何か
「君・・・あの時の」
朝尾先生は私の事にすぐ気づいたらしい、軽く驚いた表情を浮かべたが、すぐに真剣な表情になった。
「大丈夫?顔色が凄く悪い。って言うか唇が真っ青じゃないか。とりあえず中に入って」
「・・・いいんですか?」
「もちろん。今のあなたはそんな事を考えているよりまず身体を温めた方が良い」
私はすぐに頷くと立ち上がった。
また愛生院に入れる。
それだけでも嬉しかった。
お家に帰れる。
久しぶりに愛生院の建物に入ったが、塗装を塗り直したのだろうか小綺麗になっている感じがする。
だが、木造の建物が発する空気は紛れもなく当時のままだった。
先生に連れられて応接室に向かう途中、離れの棟に向かう渡り廊下に目がとまった。
ああ、この先が女子棟。
普段、応接室に入るときは悪さをして先生に怒られるときと決まっていたので、この方向から渡り廊下を見ると、不思議な気持ちだ。
応接室に入るとソファを進められ、座ると先生は隣の宿直室に入りやがて湯気の立っている珈琲を持ってきてくれた。
「すいません。木造なんで寒いとは思いますが・・・」
「いいえ、全然です。暖かい感じの建物で好きです」
「そう言ってもらうと有り難いです。ここは児童養護施設なんです。市からの補助金で成り立っている事もあり、贅沢言ってはいけませんがどうしてもハード面では子供たちにいささか酷な環境だとは思ってます」
私は話しを聞きながら出された珈琲を飲む。
暖かい珈琲が喉から胃に流れ込むと、身体全体の温度が上がったように感じる。
「いいえ、子供たちは気にしてないと思います。だって先生みたいな方がいるんだから」
「いや、お上手ですね。あなたみたいな綺麗な人から言われると緊張しちゃいますよ」
先生ははにかんだ笑顔を浮かべる。
ホント、いくつになってもこういう所は子供みたいだ。
「先生こそ、優しそうな感じですし子供たちや他の先生方からから人気なんじゃありません?」
「いやいや、僕なんてみんなになめられちゃってて、イベントの度に雑用係ですよ。本当にアイツら」
そう言いながらも先生は嬉しそうに話している。
そう、こういう人だった。
自分よりも子供たちや働く先生方の事を考えていた。
だから、みんなまるで「甘えられるお兄ちゃん」のように思っていたのだ。
「でも良かった、かなり元気になられたようで。心配しましたよ」
「有り難うございます。おかげさまで珈琲を頂いて暖まりました」
そこで「天使の沈黙」とでも言える間が空いたとき、朝尾先生は軽く息をつくと真剣な表情で言った。
「えっと・・・山浅さん、でしたっけ?何があったんですか?」
私はうつむいて軽く首の後ろをこすった。
どうしよう。
成り行きでここまで来てしまったが、当たり前ながらどうするかなんて全然考えていなかった。
ただ、あのアパートにも学校にも行きたくない。
でも、冷静に考えればそういう訳にもいかない。
でも戻ったらどうなるか。
完全に八方塞がりという奴だ。
言葉も出ず黙っている私に先生はゆっくりと言った。
「一旦警察を呼びましょうか。そこで話しを・・・」
「私、兄から虐待を受けてるんです」
突然の言葉に朝尾先生はポカンとした表情になった。
さぞや驚いたんだろう。
だが、一番驚いたのは当の私自身だった。
私・・・何を?
だが、もう後には引けない。
口から零れたこの言葉に乗っかるしか無い。
もう頼るのはこの人しかいないんだから。
「数時間前も兄からキスされました。他にも今まで色々・・・だから兄を突き飛ばして逃げてきました。もう家には帰りたくないんです。学校にも居場所がなくて。私には帰る所が無いんです。警察が来たら絶対兄を呼ばれます。でもあの人は外面が天才的に良い人だから、きっと私が大げさに言ってると思われる。そしたら連れ戻されちゃう。でも・・・あの人の性格だったら、今戻ったら私・・・殺されます」
本当に自分がしゃべってるのだろうか?
朝尾先生相手と言うことを差し引いても信じられないくらいに言葉が出てくる。
「お願いします。私をここで使ってください。掃除でも調理でも何でもします」
話しながら私は涙がまた溢れてくるのを感じた。
ああ、そうだ。
私はずっと帰りたかったんだ。
このお家に。
朝尾先生の元に。
「お願いします。助けてください」
そう言いながら私は土下座していた。
もうプライドも何も無かった。
神様、あなたは私に美貌をくれた。
感謝しています。でもこんな地獄もセットなんて聞いてませんでした。
だから、お詫びに二つください。
お家と家族を。
先生は長い間沈黙していた。
そして重々しく息をつくと言った。
「あなたの辛い気持ちは分かります。この時期にあんな所にずっと座っているほど深刻な状況である事も。ただ、きっと明日になったらお兄さんも警察に捜索願を出すでしょう。そうなると法的にあなたをここにかくまうことは困難になる。この施設が誘拐を働いた、と言う扱いになるんです」
先生の声を聞きながら、私は口の中に酸っぱい物がせり上がってくるのを感じた。
そりゃそうよね。
いくら先生でも一度会っただけの小娘とこの施設を天秤にかけるなど出来るはずも無い。
あの長い沈黙も先生なりの精一杯の葛藤だったのだろう。
先生を恨むなど出来るはずも無い。
この人は変わらず優しい人だった。
私は顔を上げると、ニッコリと微笑んで言った。
「すいません、突然訳の分からないことを言ってしまって、ご迷惑をおかけしました。そろそろ失礼します。珈琲ごちそうさまでした」
もうここにはいられない。
これ以上居ると・・・離れられなくなる。
私は一つの覚悟を決めていた。
愛生院の近くにある7階建ての団地。
あそこの一番高い階ならここもよく見えるだろう。
それを、最後の景色にするのも悪くない。
団地の人には申し訳ないが、私みたいな屑の終わりにはそれも有りだろう。
そう思うと気分が軽くなってきた。
よし。
立ち上がり応接室を出るためドアに向かった。
その時。
ふとどこかから視線を感じた。
いや、視線と言うよりも・・・何かの「存在」を。
一樹さんかと思ったがそうではない。
その「何か」は私を強い感情で見つめているように感じた。
今の・・・何?
思わず立ち止まったタイミングで、私の背中に先生がポツリと言った。
「証拠は持ってますか?」
「え?」
「その・・・お兄さんとの内容が分かるような」
先生の言わんとすることが分かった。
そうだ。証拠ならある。
あまりに全てが都合良すぎると思えるほどの証拠が。
私はボイスレコーダーをポケットから出すと、震える指で再生した。
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