童貞、銃を拾う。

真狩海斗

童貞、銃を拾う。

——人は誰しも童貞だった時期がある。

 男なら誰もが共感する言葉かもしれない。

「あの頃は若かった」「あの頃は苦しかった」と飲み会でのバカ話にも花が咲くだろう。

 だが、この言葉はそこから疎外された人間の存在を忘れている。

 この世には、童貞の人間もいる。から抜け出せない人間。それが僕だ。


 角の折れたメニュー表を手繰り寄せ、今日の晩ご飯を選択する。期間限定メニューやトッピングに少し心が揺れる。3種のチーズ牛丼だけは頼まないことに決めていた。陰で馬鹿にされるのが目に見えている。少し悩んだものの、結局いつもと同じ、牛丼の大盛りを注文した。

 

 注文から1分と立たずに牛丼は出てきた。湯気が残っている。汁がたっぷりと染み込んだ牛肉と玉葱に、紅生姜を山盛りに乗せる。精算中の客の手から、小銭が落ち、床を転がっていく。それを横目に牛丼をガツガツと掻き込んだ。

 隣に座ってきた男のカバンがぶつかり、ムッとそちらを向く。見てすぐに、あれ?と思った。すぐに別人だと気づいたが、黒のダウンに丸メガネという男の風貌から、ある人物を連想してしまった。ダウン丸メガネ男は、『バキバキ童貞』によく似ていた。 


 『バキバキ童貞』という存在を知ったのは、4年前のことだった。

 黒いダウンを着込んだ大柄の男が街頭インタビューに映っていた。丸く縁の細いメガネ、短くウネった前髪、やけに艶のいい色白の肌と、肉の乗った顎。初めて見たときに、絵に描いたような童貞だ、と思ったのをよく憶えている。

 彼が半笑いで「バキバキ童貞ですね」と答える姿はネット上で話題となっていた。瞬く間にネットミームと化し、『バキバキ童貞』として爆発的に拡散していった。

『恋のマイヤヒ』を歌わされるバキバキ童貞。範馬刃牙の肉体に合成されたバキバキ童貞。

 当時、大学4年生だった僕も例に漏れず、ネットの玩具と化した彼を仲間とともに嗤っていた。まさか自分がこうなることはあるまい、と無邪気に確信していた。


 改めて自分の姿を見返してみる。当時はツルツルだった髭も濃くなり、ベルトには肉が乗っている。日毎に中年に近づき、くたびれていく肉体。変わらないのは僕が童貞であるという事実だけ。当時の僕が見たら、絵に描いたような童貞として嗤うだろうか。

 僕が思うに、童貞の恐怖は、という部分にこそある。その恐怖は徐々に輪郭をくっきりさせ、質量を持った影として自分を覆っていく。影は月日が経つごとに増大していき、その質量をもって、自らを暗澹たる奈落の底に引き摺り込もうとする。影に徐々に侵蝕されながら何も抵抗できず、中年となり、老年を経て、独りで死ぬ。


 白い息を吐きながら、真っ暗な夜道を歩く。不意に吹く風の冷たさが、孤独を実感させる。鼻を啜り、コートのポケットに手を突っ込む。背中を丸め、下を向いて歩く。視界は狭くなったが、不思議と、気が楽になった。


 銃が落ちていた。ヒビ割れたコンクリートの隙間から伸びた雑草、その上に落ちていた。辺りは真っ暗だったのにその存在感は圧倒的で、目を離すことができなかった。不思議と玩具との疑いは持たなかった。本物を見たのは初めての筈なのに、本物であると確信していた。銃の持つ魔力に引き寄せられたのかもしれない。僕は、躊躇うこともせず、銃を持ち帰った。


 部屋に着くなり、銃を取り出した。散乱した部屋の中で、その漆黒だけが際立っていた。美しい。自然と息を止めてしまう。銃身を指でなぞる。マッドな質感だった。その無骨さから、銃の持つ機能美が伝わってきた。試しにグリップを握る。男にしては比較的小さい自分の手にも、よく馴染んだ。

 『チェーホフの銃』という言葉を思い出す。小説におけるテクニックの1つで、「誰も発砲することを考えもしないのであれば、弾を装填したライフルを舞台上に置いてはいけない。」というチェーホフ自身の言葉が由来だ。

 もし僕の人生が小説ならば、と思いながら、銃口を口に含む。「拳銃自殺はこめかみではなく咥える方が確実」と何かで読んだことがあった。もし僕の人生が小説ならば、この銃は自殺のために使われるのだろう。口内に金属とプラスチックの無機質な感触が広がる。その無機質さが、僕の命の軽さを教えていた。あと数センチ引き金を引けば、僕は死ぬ。誰にも愛されなかった童貞として死ぬ。こんなにも軽く死ぬのか。自嘲した笑みが溢れる。冷やりとした感覚が背筋に走る。

「臭い口に突っ込んでんじゃねぇよ!!」と怒鳴られる。誰だ、と辺りを見回すが、人はいない。「俺だよ、俺」と同じ声がする。まさか、と思った。信じられない。声の主は銃だった。「ようやく気づいたか、さっさと口から出せ」

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