甘さが少なく、小豆本来の味わいが残っている。それを細長い小判のような皮で挟んで食すのだが、これがまた軽妙な歯ざわりなものだから、この娘は好物にしていた。
「ああ」
麟寺は一度上げかけた腰を下ろし、紙袋のなかへと手を入れる。弱り目に差し入れとはありがたいではないか。
大男が筋張った棍棒のごとき腕をその袋から引き抜くにつれ、娘の期待値は俄然高まった。やはり花より団子。死んだ魚のようだった目は爛々とした輝きを取り戻している。
それが、
「ほれ」
と差し出されたものを見て、途端に色を失った。
「なにこれ」
「見ればわかるだろう。服だ。軍服」
黒い詰襟の軍服は日本国軍のものだ。それはわかる。神楽夜はなんの冗談だと言わんばかりに嘆息し、抗議の目で睨みつけた。
麟寺とて娘がなにを言いたいのかは予想がつく。しかし、ここでそんなものが都合よく出てくるはずがない。
「替えがなかったんでな。しばらくはこいつで我慢してくれ」
そう告げるなり、端正に折りたたまれたそれを掛け布団の上にぽんと置いた。
替えがない。神楽夜は、自分がなぜ患者衣なのかというその理由に思い至った。そして噴火寸前の羞恥心を抱え込み、膝の上に置かれた軍服を握りしめ打ち震える。
よもや自分が失禁するなど。全神経を敵に集中していたがゆえ、はっきりと思い出せないのが歯がゆいところだ。
だが、戦闘という極限状態における大なり小なりの失禁は、特段珍しいことではない。
デーヴ・グロスマン著の「戦争の心理学」によれば、第二次世界大戦時に米兵の四分の一が尿失禁を経験した、とある。アメリカの戦時動員数は一六三五万人という資料もあることから、その四分の一ともなれば四百万人以上だ。
けれども、神楽夜がそれを知るはずはない。仮に知っていたとしても、堂々と尿を漏らしたという事実は、彼女にとって生き恥以外のなにものでもない。いっそ死にたいとすら思えるほどの羞恥だ。しかしその矢先、
(死、ぬ――)
と彼女ははっと目を見開き、思考を止めた。どう戦ったかは覚えていないが、黄金の騎士の姿だけはありありと思い出されたのである。
それはまさしく、自分にとっての死の形だった。命のやり取りが、かの者の姿を克明なまでに刻みつけたらしい。
神楽夜はうつむいたまま表情を硬くした。
そこに、
「カグヤ」
と麟寺の穏やかな呼び声が響き、回想のなかの騎士はたちまち無へとかき消された。
彼女が心持を引きずったまま顔を上げれば、大男は控えめな顔つきで口を開いた。
「今回の件は俺に非がある。責任を取らねばならない。だから、こんなことは言えた口ではないのだが……」
と視線を一度手元に落とした麟寺は、やや間を置いてそれを戻すと、
「よく諦めなかった」
そう力強く続けた。
諦めなかった。がむしゃらだった神楽夜には予想だにしない言葉であった。
はたから見れば、なにを身勝手なことを、と思うかもしれないが、その言葉は麟寺の本心である。なにより、神楽夜に麟寺を責める気持ちはない。むしろ、生まれてはじめてもらった称賛を、どう扱えばいいか困るくらいである。
手に余した神楽夜は、麟寺の言う「責任」の話へ水を向けた。
「責任を取るって、どんな」
「それを決めに戻るのだ」
力なく答えた麟寺は肩をすくめて見せる。と、その背後で白い鋼製引き戸が横に開いた。
そこから姿を見せた
「月の連中が来るぞ!」
と声を荒げた。
月の連中が来る。神楽夜はその重大さが理解できず、「月?」と
普段は山のごときその背中が、いまはどうしてか小さく見える。
「戻るか……」
麟寺は嘆息混じりにつぶやくや神楽夜に向き直り、
「ではな、カグヤ。無理せず休むのだぞ」
と、致し方ないといった様子で笑って見せる。それきり踵を返し、扉のところで待つ老師へ歩み寄った。
その覇気のなさは、神楽夜に「これが最後かもしれない」という不吉な予感を抱かせるに充分である。
(責任……)
それを果たすのだと麟寺は言った。先刻の、繭の覚醒にかかわることだというのは、推し量るまでもない。だとすれば、その一端は自分にもありはしないだろうか。
(まさか……私が近づいたから)
あの時、不可解な声に誘われ、繭との距離を縮めたのは事実だ。それがどの程度影響したかは知れないが、起因のひとつである可能性は否定できない。無論、当時最接近していた研究者たちが、なにがしか覚醒を促すような行いをしたとも考えられる。
(でも)
いずれにせよ黙ってここにいるのは違う気が、彼女にはした。
意を決した神楽夜は、麟寺の背中を射るように見やった。
「私も行く」
突としてかけられたその言葉に、
「いいんだぞ。お前のせいではない」
と、麟寺は足を止め振り返る。すると神楽夜は、向けられた視線から顔を逸らすようにうつむき、
「いや――声が、聞こえたんだ」
と彼らもまだ知らぬだろう事実を告げた。
それに反応を示したのは鍾馗のほうである。
「声?」
大男の影から厳めしい顔を覗かせて訊けば、
「それで私が近づいたからかも、しれない……」
神楽夜は反省の色を浮かべながらそう続けた。
鍾馗は麟寺と互いに顔を見合わせ、なにやら意味ありげに嘆息を漏らすなり、前に進み出た。
この娘の強情さは彼らもよく知るところ。それゆえ、あえて強い言葉で制する必要があった。
「戻れば、場合によっては拘束されるかもしれんぞ。おとなしくここにいろ」
その狙いどおり、
「こ、拘束……?」
なにやら物騒な話に神楽夜はひるみを覗かせる。
「本来の持ち主でなくゼルクが動き、あまつさえ繭を討ち果たしたとあれば、月のやつらが放っておくはずがなかろう」
半分は
が、
「――それでもいい」
案の定というべきか、神楽夜は断固として退かなかった。
捕まることで済むのなら、彼女なりに責任を取りたかったのである。好奇心に負け、あの場に行くことを選んだのは、ほかならない自分だ。それで他人に責を取らせ、自分はのうのうと守られているという状況は、この女にしてみれば実に好ましくない。
こうなっては梃子でも動くまい。男ふたりがどうしたものかと再び顔を見合わせると、
「じいちゃん、僕も帰りたい」
と、そのうしろから、沈んだ顔の朔夜が現れた。
少年も意識だけとはいえ、姉とともにあの黄金の繭と対峙したばかりだ。それで慣れぬ環境でさあ休めと言われても、確かに難しかろう。
一時の思案を経た鍾馗は渋々と、
「どこにいようが、やつらに目をつけられれば同じことだな」
と神楽夜に目を戻した。それに続いて麟寺が、
「どうする。家に戻すか?」
と訊く。
腕を組んでいた鍾馗は片手で顎をさすった。
「マツルギの結界がどこまで通用するか……。下手に隠せば、またいらぬ口実を与えかねん。ワシらがトウヤを匿っていたと知られているからなお、質が悪い」
(
神楽夜も、そして朔夜も、それは初耳であった。わけを
「本当にいいんだな、カグヤ?」
と鍾馗に念を押され、その場は頭の片隅に追いやることにした。
彼女はこれが答えだと言わんばかりに、患者衣を脱ぎはじめる。家族同然の彼らの前で肌を晒すことなど、失禁したことに比べれば大したことではない。
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