プロローグ
ぼくは人に好意を抱けない異常者だ。
この世に生を享けて三十年経つというのに。
人を好きになれないままに小学校を卒業し、中学校の三年間も周りは恋人を作ったり、ませた奴はセックスしたことを自慢げに語る。いちばん困ったのは、修学旅行の夜だ。恋バナに花を咲かせているのを尻目にぼくは、興味がないからと格好つけてそそくさと寝ていた。鼻で笑われている自覚はあった。
仕様がない。クラスのマドンナと呼ばれる娘がいようと、学年一の美人と称される人であろうと、学校一の美貌の肩書きがあろうと関係ない。
美醜はぼくにとっては記号でしかない。
高校に進学すると恋愛話はさらに身近なものになる。思春期の真っ只中だから仕方ないとは言え、口を開けば、「彼女欲しい」だの「○○組の何某がすげえ可愛い」などと言う。それに呼応する者もいれば、面白がって根も歯もない噂を聞いてもいないのに言い出す者。その話に便乗する者、噂を真に受ける者。観察する分には興味深いけれど、自分がその輪のなかにいることは想像出来なかった。
ぼくはひとり、教室の隅で小説を読んでいるしかなかった。
それでも干渉してくる奴はいる。正直に言って、鬱陶しかった。そっとしておいて欲しいのに。
あたりまえのように恋愛が出来て、「彼女が出来た!」「告ったけど、振られた」「彼氏と昨日、別れたんだよねえ」と気持ちを共有する姿は傍から見ていて羨ましかった。
なかには「彼氏に浮気されたんだけどー」と莫迦みたいに大きい声で言う女子を見掛けたときは何故そのことを大々的に表明するのか、不思議で仕様がなかった。
この世に理解出来ないことはたくさん存在するが、彼女の発言はそのひとつだ。
そんなぼくの人生にも告白の機会は五回はあると思う。
安心してくれていい、全員おんなの子だ。
一回目は高校三年生。その娘は委員会がおなじ−−図書委員だった−−で、昼休みや放課後に当番が一緒になることが多かった。定期的に顔を合わせていると自然と会話するようになる。はじめこそぎこちないが、次第に弾み、楽しくなってくる。しまいには一緒に帰ったりするようになる。そこで彼女は勘違いしたのだろう。いつものように本の整理をしていると、ぼくに好きですと思いの丈を伝えてくれた。
当時の心境を思い出せと問われたら、無理だと即答出来る。
何故かって? 頭が真っ白になり、なんと答えたかまったく憶えていないからだ。
ただ振ったことだけは確か。どのようにして振ったかまで憶えていないだけ。
非道いことを言ったのだろう。彼女と当番が被る機会はその後、訪れなかった。
ずしり、と重石のようなものがぼくの心に乗っかった感じがした。
重苦しい感情を抱えて、大学に進学した。
大学はさらに恋愛に比重を置く人間が多かった。恋人がいることがステータスみたくなっていた。高校も大学も友達はそれなりにいたから、孤立するようなことはなかった。こう言うと、なんだこいつ、大学はぼっちだったのかと疑われそうなので釈明させて戴きたい。友達はいた。しかしその友達は一ヶ月もせずに恋人を作って、遊んでくれなくなった。
孤独を強いられたタイミングに文芸サークルに誘われた。みっともないぼくを見兼ねたのだろう。読書は好きだったし、大学に行ってからは読書量は二倍に増えた。ひとりで読書に耽っている姿を目撃した部長がぼくを誘ってくれた。
素直に嬉しかった。安住の地を見つけたような気がした。サークルメンバーはみんな優しく、深夜まで好きな小説をファミレスで語り明かしたり、各々の家に集まって、バカ騒ぎをする様は青春の一頁そのものだった。
サークルに馴染み、徐々に人間関係を構築し出した頃に二個上の先輩と仲良くなった。理知的で大人の女性を体現した人だった。彼女は部長と付き合っていて、サークル内で毎日のように冷やかしを受けていた。ぼくも面白がって、冷やかしに参加していた。
いつものようにファミレスで各々が推薦する小説のプレゼン会をしていた。最後に部長が、重大発表があると深刻な顔をして言い出した時、メンバーは嘲笑していた。それもそのはず、部長と先輩が別れたことはサークル内に既に周知だった。吹聴したのは他の誰でもない先輩だった。
部長は唖然とした顔で先輩を見詰めていた。円満に別れたわけではないから、空気は最悪だった。なし崩し的に会はお開きとなり、散会した。平素は割り勘なのだが、何とも言えない空気を作出してしまった本人が責任持って全額支払った。
ぼく以外、方向が一緒。ひとりで帰り道を歩いていると、先輩が声を掛けて来た。びっくりした。こんなこと今までなかった。
「どうしたんですか?」ぼくは尋ねた。
「背中から哀愁を漂わせていたから、つい」先輩は言った。「ネギくんをひとりにするのなんか申し訳なくてさ」
サークル内でぼくはネギくんと呼ばれていた。「根岸」だからネギ。
「ひとりで帰るの慣れっこです。それよりいいんですか?」
「何が?」
「部長と別れたのにぼくなんかと帰って」ぼくは言った。
「可笑しいなことを言うね。さては、蟠りを気にしているな?」先輩は言う。
そうなのだろうか。どちらか言えば、先輩の評価が落ちないか心配だった。ぼくみたいな人間と一緒にいても好感度は下がる一方だ。先輩みたいに陽の光を浴びる存在と日陰を探し求めて歩いているようなぼくが並んで歩いていいはずがない。何よりぼくがそれをいちばん熟知している。
「気にしてないです」強がってしまうのは悪い癖だ。「先輩こそ、ぼくと帰るの拙くないですか?」
「どうして?」先輩は言う。目線の高さは平行だ。「自分のような人間といるとあたしの評判が下がると思い込んでいるな?」
見透かされている。
「ネギくんといたいと思ったから、こうして帰路をともにしているんだ。外野がうだうだ文句を垂れることではないよ。あたしは自分を尊重している」
「部長と付き合っていたのもですか?」好奇心から尋ねる。
「どんな人間か興味があった、それまでかな」先輩は言う。
どんな人間か興味があったか……。ぼくと真逆もいいところだ。
「ネギくんはそういう人いないのかい?」顔をぐっと近づける。異性にこんなことをされた経験がないぼくは後退りしてしまう。先輩はそれでも笑ってくれる。
ひょっとしたら、先輩は他人に好意を抱けない、恋愛対象にならないぼくのような人間でも受け容れてくれるかもしれないと思った。
ものは試しと思って、打ち明けてみることにした。
すると先輩は、ぼくの手を握り、大切なものを扱うみたいに優しく包み込む。
「ドキドキしない?」
「……しないです」嘘を言っても仕様がないのでぼくは本心を口にする。
「そうか」先輩は握ったままの手を自分の頬に当てる。「ネギくんは、どうしたいの?」
「どうしたいとは?」
「あたりまえのように恋愛をしたいとか、そんな感じの」先輩は言う。
「経験してみたいと思いますけど、自分はあたりまえが出来ないんです。みんなが普通にしていることが。だから自分は向いていない。先輩もぼくに構うだけ時間の無駄です」
「時間の無駄かどうかはあたしが決める」先輩は言う。「じゃあさ、デートしてみない?」
先輩は妙案を思いついたみたいな顔をする。
何を言い出すかと思えば、尤も無縁なイベントではないか。冗談は顔だけにしてもらいたいものだ。しかし先輩は本気だった。本心からぼくとデートに行きたいようだった。
「ぼくと行っても楽しくないですよ。それよりだったら、別の人と行くべきです」
「それを決めるのは貴方ではなく、あたし。そしてあたしではなく貴方」
どうしたいか。
「好きじゃない人とデートに行くのは誠実じゃないと思うんです」
「真面目だね。気楽に考えてよ。デートと言わずにお出かけならいい?」
「遊びに行く感じですか?」
「その認識でいいよ。それだったら、いいでしょ?」
確かに。気持ちが軽くなった。難しく考え過ぎないほうが良いことを知った。
「そうですね。たまにはいいかもしれません」ぼくは言った。
「そうこなくっちゃ!」先輩は破顔する。帰り道にデートの予定を組む日がぼくの人生に到来するとは思っていなかった。思い掛けない出来事が人生は起こる。
お出かけは楽しかった。先輩がリードしてくれたことも大きかったけれど、自分の意思で動くのも悪くない。自分のしたいことは積極的に行動に移したほうが楽しいし、視野が広がる。
それから何度か先輩とお出かけをした。
先輩は色々なことをぼくに教えてくれた。
そのひとつがキスでありセックス。
気持ちいいと快楽から大きく懸け離れたものだった。
「アロマンティック・アセクシャル」先輩はぼくの頬を撫でながら耳馴染みのない単語を口にした。先輩の家に何度も訪れているのに、緊張感は解けない。
薄闇の部屋に裸の男女がおなじベッドにいるのは何も不自然さはないというのに、違和感は拭えない。
「何ですか、それ」ぼくは尋ねる。薄茶色の瞳がぼくを映し出す。
「ネギくんみたいな人をそう言うらしいよ」
「ぼくみたいな人?」
「他者に恋愛感情、性的欲求を抱けない人」先輩は言う。「ネットで調べてみたの。そしたらヒットした」
「調べたんですか? わざわざ」
「名前があったほうがネギくんも腑に落ちるかなと思ったんだけど、余計だった?」
「そんなことないですけど、お前はそうだと宣告されても受け止められないと言いますか、受け容れらないのが今の心境ですね」
「そうだよね。ごめんね、変なこと言っちゃって」先輩は寂しげな表情を見せた。「続き、しよっか」
先輩とはそれからも肉体関係が続いた。何度しても気持ちいいとはならなかった。
ある日、サークルメンバーに先輩との関係を言及された。ぼくは何も言い出せなかった。付き合っているわけではない。でもそんなことは言えない。身体の関係と言うのも憚られる。どっちつかずの関係はよろしくない。結局、有耶無耶にしてしまいサークルメンバーに冷ややかな視線を向けられるようになった。
関係も進展しないまま先輩は卒業した。
卒業式のあと、先輩と会う機会があった。いつものように先輩の部屋で、ぼくらは寝た。いったい何をしているんだろうと思いながら及ぶ行為ほど虚しいものはなく、気持ちよさそうに喘ぐ姿の先輩を見ても興奮はしない。
ときめくものがない。ただ流れ作業のようにセックスをする。何の役に立たない精液を受け止めるコンドームはどんな気持ちだろう。無為に浪費するだけの精子たちはぼくを恨んでいるだろうか。生産性のない奴めと罵っていないだろうか。将来性の薄いぼくを心底毛嫌いしていそうだ。
「きょうで最後だね」先輩は変わらない笑顔をぼくに向けてくれる。先輩は誰とも付き合わなかった。告白されたことを報告しては、聞く前に断ったのを教えてくれる。ぼくに気を使わずに好きな人と付き合えば良いのにと話すと、先輩はネギくんが大事だからと言って聞かない。
「最後、そうか、先輩、就職先地方ですもんね」ぼくは言う。先輩は地元に帰るのだそうだ。本当は東京で就職するつもりでいたらしいのだが、家の事情でそうは行かなくなってしまった。
「思う存分、ネギくんを堪能したいと思ったの」先輩は言った。「もう会うこもともないだろうし」
「会うこと」
「ネギくんは明日からあたしがいない世界を生きることになるんだよ」
そんな会話を最後にした。先輩の温もりと吐息と感触を忘れないよう、ぼくは心に決めた。
「好きだったの、その先輩?」
「どうなんだろう、人間として好きではあった」ぼくは言う。
「付き合っているわけではないんだし、そんなものなのかな?」彼女は言う。夜空に満月が煌々と輝いている。「先輩は今、どうしてるの?」
「知らない」ぼくは言う。連絡は取り合っていない。変に近況を聞くのも無粋だし、最後だねと言われた身としては安易に連絡することは憚られる。最後と言ったのもぼくに会うことがないのを彼女自身知っていたからだろうし。それで女々しくするのも見窄らしいというか、ださい。
何より、付き合う気がない相手と関係を続けたところで意味がない。男女の友情は成立しないことをぼくは身を持って知った。
「先輩以外に素敵だなと思う女性はいたの」フランクに彼女は言う。
「人間として魅力のある女性はたくさんいる。でもぼくはこのとおり、恋愛感情を抱けない。恋人関係になりたいとそもそも思わないし、考えないよ」
「話を聞く限り、先輩に好意を抱いているようにわたしは感じたけど?」
「傍から見たらそうかもね。断じて、そんな関係じゃない」ぼくは両手を広げる。「先輩はどうだったか判らないけれど」
「先輩に再会出来たら、どうする?」意地悪な質問をする。ぼくをテストしているみたいだ。
「どうもしない。幸せでいてくれたらいいよ」ぼくは答える。期待に添えているかは知らないけれど。
「幸せかぁ」彼女は伸びをする。日頃の疲労が蓄積しているのだろう。会う度に仕事の愚痴を聞かされる。彼氏がいるのに、呑気に他のおとことお酒を酌み交わしていいのだろうか。彼氏に会っているのが露見して、ぼく、殺されないか心配だ。「幸せってなんだろうね。仕事は充実しているし、プライベートも気に入ってる。学生時代の友達と他愛もないことを話す機会も楽しい。これ以上、何を得ようとしているんだ、人類は!」
「そうだね。細やかな日常を生きるだけでも十分に幸せだ」自分が感じる幸せが何よりの幸福と言える。人類の幸せは底が見えない。幸福の尺度も個人で異なる。果てがないのは確かだ。
「ネギくんにとっての幸せはなに?」彼女は訊く。
ぼくにとっての幸せ。
なんだろう。
生活に困ることはない。家族も元気だ。学生時代の友人は結婚をして自分の家庭を作って、家族が増えたことをSNSにアップしているのを見ると、羨ましく思う時もあるけど、自分は出来ないのを知っている。仮初の家族は作れるだろうけど、まやかしの家族をぼくが受容するかと言われれば、しないと答える。
家族のありかたが変わりつつある昨今。集団生活そのものに懐疑的になっても良さそうなものなのに、人間は怠惰に集団生活を続けている。そうしないと、アイデンティティを保てない。居場所を明け渡すなんて考えられない。
意地になってしがみつく。馴染もうと必死になる。幻想に過ぎないと言うのに。集団幻想に支配されてしまっているのだ。
だからこそぼくは嘱望してしまう。
あたりまえというものに。
出来ないことを出来るようにするために。
無駄と思えることが無駄ではないと証明しないと行けない。
ぼくのような人間は。
「掛け替えのないパートナーを見つけることかな」そう言うと彼女、
「ネギくんにしたらそれが最大幸福かもね」
三十年間誰にも恋をしたことがないぼくが誰かに恋心を抱く日が訪れるのだろうか。
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