第2章 レンズ越しのあなたへ

8 心の友と呼ばせてくれ

 軽い助走をつけて踏み出す。地面を強く蹴り、身体を高く持ち上げ跳躍する。背中から着地して天を仰ぐと、目の前のバーが揺れていた。バーの向こうに澄んだ青空が見える。マットに両手を広げ、寝転んだまま呟く。

「空が、青いぜ」

「たそがれてるところ悪いけど、邪魔だよ高谷くん」

 頭上から声が降ってきた。見上げると、苦笑した顔の矢口と目が合う。矢口はバーに手をかけると、俺が跳んだ高さから四十センチ上げてスタンドを固定した。

「げ、そんな上げんの?」

「試してみるってさ。何事もチャレンジだ」

 マットから降りる俺を確認して、矢口はスタート地点に立つ航一へ手を振った。助走をつけた航一が軽やかにバーを跳び越える。相変わらず見事な背面跳びだ。身体が落下する時に少しだけ腰のあたりが引っかかった。着地と同時に揺れたバーも地面に落ちる。

「くそ、ミスった」

 航一が舌打ちする。

「あと少しだったよ。次は跳べるんじゃないか?」

 バーを拾い上げた矢口が航一を見下ろす。

「百九十まではいきたいんだけどな」

「それじゃ、陸上部の記録と並んじゃうだろ」

 さすがに甘くないと思うぞと矢口が笑った。

 航一は背が高い。正確な数字は聞いてないけど、たぶん百八十は超えていると思う。がしりとした身体は筋肉質で重量がありそうに見えるが、跳ぶ姿は重さを感じさせないほどにしなやかだ。中学まではバスケをしていたらしいし、元運動部はやはり運動神経が違う。

「なんでそんな跳べんだよ、意味がわからん。何食ったらそんな動きになるんだ」

 呆れて訊ねる俺に、航一は真顔で「米」と答えた。

「やっぱ背筋が違うんかな」

 航一の身体をまじまじと見つめる。広い背中は男らしくてたくましい。

「筋力もだけど、バネが違うよな。航一くんのジャンプ力は確かにちょっとおかしい」

 航一が跳んだ高さからバーを二十センチ下げながら、矢口も頷いた。マットから立ち上がった航一が首に手を当てて骨をぱきりと鳴らす。

「筋力とバネも必要だろうが、走り高跳びはリズムだろ。タン、タ、タン、で跳ぶ」

 へえと矢口が頷いた。

「そうなんだ。俺はタン、タン、タンってやってた」

「そうか? 俺、タタタタ、タンなんだけど」

 首を傾げた俺に、航一が不思議そうな顔をした。

「どんなリズムだ、それ。どこでタンなんだ」

「いや、だから、右足で踏み切りだから……あれ、待てよ。踏み切りどっちだっけ?」

 左右を確かめながら足踏みしていた俺の後ろを、体育教師の岡崎が通った。

「先生、ちょっと手本見せてくれませんか。踏み切りのリズムを掴みたいんですけど」

「おい、高谷。この腹を見てくれよ。俺が跳べると思うか?」

 両手を腰にあてた岡崎が、だははと豪快に笑う。縦にも横にも大きな岡崎は、ついでに声もでかい。一年の頃は俺のクラスの担任を務めていたが、あまりの声の大きさに入学式の担任挨拶で一人だけマイクを使っていなかった。

「んなこといったって、教師でしょうよ。生徒に教えられんでどうすんですか」

 呆れる俺に岡崎がふふんと胸を張った。

「教わるだけが学びではないぞ、青少年。自ら考え見つけ出していくのも、また学びなのだ」

「それ、先生の言葉ですか?」

「……by松本先生」

 だと思ったよ。「そろそろ片付けとけよ」という岡崎に「はーい」と間延びした返事をする。大きな身体を揺らしながら去っていく後ろ姿にため息をついた。

「まったく、よくもまあ他人の台詞を堂々と借りてこられるもんだ」

「いいんじゃない? 岡崎先生は松本先生のファンらしいから」

 そりゃ初耳だ。

「マジか。全然タイプ違うだろ」

 ガサツな岡崎に比べて、国語教師で現代文担当の松本先生は穏やかな空気を纏った好々爺だ。去年までは図書委員会の顧問を務めてくれていて、その博識さと菩薩のような物腰から、図書委員の間では密かに「弥勒」と呼ばれていた。

「違うから憧れるんじゃないか? この間も『緑色を青っていうところとかマジかっこいい』って話してたし」

「どこに憧れてんだよ、あのおっさん」

 見習うところは他にもっとあるだろうが。

「それは半分冗談かもしれないけど、真面目な顔で『あんなふうに歳をとりたい』っていってるのを聞いたことあるよ」

 なんかわかる気はするなと笑って、矢口はスタート地点へ駆けて行った。

 なるほど。確かに、自分とかけ離れているものほど羨ましいし、憧れは強くなる。

 高跳び用のスタンドの目盛りを見上げる。さっき航一が跳んだ高さは、高二男子平均の俺の背よりも高かった。

 航一の合図で矢口が走り出した。軽く地面を踏み締め、柔らかく伸びるように跳躍する。矢口が着地した後も、バーは落ちなかった。

 矢口も航一も、運動ができることを鼻にかけたりしない。もし誰かに、運動ができるかできないかを訊ねられたら、二人とも下手に謙遜せず「できる」と答えるだろう。冷静に、客観的な事実として。比べて、俺は平凡だ。男子高校生の平均を下回ることはないが、運動が得意だと胸を張っていうことはできない。

 わけもなく空を見上げてみる。手を伸ばしても届かないものはいくらでもある。望んだものが全て手に入るわけではないのだ。

「そういやさ、なんで俺たち走り高跳びになったんだっけ?」

 二年生一学期はじめの体育は陸上だった。先週は体力測定でしばらく通常の授業内容ではなかったが、それ以外は四月からずっと走り高跳びをしている。陸上の種目は選択制で、生徒は陸上八種競技の中から、やり投げを除いて好きな種目を自由に選んでいいことになっていた。それぞれ授業の最初に希望を取って決めたはずだが、走り高跳びを選んだのは、俺と矢口と航一の三人だけだ。

 ふと気になった疑問を口にすると、矢口と航一が顔を見合わせた。航一が呆れた顔をする。

「高谷が走り高跳びをやりたいっていったんだろうが」

 え、俺?

 矢口も頷く。

「高谷くんが岡崎先生に頼んだんだよ。走り高跳びは道具の準備に手間がかかるから、希望者が少ない場合は授業から削るっていわれて。だけど、一人でも準備と片付けはちゃんとするから、走り高跳びをやらせてくれって。生徒の自主性を尊重してくださいってずいぶんねばってたの、覚えてない?」

 覚えている。そういえばそんなことをいった。

 矢口が笑う。

「本当は俺、短距離がよかったんだけどね。百メートルは希望者が多かったから、他の種目でもいいかなと思って」

 航一がマットにどさりと腰を下ろした。

「俺は人が少ないところならどこでもよかった。順番待ちは苦手だ」

 なんてこったい。二人とも俺に合わせて選んでくれていたわけだ。授業のはじめ、矢口と航一が走り高跳びを選択してくれてなければ、俺の第一希望は叶えられていなかった。

 おお心の友よ。君たちの友情はしかと胸に刻んだぞ。

「むしろ俺の方が訊きたいんだけど。なんであんなに走り高跳びをやりたがってたんだ?」

 スタンドからバーを下ろしながら矢口が訊ねる。

 なんでと訊かれても、やりたかったからとしか答えようがない。どうして夕飯前にお菓子を食べちゃうの? だって食べたかったんだもん。

「いや、なんとなく。前に進む速さを競うより、高く跳べた方が気持ちいいかなって。そう思ったら、他の選択肢が目に入らなくなってたっつーか」

 二人に気を遣わせたわりには、たいした答えじゃなくて申し訳ない。

 航一が笑った。

「高谷らしいな」

「うん。やりたいこととか好きなこととか、全部はっきりしてるよね、高谷くんは」

 そういうのっていいよなという矢口が、バーを抱えたまま空を見上げる。つられて、俺と航一も天を仰いだ。よく晴れた空に薄い雲がゆっくりと流れていく。

 好きなものを好きだというのは、そんなに難しいことじゃない。頭を使うわけじゃないし、なんとなく気に入ったものを、ただいいなというだけだ。基準は自分の中にしか存在しないから、他人から指図されないし、正答があるわけでもない。その基準だって、自分の都合しだいでいくらでも変更可能だ。矢口がいうほどにいいものではないと思う。一歩間違えばただの独りよがりなわがままになっちゃうし。

「そろそろ片付けるか」

 航一が立ち上がった。続いて、俺と矢口も動き出す。

 バーとスタンドを体育倉庫へ片付け、最後にマットを運ぶ。大きくて厚みのあるマットは、三人だと少し運びづらい。端を軽く引きずりながら移動していると、背後から駆けてくる足音があった。

「どっかーん!」

 騒がしい掛け声と共に、小野がマットにダイブする。

「いやあ、今日の体育も疲れたよねー」

 俺、千五百を四本も走っちゃったよと笑う小野を軽く睨みつける。

「疲れたのはわかったから、そこどけよ。重くて運べないだろ」

「いやー、ムリムリ。一歩も動けない。このまま俺も運んでって」

 マットの上で大の字になっている小野を見て、矢口と航一が苦笑する。いつも明るくてみんなをよく笑わせている小野は、クラスだけじゃなくて学年の中でも人気者だ。こんな甘ったれた言動も、小野なら許される空気がある。

「よしきた。航一、矢口、このまま体育倉庫に放り込んで鍵かけるぞ」

 笑みを含んだ二人の声が「了解」と重なる。

「ちょっと、謎の結束はやめてよ。冷たいじゃない」

「がたがたいってねえでそっち持て。三人じゃ手が足りねえんだよ」

 ぶうと頬をふくらませた小野がのそのそと移動してマットの端を持つ。

「ありがとう小野くん、助かるよ」

 律儀に礼をいう矢口ににこりと笑顔を見せると、小野はこっちを向いて口を尖らせた。

「矢口は優しいな、タカちゃんと違って」

「なんとでも」

 マットを持ち上げ進む。

「矢口は優しいな、タカちゃんと違って」

 マットの中心が軽く地面に擦れる。小野が天に向かって声を張り上げた。

「矢口は優しいなあ、タカちゃんと、違って」

「うるせえな。誰が何度でもっつったよ」

 航一と矢口が声を立てて笑った。


 体育倉庫にマットを放り込む。マットがはずみ、白線用の石灰が宙を舞った。

「そういや、今度の土曜にクラスでカラオケいこうって話があんだけどさ」

 両手についた粉を払いながら小野が立ち上がる。

「矢口とあっちゃんもくる?」

 航一が右手を振った。

「バイト」

 マットを奥に押し込んでいた矢口も、少し顔を上げて首を振る。

「俺も土曜は予定がある」

 そっかと頷いて、小野は大きく伸びをした。

「おい、俺にも聞きなさいよ」

 じろりと睨んでやると、できそこないの口笛を吹いていた小野が振り返る。

「え、タカちゃんはくるでしょ?」

「なんで決まってんだよ」

「だってタカちゃんがいなかったら、誰が俺と〈ペッパー警部〉をダンス付きで歌ってくれんのさ」

 なにいってんだよとばかりにため息をつかれる。しらんがな。大体、いつ俺が〈ペッパー警部〉を踊ったことがあるんだ。

 去年同じクラスになってから、やたらと小野の騒ぎに付き合わされている気がする。おかげでまわりからは勝手にお祭りコンビだと思われている節があるが、冗談じゃない。俺は小野よりも常識人だ。

 とはいえ、どうせ休日にやることもない。

「まあ矢口と違ってデートの予定もないしな」

 からかい混じりに了承すると、矢口がじろりと睨んできた。

「別にデートじゃない」

「え、矢口って彼女いるの?」

 小野が驚いた顔で矢口を見る。

「だから彼女じゃないって」

 矢口がそっぽを向いた。耳の端がちょっとだけ赤い。

「この間知り合った子と少し一緒に出掛けるだけだよ」

「へえ、どこいくの?」

 興味津々といった様子で小野が身を乗り出す。普段教室の窓辺で静かに本を読んでいる矢口が誰かとデートしているという図は、確かに興味深い。

 小野の問いに、矢口は短く「映画」と答えた。

「いいよなー、俺も可愛い彼女とデートしたいぜ」

 両腕を頭の上で組んで天を仰ぐ。どんなに目を凝らしても、青空の向こうから飛行石の首飾りをつけた女の子は落ちてこない。

 じゃあさと小野が笑う。

「タカちゃんのタイプってどんな感じ?」

「は?」

 急な質問に、一瞬、桜色リップクリームの君の顔がよぎった。微かな胸の高鳴りは、続いた小野の声にかき消される。

「マァムとレオナだったらどっち?」

「なんでその選択なんだよ。どっちもわりと勝気だろ」

「じゃ、真由子と麻子だったら?」

「しつこいな。エレオノール一択だよ俺は」

「いや、結構勝気じゃん」

 小野がうへへと笑う。

「タカちゃんはエレオノールか。俺はフランシーヌだな。矢口は?」

 体育倉庫に鍵をかけていた矢口が振り向いた。

「アンジェリーナかな。航一くんは?」

 イタズラっぽく笑った矢口が、倉庫の鍵を航一に投げる。鍵をキャッチした航一が肩をすくめた。

「フランシーヌ人形」

 小野が楽しそうに笑って頷いた。

「みんな好みの子が違っててよかったね。これで無用な争いは避けられるよ」

「いや、全員マンガの中の女の子なのよ」

 くだらない会話に気が緩む。何気ない毎日の日常的な会話。いつも通りのやり取りに、時々、胸の奥がきんと痛む。

 俺は、この場所にいてもいい人間なのだろうか。

 この三人に囲まれている資格が、果たして俺にあるのだろうか。勉強も運動も平均的な、これといった特技もない平凡な一般人である、この俺に。

「タカちゃーん! 置いてっちゃうよー!」

 気付くと、三人は先に歩き出していた。遠ざかる背中を慌てて追いかける。俺がどんなに全力で追いかけたって、あいつらが本気で走ったら、きっと一生追い付けないんだろうけど。

 悔しいとは違うこの気持ちにはとりあえず蓋をして、グラウンドの砂を思い切り蹴って走った。

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