第一章 衝撃の予感

 薄明の空に雀が鳴いている。カーテンの隙間から差し込む光に誘われて、志村しむら圭吾ケイゴは目を覚ました。

 洗面所に立ち寄って顔を洗う。鏡は彼と目を合わせることはなく、茶色の後髪を追いすがる様に映した。今朝の朝食も簡単なもので、厚底の食器にシリアルと牛乳を入れるだけ。リビングのテーブルに置かれた小さなテレビは今日も出番が無く、真っ黒な液晶は黙々と食事をする彼の横顔を映した。食事を終えたらYシャツに袖を通し、その上にブレザーを羽織る。そして、翠色みどりいろのリングピアスを二つ通した。どちらも左耳の上の方、ヘリックスと呼ばれる種類だ。慣れた手つきで当たり前のようにこなしているが、その間も含めて彼は一度も鏡を見ない。最後にリュックサックを拾い上げて玄関へ向かう。下駄箱の前にあるのは一人分の靴。飾ってあった花瓶も象徴だった姿見も、今はここにない。錆びかけた鉄の扉を押し開けると、金属がこすれる音が悲鳴のように響いて、嫌に耳に残った。

 今朝は静かな通学路だった。富士起動科高等学校と書かれた銘板をすれ違う。起動科とは、いわゆる普通科と同じように大学への進学を目指しつつ、作業用二足歩行ロボットの操縦を学ぶカリキュラムを取り入れた学科である。二足歩行ロボットの活用は近年世界各国で盛んに行われ、人々の生活に深く根付いている。そんな二足歩行ロボットに関する知識や操縦の基礎を学べる起動科は進学先はもちろん、就職先に工場勤務から海外での活躍を目指す営業マンも目指すことができる近年人気の学科だ。

 正門から入ると、10メートル級の二足歩行ロボットが膝を折りたたんで鎮座していた。礼儀正しく正座する様は学生の模範となるようで、この学校のシンボル的存在である。その横で「あいさつ運動」に精を出す教師と目が合うと、向こうはぎこちない笑顔を浮かべた。二階に上って最初の教室、2-Aの窓際から二番目、一番後ろの席に座る。ホームルームを知らせるチャイムを頭上で聞きながら、腕を枕にして机に突っ伏して顔を外に向けた。

 窓際の席は今日も空席で視界が開いている。その先に広がる空が今日も明るくて、眩しかった。


「志村さん。志村ケイゴさん!」

 自分を呼ぶ担任の声にゆっくりと身体を起こす。ケイゴは整った顔立ちをした少年であったが、重たそうな瞼がその印象を悪くしていた。やや伸びた茶色の髪は耳にかかって、左耳のピアスを隠している。

「……はい」

 気怠そうな声と半眼で相手を見返す。目が合うと、担任は出席簿を片手に眉間の皴を深くしていた。緑のジャージと結んだ後ろ髪がトレードマークの彼女は、何か言いたげで次の生徒に進もうとしない。

「志村さん。頭髪の着色は校則で禁止されているの、先週も言いましたよね」

「そうですね」

 頷きと共に肯定する。質問に対する素直な反応ではあるが、この場においては不適切なのは明らかだった。担任の肩が怒りに震えている。

「そうですね、ではなく。色を落とすように生徒指導を受けたと聞いていますが?」

「さあ」

 ケイゴは適当に会話を切り上げると、また腕を枕にして外を見始めてしまった。とぼける生徒についに堪忍袋の緒を切って、彼女は声を荒げる。

「さあって、何回注意しとんじゃーっ!」

 絶叫と共に教壇の下に隠していた竹刀を肩に担いだ。現代でジャージに竹刀をもった熱血教師は既に絶滅危惧種だろう。だが、ここに居る。

「もう許せん、そのヒネ曲がった根性を今日こそ叩きなおして」

「「栗山先生っ!」」

 鬼の形相でケイゴに詰め寄ろうした彼女であったが、教室に駆け込んできた二人の男性教師に進撃を阻まれた。片方は若い生徒指導担当、もう片方は中年の副校長だ。

「体罰は問題になりますからっ」

「SNSも怖いですしっ」

 二人は女性教師を羽交い絞めにして取り押さえる。彼らの理屈で言えばセクハラ問題も懸念事項のような気もするが、それどころではない。

「そんなん関係あるかーっ」

 一介のクラス担任が生徒指導も副校長も恐れず腕と竹刀を振り回す、異様な光景だった。だが、生徒達はすっかり慣れてしまって、怯えるどころかむしろ笑って事の成り行きを見守っている。当事者のはずのケイゴを除いて。

「栗山せんせーっ、あんまり怒るとシワが」

 ギロッ! 要らんことを言おうとしたクラスのムードメーカーは、鷹のような鋭い眼光に射抜かれた。空気を読み間違えたことを悟りおずおずと手を引っ込める。

「フーッ、フーッ、まあいいでしょう。次、立花さん……は、今日も欠席だね。次は……」

 気を取り直した栗山が出席の確認に戻ったため、生徒指導と教頭は連れ合って教室を去る。「敵いませんな」「いやほんとに」と慰め合う二人の背中は哀愁が漂った。一方、生徒たちの一部はまだ興奮から落ち着かず、入り口側の席に座る女子二人組はひそひそと噂話を始めた。

「志村君、怒られるってわかって髪染めてるのかな」

「不良なんでしょ。髪で隠してるけど、ピアスしてるし」

「友達もD組の不良だよね。あの煩い人。ね、中学一緒でしょ、どうだったの」

「どうって言われても、全然喋んないからわかんないよ。ただ、小学校の頃……あ、やっぱやめとく」

「なに、ちょっと気になる。ちゃんと言ってよ」

「そこ、煩いよ! チョーク投げたろかッ」

 担任の怒りの矛先が自分たちに向いて、前後で噂話に興じていた二人は肩をすくめる。そうでなければ、このご時世であってもあの先生なら手に持ったチョークを本気で投げそうだからだ。

 当のケイゴはと言うと、噂されている事に気づいてもいない。彼は自分の手を見ていた。去年から着用しているブレザーは手首を袖で隠していて、相変わらず少し大きい。購入した時、店員に「いずれ背が伸びて、きつくなりますので」と言われた事を覚えているが、今のところその「いずれ」は訪れていない。教科書を詰めたリュックサックも、多少くたびれたが去年と同じものを使っていた。

 雲一つない空は今日も青く、そう簡単に日常は変わらない。

 

 日が最も高く昇った頃、ケイゴは校舎を後にしていた。聞き逃していたが、今朝のホームルームで今日は午前授業である事を説明していたらしい。

 桜並木をぼうっと眺めながら歩く。例年より遅れて咲いた桜の花がついに散り始め、花びらが頭に乗っているような気がして茶の髪を触った。

「ケイゴォ!」

 背中に投げかけられた大きな声にゆっくりと振り返った。遠くで手を振るのは、ぼさっとした黒髪が昔から変わらない幼馴染の瀬川せがわ達郎タツローだ。走るたびに肩下げの鞄が大げさに揺れて、彼の騒々しさを物語っている。

「追いついたぜ」

「下駄箱から走ってきたのか?」

「教室から、な。……ぜーっ、ぜーっ」

 途切れ途切れに言いながら膝に手をついて肩で息をしているが、大きくて丸い目でウインクして余裕をアピールした。教室からこの桜並木までそれなりに距離があるだろうに、何時もの事ながら呆れるほどのバイタリティだ。

「追試は?」

「ソッコー倒したぜ。どうだっ、俺が本気だしゃこんなもんよ」

 そう言って胸を張るタツローは背筋を伸ばしたが、それでもケイゴより少し背が低い。

「最初から本気出せよ」

「ばっかおめー、溜めてから本気出すのが、浪漫なんだろうが」

 なんだよそれ、と吹きだすと、タツローも軽口が通じたことが嬉しくて口角を上げた。

 変わらない平和な日常。昨日も、今日も、明日も。その日が来るまで、それがずっと続く。

 ……とは、限らない。ケイゴはそれを知っていた。


「なんだ!?」

 全身を駆け巡った「衝撃の予感」を理由にケイゴが驚きの声を上げた。彼が感じたのは目や耳で感じられる五感ではなく、これから訪れる危機に身震いするような感覚で、自分が道路の方角からきた何かに強い衝撃を受けると予感する。それはまさに第六感としか形容しようがなく、「ここにいてはいけない」と強い危機感を持った。ぶわっと吹きだした冷や汗と逆立つ鳥肌、悪寒と早まる鼓動が行動を急かす。

 よそ見していたタツローは、振り向くと同時に胸を押されて尻餅をついた。親友を突き飛ばした手をそのままに、ケイゴは目の前に迫ってくる黒い車に目を奪われる。車を運転する男性は、ハンドルをしっかりと握って眼鏡越しにこちらを睨んでいる。

「俺を狙っている?」

 状況に似合わない静かな声だった。ケイゴは内心の驚きをおくびにもださず、一見落ち着き払っているように見える。そんな親友を案じて、タツローは必死に叫んだ。

「逃げろ、ケイゴォ!」

 親友の心配はもっともだ。だが、彼は既に地を蹴っていた!

「何っ!?」

 運転手はその動きに驚愕する。ケイゴは一番近くの桜の木に手をかけると、リスのように素早く桜の木に登った。車の突進コースから外れるつもりだろうが、車がぶつかった衝撃は木を通してケイゴを襲う。強い衝撃は彼を木の上から追い出して、無慈悲にもその身を硬い地面に叩きつけるだろう。しかし、ケイゴは車が木にぶつかる直前に迷いなく自らの身体を空中に投げ出した。木を蹴った勢いそのままにまるで軽業師のように身体を折りたたんで一回転、自動車を飛び越えて受け身を取った!


 ――キィイイッ、ドッシャア! 衝撃的な光景と大きな音が呆然とするタツローの脳を揺さぶった。桜の木に激突した黒い自動車は、飛び出したエアバッグがいっぱいに膨らんでフロントガラスを埋め尽くしている。少しずつ正気を取り戻したタツローがようやくケイゴを見ると、彼は不思議そうに車を見つめていた。

「タツロー、怪我無いか」

 視線を寄越さずに言う。タツローは口より先に首が動いて頷いた。

「あ、ああ。……って、どう考えても、危険なのはお前の方だろ……」

「さあ。そうかもな」

 事もなげに言うケイゴからは怒りや恐怖の感情は微塵も感じられない。まるで自分が狙われたという衝撃的な事実でさえ、遠い過去の他人事のようだった。

 しゅーっ、という空気が抜ける音がしたかと思うと、車窓を埋め尽くしていたエアバッグがしぼんでハンドルの中に吸い込まれていく。そして、運転席から男性が姿を現した。ケイゴは、地面に残ったブレーキ痕と衝撃の直前の甲高い音から、一応運転手の男性がブレーキを踏んでいたことには気づいていた。だが、直前に感じた明確な殺意と実際に起こった衝撃の強さは、何かを覚悟した捨て身の攻撃だったように思える。運転者である彼も無事であるはずがないが、そこに佇む彼もまたケイゴと同様に怪我一つなかった。彼が身に着けている灰色のスーツと腕時計は気品が漂い、少年二人にはその相場がわからないが、どちらも質の良い高級品、ブランド物であるだろうことは察しがついた。細長い顔は眼鏡の奥の目つきが鋭い事もあり、堅物の印象を与える。

 男は眼鏡のズレを指先で直した。

「志村ケイゴ君だね」

 抑揚の少ない声は不機嫌な印象を与える。鋭い視線はケイゴを品定めするように観察した。

「そうです。こんにちは」

「いや、律儀に挨拶しなくていいんだよ」

 怪しげな人物を前にしてもケイゴは全く気後れしていない。そんな彼の呑気な挨拶を見た親友が反射的にツッコミを入れた。

「危ない真似をしてすまなかった。だが、尋ねてもいいかな。何故かわせた? 時速80キロの自動車の突進だぞ。普通は逃げられない」

「さあ。けど、なんだか危ないような気がしたんだ」

 とぼけているわけではない。あの瞬間、確かに危険ながした。この場所で起こる、強いの予感が。

「直感、と呼ぶべき感覚。または予感。襲い来る衝撃を感知し、キミは友人を突き飛ばして、自分は回避するために身を躍らせた。そういうことかな」

 ケイゴは返事をしなかった。相手はそれを無言の肯定と受け取る。

「そうか。本物ホンモノだな」

「て、てめえっ! さっきから、何をぬかしてやがるッ」

 一人納得する男であったが、納得のいかないタツローが横から騒ぎ立てた。

「黙って聞いてりゃ、わざとぶつかろうとしやがったってことかよ! 信じられねえ悪野郎ワルヤローだぜ。待ってろ、すぐにお廻り呼んで、慰謝料ふんだくってやる」

 がなり立てたタツローが鼻息を荒くしてスマートフォンに手を伸ばす。ところが、それに手を被せて静止したのは意外にもケイゴの方だった。

「待てよ、タツロー。話はまだ終わってない」

「話ってお前、こんな奴と」

「目的があったんだろ」

 彼があまりにブレずに会話を続けるのでタツローはつい口を閉じた。食いしばった歯の隙間から、ぐぎぎ……と、悔し紛れの声が漏れている。

 ケイゴはずっと眼鏡の奥の瞳を見つめていた。事故を起こした動揺も、危険にさらしたことを悪びれるつもりのない、何かを決意した男の眼。その瞳の光が何かの予感をもたらしている。

 男が眼鏡に手を当てると四角いレンズが逆光した。表情が消え、ただ固い意志だけを顔に貼り付けている。

「志村ケイゴ君。私と共に来てくれないか」

「わかった」

「待てよ!」

 即答。となれば、彼に代わって異議を唱えるのはやっぱりタツローだった。一度は閉じてしまった口を再び開く。

「てめーっ、いい加減にしやがれ! 事故の次は誘拐だと!? 犯罪のオンパレードだろうが。逃げろ、ケイゴ! こんな奴の言いなりになるこたぁねえ、俺が相手に」

「タツロー」

 今にも掴みかかりそうなタツローをやはり静かな声が止めた。呆気にとられた親友とすれ違いざまに、一言だけ付け加える。

「行ってくる」

「え」

 一瞬、何を言われたのかわからなかった。少しして、「お前を置いていく」と言う意思表示であることに気が付き、タツローは言葉を失った。それでも何か、何か言い返したかったが、口をパクパクとしているうちにケイゴは助手席に乗り込んでしまう。

 間もなく動き出した黒い自動車が勢いよく下がってきて、タツローはまた尻餅をつく。一瞬だけ見えた車の顔は桜の木と衝突したはずなのに不自然なほど綺麗で、この場所では何事もなかったかのようだった。

 走り去る車を呆然と見送る。風が強く吹いて桜の木を揺らし、しなる枝と桜色の葉が擦れてわさわさと音を立てて無様な少年を笑った。

「こりゃ、夢か?」

 弱気な言葉を掠れた声で呟く、そんな自分が情けない。膝が震えて自分自身さえ嘲笑う。

「……いいや」

 その時、頭上でミシミシと音が鳴った。タツローを笑っていた桜の木は、車の衝撃と強風に耐え切れず自重によって倒れようとしていた。

 それどころではない。俺は今、何をされた? こみ上げる怒りが力強い鼓動に変わり全身に無限のエネルギーを送り付ける。腹の奥、きっと魂のようなものが熱を帯びて膝の震えが止まった。

「夢にさせねえ!」

 大きな音を立てて木が倒れると一斉に桜の花びらが舞った。背の低い彼は舞い上がる桜色の幕に隠れてしまう。

 それどころではない。こんなに情けない自分は許せない。立ち上がって拳を握ると、一枚の花弁を掴んだ。

「待ってろよ、ケイゴォ!」

 言うが早いか、彼は駆けだしている。舞い散る花びらが視界を塞いだが、勢いそのまま桜の壁を突き抜けていった。


 ☆☆☆☆☆

 

 道路を行く車は眼前に日本一高い山、富士山を捉えている。遠目に見れば麓の青と峰の白が目を引く美しさが幻想的だ。だが、そこに近づいていくほど無数の樹木と急な斜面が延々と続く残酷な自然の世界が広がっていく。近辺に暮らすケイゴにとってこれは珍しい光景ではない。ただ、この容赦のない世界になんとなく目を惹かれて車窓を眺めていた。

「聞きたいことは無いのか?」

 運転席の男を見る。彼は声をかけた側にもかかわらず、人好きのしない固い表情のまま前方を見据えていた。

「じゃあ、名前教えてください」

葛村カツムラ宗次そうじ。42歳」

「ふーん、カツムラさんか」

 相手の意図を無視した質問の提示に加えて回答に対する反応の薄さ。会話はすぐに打ち切られ、車内が再び静まり返る。

「……君自身の現状について知りたくないのか、と聞いたのだが」

 少し間を置いてカツムラが再び口を聞いた。今度は少し具体的に質問を誘ってみるが、彼は食いつく素振りを見せない。

「さあ。どうせ、これからわかるんだろう」

 素っ気無く答えて外に視線を戻してしまう。

 カツムラは横目で少年を盗み見た。強引な誘いにも関わらずこちらに悪印象を抱いていないのは好都合だが、あまりに自分の立場に無頓着だ。「不思議な少年」で印象を片づけるには何か言葉が足りない。

 それきり二人は黙りこくった。どのみちおしゃべりが得意な二人ではなかったのである。


 鏡界獣の最初の出現は、今から5年前の出来事であった。

 二足歩行ロボット兵器の軍事利用が実用的になりつつあった世界は、自国が保有する自慢の兵器で鏡界獣の迎撃に当たる。しかし、それは想像を絶する過酷な戦いの幕開けだった。

 ダメージを即座に再生してしまう鏡界獣を撃破するには、ほとんど一瞬で全身を破壊するしかない。そのために戦術核の使用に踏み切った例もある。また、鏡界獣を映し出すは時間の経過で自然消滅する傾向があったが、どれだけ長く存在し、何体の鏡界獣を送り込んでくるのかは未知数であった。そして、鏡本体に通常火薬兵器は全く効果が無い。鏡が自然消滅するまで、成す術なく鏡界獣は現れ続けるのである。

 度重なる鏡界獣の襲来。増え続ける犠牲者と破壊されたいくつもの街。世界中が戦いに疲弊しきった頃、救世主は現れた。当時、日本の高校生だったパイロットと彼の父が残したというスーパーロボットは、砕力アストラルフォースと呼ばれる特殊なパワーによって鏡界獣に再生不可能な攻撃を加え、鏡を直接破壊してみせた。愛機のスーパーロボットと共に成長したその救世主は、多くの戦いを経て対鏡界獣のシンボルとして国際社会に認められることになる。そして、砕力を対鏡界獣への用途に限ることを条件とし、世界中にその力の一端を分け与えた。

 現在、各地で発生している鏡界獣と鏡による被害は著しく減少している。同時に、兵器開発に夢中になり他国を威圧してばかりだった世界情勢が嘘のように平和を取り戻した。共通の敵と、一人の英雄の存在によって。

 そんな神話のような出来事がつい数年前にあった。

 ところで、砕力については未だ謎に包まれている部分が多い。電力に似た実態を持たないエネルギーでありながら、物体や人間が纏って光を放つ不思議な特性も併せ持つ。そして、鏡界獣には毒の様に作用し、武器を伝って流し込むことで体の再生を無効化できる。エネルギーを砕力に変換する装置はいくらか増産されたものの、どれも持続力やエネルギー量に問題を抱えていて改良にはまだ時間を要する。件の英雄でさえこの力を完全に把握できておらず、だからこそそれを研究する機関が世界各地に存在する。

 ケイゴが連れてこられたこの『富士砕力研究所』もその一つだった。創設時、大きなニュースにもなったこの施設は、富士山を背中にそびえ立つ『本棟』の他に、第二、三、四、五研究棟、兵器工場、訓練施設、研究員や常駐の兵士が生活するための宿泊施設なども併設している。その広さは7.8平方キロメートルを誇り、その外周を頑丈な鋼鉄の壁が囲っていた。入口となる南側の外壁、その角の部分には用途不明の黒い突起が天に向かって伸びている。落雷の被害を防ぐ避雷針のようだとケイゴは思った。

「見える範囲にはないが小さな畑もある。ある程度自給自足ができるようにな」

 外を眺めているとカツムラが横から注釈を加えた。

「小さな町、いや、国みたいだ。それで、あの大きな建物が城」

 ケイゴが指をさしたのは研究所本棟だ。白く、高くそびえたつ建物は、敷地内の数多の建築物の中でも一際大きく、存在感を放っている。まさしく城の様であるが、外壁は鋼鉄で出来ており角ばったシルエットは遊びの少ない印象を受ける。

「そうか。だとしたら、キミはだ」

「……?」

 意味深な言葉に首を傾げたちょうどその時に車が停車した。だだっ広い地面に一台分の白線しか引かれていない不自然な駐車場だ。カツムラは車内モニターを操作して連絡を取る。

「俺だ。最下層まで頼む」

『了解しました』

 女性の声が車内に響く。すると、ガコン、と、車が揺れて視界が地下に潜っていき、ケイゴはやけに広い空間の意味に気が付いた。

「エレベータか」

「フ。少しは驚いたか?」

 少年がようやく驚いた表情をすると、カツムラは少しだけ笑った。


 明滅するライトが車内を照らしては通り過ぎていく。やがてエレベータが止まって眼前の壁が開いた。眩しい照明を正面から受けてケイゴは目を庇う。ところが、眼前に飛び込んできた驚くべき光景に眩しさを忘れて目を見開いた。

「なんだ、これは……!?」

 そこに居たのは、鋼鉄でできた『翠の巨人』だった。

 みどり色の装甲が照明の光を反射して煌いている。頭部は西洋騎士が着用する兜を模しており、オレンジ色のアイラインが目を引いた。ここに吊るされている上半身は整備を受けている様子だが、両腕と下半身はここから見える範囲にはない。

 強い衝動がケイゴの身体を突き動かす。ゆっくりと動いている車が停車するのを待てなくて、助手席を飛び降りて巨大ロボットに駆け寄った。宙に吊るされている巨体はすぐ近くに見えていたが、大きさに距離感が狂わされてなかなか間近にはたどり着かない。ようやく足を止めて見上げると、翠の巨人は静かにケイゴを見下ろしていた

「でっけぇ」

 思わず漏れたのは、正直な感想だった。起動科の授業で操縦したことのある作業用の二足歩行ロボットは10メートル級が一般的だ。世の中には20メートル級の大型のものが存在するらしいという話は聞いたことがあるし、実戦で活躍する軍用機のほとんどが20メートル級であるということも知っている。ところが、目の前の鉄の巨人は上半身だけでも20メートルある。その体躯から発せられるすさまじい威圧感にケイゴはただ圧倒された。

 駆け付けたカツムラの声を遥か遠く聞いた。彼の声だけではない。周囲を慌ただしく行き交う人間の気配、遠くでする金属と金属がぶつかる音、照明の眩しさ。全てが遠い世界の他人事のように感じる。この耳が拾うのは必要以上に強く脈打つ自らの鼓動の音。そして、この瞳に映るのは目覚めの時を待つ翠の巨人だけ。この瞬間、ケイゴは己と翠の巨人以外を世界の外に追い出して、二人きりで意識が通じ合う感覚を覚えていた。

「流石の君もこの機体は恐ろしいか?」

 肩を叩かれて正気に戻る。いつしか頬を伝う汗を拭い、目を細めて口角を上げた。

「どうかな。けど、ワクワクするよ」

「大した肝の据わり様だな」

 カツムラの呆れた表情には僅かに笑みが混じる。怖気づかれるよりは見込みがありそうだと内心期待が高まった。

「これこそ、君をここに連れてきた理由だ。この機体の名前は――」

「待て! なんだ……?」

 その時、頭痛のような感覚を覚えるとともに鈍い悪寒がケイゴの身体を駆け巡る。遥か頭上に何かが来る、そんな予感を覚えて天を見上げた。

 言葉を遮られたカツムラが怪訝な顔をする。だが、彼が纏う緊張感に意識を引っ張られてその視線の先を追った。二人の頭上には無数の鉄橋や階段がかかり、地下十三階に位置するこの場所から天井はほとんど見えない。そうでなくても、至る所からぶら下がった照明が眩しく光り視界を阻害する。カツムラは片手で影を作ることで目を守ったが、何かに強く惹かれているケイゴはそれもお構いなしに見上げ続けて、その感覚の正体を必死に探ろうとしていた。

「どうした? 何か……」

 

 ヴーッ! ヴーッ!


 カツムラの言葉を再び遮ったのは、焦燥感を駆り立てる大きなサイレンの音だった。研究所内でのアラート音にはいくつかのパターンがあり、ある程度の用途に合わせて音を変えている。この音にも意味があり、それを知るカツムラは「まさか」と呟いて顔を青くした。

『鏡顕現! 鏡顕現! 緊急戦闘配備! 屋外に居るものは即時研究所本棟または地下シェルターに退避せよ。繰り返す。鏡顕現、緊急戦闘配備!』

 放送を聞いた職員たちは作業工程を即刻中断し、自らの使命を果たすため走り出した。カツムラもまた、端末を手に状況の確認を行う。

「早すぎる。前回の顕現から一週間だぞ」

「カツムラさん。コイツの出番じゃないのか」

 ケイゴは翠の巨人を見上げている。この機体に乗せろと言っているのだろう。しかし、カツムラは首を横に振った。

「無理だ。あの機体は適性のあるパイロットしか操縦できない」

「俺にその適性があるんだろう」

 説明もしていないことをあっさりと言い当てる。状況を考えれば当然の帰結かもしれないが、それが何を意味するのかこの子はわかっているのか?

「君の言う通りだ。だが、今は乗せるわけにはいかない。然るべき訓練を修了していなければ、軍人でもない君を作戦に加えるわけにはいかない」

 自然な道理を根拠に提案を拒否すると、ケイゴの瞳がすっと動いてカツムラを真っすぐ捉えた。間違った事を言っていない自信がある。だが、少年の黒い眼が自分をじっと見つめると、自らの意思が追い詰められていくのを感じた。

「正しい道理だ。だけどね、カツムラさん。道理は人の命を守らない。道理が守るのは心だけだ。残された人間は、道理を守って死んだ人間のツケを永遠に払わされる」

 その言葉には、年若い少年の口から出たとは思えない凄みがあった。

 彼は何を言っているのか。年若い少年が、軍人である自分に何を説く? 鼻で笑ってやることもできるはずなのに、少年の瞳に映る自分の表情が強張っていた。

 少年の身辺を自ら調べたカツムラは、その言葉のルーツに思い至る。事前に掴んでいた情報を、文字の羅列ではなく生きた人間の迫力として実感した瞬間だった。

 志村圭吾ケイゴ。彼を普通の少年と呼ぶにはあまりにも肝が据わりすぎていた。緊急事態下で発揮される彼の独特な威圧感に動揺し、思わず生唾を飲む。迷うだけの時間は無駄だ。合理的な思考を是とし最も勝率が高い選択肢を選ぶ。それが葛村カツムラ宗次のやり方だった。

「わかった。手配しよう」

 逡巡の末決断し、ゆっくりと頷く。少年は目を細めて微笑んだ。

「任せてくれよ。俺は誰も死なせない」

 屈託のない笑顔は間違いなく子供の物だったが、その裏に潜む狂気じみた覚悟が微塵も見えないのが逆に不気味に見えた。それでも、彼に賭けるしかない。駆けだすために踏み込んだカツムラだが、最後にもう一度振り返った。

「言い忘れていた。この巨人の名は翠の巨人エメーラ。人類の盾であり、この研究所のだ」

 走り去るカツムラを見送ってケイゴは再び翠の巨人を見上げる。待ち焦がれた時が遂に訪れるのだ。まさかこんな形で実現するとは夢にも思わなかったが、これも運命なのだと確信できる。

翠の巨人エメーラ……」

 小さな呟きは誰が拾う事もなく喧騒に飲み込まれ、頭上で吊るされている翠の巨人も沈黙を貫く。それでも、強く感じる戦いの時こどう翠の巨人エメーラにも伝わっていると信じた。

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