辛いもの勝負
五分もしないうちに、『死のカレー』と書かれたおどろおどろしい黒と赤の看板が見えてきた。
実は仄香はそこまで辛いものが好きではないのだが、辛さ0も選べるようなので問題ないだろう。
店内はそこそこに混んでいた。
インド風の内装で、ガネーシャやゾウの像が並んでいる。店長も日本人ではなさそうだった。
テーブル席に付いてメニュー表を開いた。
いち早く決めたのは咲だった。ポークカレーの辛さ2にするらしい。
野菜カレーがおいしそうだったので、仄香は「私は野菜カレーの辛さ0にしようかなあ」とぽつりと呟く。
すると宵宮に「え?」と不思議そうな顔を向けられた。
「……え?」
「何言ってんの。ほのぴは僕と一緒に辛さ100だよ」
わざとらしく小首を傾げられ、愕然とする。
驚いているうちに雰囲気作りのためかターバンを巻いた店員がやってきて、本当に辛さ100で注文されてしまった。
咲は仄香の断れない性格を知っているので、心配そうに止めようとしてくれる。
「あの、宵宮さん。仄香、辛いものそんな得意じゃないですよ……?」
「そうなの? ほのぴ」
宵宮が有無を言わさぬ視線を送ってきた。
「僕、ほのぴと勝負したいなぁ。どっちが先にリタイアするか」
仄香は断れない性格であるだけでなく、断れない状況でもあることを、咲は知らない。
宵宮の機嫌を取れなければ何をされるか分からない。人質は咲である。
しかし辛さ100――そう簡単に食せる物ではない。どうすればいいんだと逡巡していた時、宵宮が「じゃあこうしよう」と追加で条件を出してきた。
「負けた方が勝った方の言うことを何でも一つ聞く。僕ももし負けたらどんなお願いでも聞き入れてあげる」
仄香はしばらく宵宮の顔をじっと見つめた。
「……それは、宵宮先輩の信念に反することでもですか?」
例えば、〝テロ計画を廃止してほしい〟というお願いでも、彼は呑むのだろうか。
「うん。いいよ」
仄香の心境を知ってか知らずか、宵宮が涼しい顔で言う。
無論、こんなくだらない勝負事一つで彼が高校生の時からコツコツ企ててきたであろう計画を覆せるとは思えない。
けれど宵宮がある程度気分に従って生きている人間でもあることはこれまでの言動を見ていて何となく分かる。無能力者を大量に殺すという計画の完全な廃止は無理でも、せめて異能力者は絶対に殺すな、くらいのお願いなら受け入れてもらえるかもしれない。
少しでも可能性があるのなら、やらないよりはやった方がいい。
「――やります」
覚悟を決めて睨み返した。
宵宮が満足げに笑みを深める。本当に趣味が悪い。仄香がどう出るか楽しんでいるのだろう。
仄香は追加で牛乳とラッシーを二本ずつ頼んだ。さらに一旦カレー屋を出て、隣の薬局で胃腸薬を買って戻った。準備万端である。
「仄香……本当に大丈夫? 今日何でそんな好戦的なの?」
いつになく本気な仄香に、咲がハラハラした様子でこそっと聞いてくる。
「日本の平和がかかってるから……かな」
「ええ? ほんとに何言ってるのよ?」
真顔で言い切った仄香。咲は余計に心配になったのかさらに続ける。
「もし限界になったら、宵宮さんが見てないうちにあたしがカレーをゴミ箱に瞬間移動させて全部食べたことにしてあげてもいいんだからね?」
「ありがとう。でも、食べ物を粗末にするのはよくないから遠慮しとくよ」
それにそんなことをしても、読心能力者である宵宮にはすぐバレてしまうだろう。
待っていると、サリー姿の女性店員が仄香たちのテーブルにカレーを運んできた。
量としてはそこまで多くない。見た目も普通のカレーだ。
何だ、意外といけるかも……と思いながら、スプーンで少しだけ掬って口に入れてみる。
「うっ」
仄香の口から呻き声が漏れた。
辛い。舌がピリピリする。すぐにラッシーを手に取って一緒に流し込んだ。
こんなもの全部食べきれるはずがない。きっと宵宮も予想以上だと言うはずだ――と前方の宵宮に視線を向けるが、宵宮は全く動じていない顔つきで激辛カレーをぱくぱく食べていた。
本当に同じものを頼んだのかと疑い、騙されているのではとテーブルに置かれた伝票を二度確認してしまった。
辛さ2を頼んだ隣の咲ですら「からーい!」と苦しんでいるのに、100など食べられるだろうかと決意が揺らぐ。
(いや……やるしかない……例え、これで人生で一番激しい下痢になったとしても)
仄香は目を瞑ってカレーを口にかきこんだ。
全ては未来のためだ。咲が殺されるくらいなら自分の胃腸や口腔など安いものである。
◆
三十分後。
「ぎゃははははははは!」
宵宮がその美しい顔に似合わない、下品な笑い声を上げながら手を叩いている。
仄香が大泣きしながら必死にカレーを食べているからだ。
ちーんっと何度も鼻をかんだり涙を拭いたりしているおかげで店員が気を遣ってゴミ箱をテーブルの横まで持ってきてくれた。ゴミ箱は仄香の鼻水と涙だらけのティッシュで埋まっている。
「ほ、仄香……何もそこまで頑張らなくていいんじゃ……お遊びの勝負なんだし、ね?」
3/4程食べ終えたところで、辛さ2のカレーを全て食べきることを諦めたらしい咲がスプーンを置いて仄香の背中を擦ってくる。
「遊びじゃない……私はまだやれる……」
「そんな死んだ目で言われても……」
仄香ってそこまで負けず嫌いだっけ? と咲が首を傾げた。
「はははははははは! ひぃ、面白すぎ、むり」
仄香が渋い顔をしながらカレーを口に運び続ける姿が面白いのか、宵宮はひたすら笑っている。
「やっぱ顔芸向いてるよ、ほのぴ!」
失礼すぎる。
しかし宵宮が笑い続けているおかげで宵宮の方のカレーは一向に減っていない。今のうちに少しでも皿の中のカレーを減らし、差を付けなければ。
恥を捨てて泣きながらカレーを食べ続ける。辛すぎて一周回って辛さを感じなくなってきた。
これは食事ではない。食べ物を口に運ぶという運動だ。そう自分に言い聞かせ、無心でカレーを口に運び続けた。
さらに三十分後。
仄香の皿が空になる頃、店内からはわずかながら拍手が生まれていた。
仄香は椅子に背中を預け天を見上げる。
「三途の川が見えた……天国のおじいちゃんとおばあちゃんがこっちに手を振ってた……」
「仄香っ! ほんっと~によく頑張ったわ!」
一部始終を見ていた咲が何故か感動して涙ぐんでいる。
――しかし、仄香は勝負に勝ったわけではない。
目の前の宵宮はとっくに辛さ100を完食している。ターバンを巻いた店長らしきインド人から「すごいネー。この速さで食べきったお客さんは三年ぶりだヨ」と謎の賞状までもらっていた。
つまり、どちらもリタイアしなかったので、負けてはいないが勝ってもいない。さらに言えば宵宮の方が食べ終えるのが先だった。
脱力する仄香に、店長が「アナタもすごいネー」と賞状をくれた。
賞状がほしかったわけではないのだが、それを見た時達成感で満たされた。未来のためにこれだけ頑張れる自分なら、いつかあの未来も変えられるのではないか? という自信に繋がる。
「また来てネ」
にこやかな店員の言葉に、多分私はもう来ないです……と内心思いながら、泣き笑いを返した。
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