14 行き違い入れ違い勘違いすれ違い
美術室が水を打ったように静まり返った。
「どういうことだ?」
小さく呟いた木島が篠原先輩を見る。それから俺を見て、理解できないという顔で眉を寄せた。
「部長、何か知ってるんですか?」
首を傾げた柴本が篠原先輩の顔を覗き込む。
誰にも気付かれないように小さく息をはく。
「今日の放課後、この部屋にペンキを
「は?」
木島がぱかりと口を開けた。柴本が俺と篠原先輩を交互に見ながら何度も瞬きをする。
「え、と、え? つまり、写真部に嫌がらせをした犯人は篠原先輩、ってこと?」
呆気に取られた顔のまま、柴本が「なんで?」を繰り返す。木島が首を振った。
「いやいや、おかしいだろ。なんでうちの部長が自分の部室に嫌がらせ仕掛けんだよ。意味がわからん」
「だからいったろ、これは嫌がらせじゃないんだって」
何と説明したらいいのか考えながら言葉を選ぶ。
「先輩はある写真を誰にも見られないように隠したかったんですよね。だから塗り潰そうとペンキを撒いた」
できるだけ丁寧に声をかけたつもりだが、篠原先輩は俯いたままだった。
ぱしんと軽く机を叩く音が響く。左手を机に乗せた木島が俺を指した。
「いや、それもおかしい。確かに篠原先輩は厳しい人だし、怒るとめちゃくちゃ怖いけど、作品にはまっすぐだ」
木島の言葉に柴本も力強く頷く。
「うん。言い方がキツいし、かなりデレが少ないツンデレだけど、写真にはいつも真剣に向き合ってる。たとえ失敗作でも塗り潰すような真似はしない」
ぴくりと篠原先輩が反応した。後輩たちよ、それはフォローのつもりかい?
「篠原先輩の事情はわからない。だけど今日の放課後、この場所にペンキを撒くことができたのは篠原先輩しかいないんだ」
断言する俺に、篠原先輩がゆるゆると顔を上げた。
「黙って聞いてれば」
拳を握りしめたまま俺を睨みつける。声が小さく震えていた。
「勝手なこといわないでよ。私がこんなことするわけないじゃない」
「では、先輩は誰がやったと思いますか?」
篠原先輩がはっと息を
「ペンキが撒かれたこの状況を見て、木島はすぐに石上を疑った。柴本ですら、写真部にこんな嫌がらせをするのは美術部くらいだといいました。写真部と美術部の対立は部員の間ではそれくらい明確だった。ですが篠原先輩は、一度も美術部が怪しいとはいわなかった」
木島、石上、柴本の三人が顔を見合わせる。
「犯人が美術部ではないことを知っていたからじゃないですか?」
篠原先輩の肩が震える。俺は篠原先輩をよく知らないけれど、この人はたぶん、嘘がつけない人だ。
だからこそ、事情があるならちゃんと話した方がいい。間違いがあるなら、謝るのは早い方がいいと思うから。
「先輩は何らかの事情で写真を隠そうとした。でもね先輩、ここに散らばっている写真は篠原先輩の作品じゃありません」
「え?」
篠原先輩がぱっと顔を上げる。「そんな、それじゃ、やっぱり私」と呟くと真っ青な顔でペンキまみれの写真を見下ろす。
そういえばと木島が呟いた。
「この塗り潰されてる写真って誰の作品なんだ?」
柴本も首を傾げる。
「確かに。ペンキばかりに気を取られて、どんな写真なのかちゃんと見てなかった」
「写真部の作品じゃないのか? 昔のやつとか、いくつかは部室に残ってるだろ」
石上の問いに木島が首を振った。
「過去の作品は保管してるけど、ほとんどが奥の作品倉庫の中だ。展示が終わった後は滅多に取り出すことはないし、部外者が簡単に出入りできる場所じゃない。鍵はかかってないけど、一応、写真部以外は立ち入り禁止だ」
柴本も頷く。
「古いやつじゃなくて、最近新しく焼いた写真だろうな。今日この部屋にあった写真のどれかだと思うんだけど」
「美術部の写真は真木さんが持ってたから、新聞部か写真部のやつか? ん? 新聞部の写真は松本先生が持ってるんだっけ? なんでだ?」
写真部の二人が顔を見合わせて首を
「ここに散らばってるのは松本先生の写真だよ。柴本が現像した」
「うえ!?」
柴本の声が裏返った。すまんな友よ。残念だが、これが事実だ。
慌てる柴本から篠原先輩に視線を移す。
「篠原先輩、この写真を入れていた封筒がありましたよね。その封筒は青色だったんじゃないですか?」
篠原先輩が
「それ、俺が松本先生の写真を入れた封筒だ」
ぽつりと呟く柴本の声に、篠原先輩が泣きそうな顔になった。
「なんで、篠原先輩が松本先生の写真を?」
理解不能といった様子で木島が呟いた。それだけ信じられない事態なのだろう。写真にはまっすぐに向き合っているという篠原先輩の普段の人柄がよくわかる。
「たぶん、篠原先輩はこれが松本先生に頼まれた写真だとは知らなかったはずだ。少なくとも、ペンキに手をかけた時点では気付かなかった。先輩はこれが自分の写真だと思ったからこそ、誰かの手に渡る前に急いで消してしまおうとした」
全員の目が俺に向けられる。それぞれの視線がどういうことだと訊ねていた。
息をはいて肩をすくめる。
「はじめから説明するよ」
「今回の事件は、ちょっとしたミスと行き違いが重なって生まれたんだ。まず、木島のスパイごっこ」
「俺?」
自分を指差した木島に頷き返す。
「写真を封筒に入れた木島は、それを部屋の中央の机に並べた。木島、それぞれどの順で並べたか覚えてるか?」
「もちろん覚えてるさ、右から新聞部、写真部、美術部だ」
当然というように木島がすらすらと答える。
「その木島から頼まれて、柴本が封筒に番号を書いた」
「うん、黒のマジックではっきり書いたよ」
「番号の順番は覚えてるか?」
「覚えてる。右から順に一、二、三だ」
柴本が「だろ?」と木島を見る。木島も大きく頷いた。「間違いない」
「それじゃ木島、柴本が番号を書くの見てたか?」
木島が首を振った。
「いや、風に
「書き終わった封筒も?」
「見てないよ、すぐにポスターを描き始めたから。封筒を置いた机には背中を向けて座ってたし」
それがどうかしたかと木島が首を傾げる。
「二人とも、その時の場所に立ってくれるか?」
首を捻りながらも木島と柴本が立ち上がった。それぞれ窓際の机の前とドアの前に移動する。中央の机を挟んでちょうど正反対の位置だ。
「木島、封筒が置いてあるつもりで番号順に指差してくれ」
左手を上げた木島が、自分の右手側から順に人差し指を向ける。
「一、二、三」
木島の正面に立った柴本が「え?」と声を上げた。
「なんだよ?」
「柴本、封筒に番号を書いた順に指差してくれ」
「……一、二、三」
気まずそうな声で柴本が指差す。柴本から見て右手側、木島の方からは左手側の順。
「はあ!?」
木島の声が部屋に響いた。石上が呆れたように天を仰ぎ、真木がふうと小さくため息をつく。
「見ての通り。木島も柴本も、お互いに自分から見て右からの順に番号が書かれるものと勘違いした。つまりは封筒の中の写真と番号が逆になったんだ」
木島が髪をくしゃくしゃとかき回した。目の前の机を指差し、柴本に向かって声を荒げる。
「おっまえ、右からっつったらこっちだろ」
「仕方ないじゃん。俺から見たら右はこっちだよ」
言い争う二人の横を通って、壁の黒板に歩み寄る。小さくなったチョークを一つ
「木島が考えていた封筒の順番はこう」
黒板に①新聞部、②写真部、③美術部と書く。コツコツという音とともに白いチョークの粉がぱらぱらと落ちた。
「でも実際、それぞれの写真が入った封筒にはこっちの番号が書かれていた」
赤のチョークに持ち替え、①→③新聞部、②→②写真部、③→①美術部の順に数字と矢印を書き加える。
「石上と真木、二人が同時に違う写真を手にするのはこのパターン以外には考えられない。つまり、それぞれお互いの部の写真を持って行ったわけだ」
「ちょっと待て。新聞部と美術部がそれぞれ違う写真を手にするのは、そのパターンだけじゃないだろ。そもそも始めから木島が封筒の並びをミスってたかもしれない。封筒も番号も全部がシャッフルしてたって可能性もある」
石上が黒板を指す。
「三つの封筒の並びは全部で六パターンだ。その中で、①と③が両方とも違う並びになるのは三パターン。残りの二パターンじゃないって根拠は何だ?」
石上の問いに柴本が「確かに」と頷いた。「げ、俺、数学苦手」と舌を出した木島に、石上が「算数だよ」と呆れた顔をする。
仕方ない。算数嫌いの木島くんのために、高谷先生が解説してやろう。
「石上のいう通り、封筒の並びは六パターンだ」
チョークの音が部屋に響く。
(一)①新聞部・②写真部・③美術部
(二)①新聞部・②美術部・③写真部
(三)①写真部・②新聞部・③美術部
(四)①写真部・②美術部・③新聞部
(五)①美術部・②新聞部・③写真部
(六)①美術部・②写真部・③新聞部
……文字が多少歪んでいるのは勘弁してくれ。
「この中で、①の封筒を取った新聞部と③の封筒を取った美術部が両方とも自分の部ではない写真を手にするのは、(四)(五)(六)の三パターン。だけど、今回のケースでは(四)と(五)は除外できる」
「なんで?」
柴本が首を傾げた。
「提出された写真を見ても小杉先生が何もいわなかったからだ。木島、小杉先生はこの部屋で写真を確認したんだよな?」
「ああ、封筒から出した写真を一枚ずつ確認しながら部屋を出て行ったよ」
木島が頷く。顎を撫でながら石上がふうんと唸った。
「だが、間違った写真を展示の作品だと勘違いしたかもしれないだろ。小杉に提出した写真ってやつは昨日出来上がったばかりって話だったじゃないか。初めて見た作品なら、小杉がすぐに気付けなかった可能性もあるんじゃないか?」
石上の問いにすぐには答えず、黒板を離れて窓際の机に近付く。
「木島、ちょっと借りるぞ」
木島に断りを入れて机の上に置いてあるポスターを取り、みんなに見えるように広げてやる。
「これは今度の写真部の展示に使うポスターだ」
ポスターには〈光と影の世界〜モノクロ写真の魅力〜〉とあり、逆光の中で両手を空に伸ばした少女の姿が描かれている。白と黒を基調としてその他の色を極力抑えたデザインは、シンプルかつ繊細なバランスで美しい。
「写真部の次の展示はモノクロ写真で間違いないよな?」
訊ねると、木島と柴本が同時に頷いた。「ああ、今回はカラーは使わない」
木島に礼をいい、ポスターを机に戻す。
「真木は新聞部のカラープリンターが壊れたから写真部に印刷を依頼したといった。美術部も作品の記録を残すために写真を撮って、それをアルバムにまとめようとしてた。美術部に残された作品には模写も多いというから、記録を残すのが目的なら、はっきりと違いがわかるようにカラーで撮ったはずだ。檜山先輩、そうですよね?」
檜山先輩が大きく頷いた。
「その通りだ。色も含めて作品だからな。残念ながら写真では全てを記録することはできないが、何も残さず処分してしまうよりは余程いい。……いつか誰かが、残された記録から、俺たち美術部の愛と情熱を受け取ることがあるかもしれん」
遠く窓の外を見つめる檜山先輩の側で、石上が熱心に頷いていた。かなり芝居がかった台詞だが、檜山先輩がいうとなぜか様になる。何より恐ろしいのはこれを素でいっているところだ。俺は何度か話したことがあるから檜山先輩がどんな人物なのか知っているが、木島はあまり話したことがなかったようで若干引き
こほんと咳払いをして話を戻す。
「新聞部と美術部はカラー写真、写真部はモノクロ写真が用意されていた。ということは、小杉先生は間違いなく写真部の作品を持って行ったはずだ。封筒の中がカラー写真なら、今回の作品展用じゃないとすぐに気付くだろ。つまり、それぞれの封筒の番号は(六)のパターンだったことになる」
篠原先輩の顔から血の気が引いた。両手を強く握りしめて俯く。手の中の青い封筒がくしゃりと音を立てた。
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