現世に寄り道をする者達へ

若取キエフ

プロローグ

第1話 探偵と名乗る青年



 ああ、どうしてこうなったのだろう。

 俺が何をしたというのだろう。

 上場企業に就職し、学生時代からの恋人と結婚、そして娘が生まれ、マイホームを買うくらいに生活は安定していた。


 そんな小さな幸せに浸っていただけだ。

 それがどうして。





 俺は今、町はずれの山岳、その頂上に立っている。

 視界は良好、清々しいくらいの晴れ空だ。

 そんな景色を見ながら、俺は崖の上で最期の一服を噛み締めている。

 あと一歩足を前に出せば真っ逆さまに落下する位置で、気持ちは思いの外軽やかだった。


「……ふぅ」


 最後の一吸いを終え、携帯灰皿に吸い殻をしまい。

 いよいよ覚悟が決まった俺は、片足を前に出そうとした。

 その時。



「あの、すみません」



 寸でのタイミングで、突如聞こえた背後からの声に決意を削がれた。

 振り向いた先には、登山客には似つかわしくないスーツ姿の青年が立っていた。


「ちょっとお尋ねしたいんですけど、藤崎さん……で、合ってますか?」


 目の前の青年は俺の名前を口にし、落ち着いた様子で近づいてくる。


「……誰ですか?」


「あ、申し遅れました。僕、『難波なんば探偵事務所たんていじむしょ』ってとこに勤めてます、松日奈まつびな 言義ことぎです」


「たんてい?」


 思わず呆けたような顔を浮かべてしまった。

 何故こんな人気のない山で、真っ昼間にスーツを着た自称探偵の男が現れたのか。

 まるで想像もしなかったからだ。


「えっとぉ~、実はあなたの奥さんから捜索願いが出されておりまして、こうして僕が参った次第です」


「シホが? なんで……」


 俺は何が何やら分からなかった。

 昨日までは普通に家で過ごしていたのだから。


 自殺を決意したのは今朝になってから。

 休日のていで、気晴らしに登山をすると言って家を出た。

 捜索願いなど出すわけがない。

 ましてやこんな数時間で場所を特定されるなど……。


「あの、よかったら話してくれませんか? あなたがここに来た理由、そして、自殺しようとしていた理由を」


 松日奈と名乗る青年は、優し気にそう言った。






 それから俺は、彼にこれまでの経緯を話した。

 学生時代からの友人が借金を作ったこと。

 俺が友人の連帯保証人になったこと。

 そして、信じていた友人に裏切られ、友人の借金を肩代わりしてしまったこと。


「それから生活は一変してしまった。多大な借金を負った事が会社に漏れ、そのままクビになった。家を売り払って、引っ越し会社に再就職したが借金は減らず、家計は苦しくなる一方で……」


「なるほど、保険金を発生させる目的で自殺を図ったと。崖の前にあなたの荷物を置いていたのは、あなたがここに来た証明をする為ですか」


「ああ、山を選んだのは事故死を装う為だ。その金でどうにか妻と娘には幸せになってほしかったんだ。俺のせいで苦労させてしまったから」


「あなたのせいではないでしょう。それに……」


 青年は重い息を吐き、続けて言う。


「幸せになんてなりませんよ。あなたの奥さんと娘さんは、一生心に深い傷を残したまま生きていかなければならないんですから」


 きっぱりと正論を言う男だ。

 しかし異を唱える気はない。

 その通りなのだ。

 金の問題は解決しても、心の傷は一生消えない。


「君の言う通りだ。決して二人は幸せにはならない。だが、多大な財産を失ったんだ……。今更引き返せないんだよ」


 そんなことを口にすると。


「お金の件はすでに解決してますよ」


 ふと、彼はそんな事を言った。


「うちの事務所の者があなたのご友人の場所を特定し、交渉済みです。しばらくすれば返金されるでしょう」


「えっ……?」


「なんというか、ご友人も詐欺の被害に遭って財産を奪われたようでして、今度はその詐欺グループをあぶり出して警察に突き出しておきました。うちの社員にそういうのが得意な者がいまして」


 あまりにもあっさりと言う彼に、俺は思考が追い付かなかった。


「まあ、さすがに全額は返ってこないと思いますが、けれど少なくとも借金返済に悩む事はもうないでしょう」


 拍子抜けというか、肩の荷が下りたような安堵感が生まれ、俺はその場に膝を付いた。


「あ……え、じゃあ……」


「ええ、もう何も心配する事はないんです」


 こんなにも簡単に、解決するものなのか……。

 どうにもならないと諦めていた事態が、こうも好転するものなのか……。

 もっと早く、この人に頼めばよかった。

 膨れる喜びと共に、俺が感謝を伝えようとした、その時。



「だからもう、あなたはこの場所に縛られなくていいんです」



 彼はそう言った。

 そして彼の言葉で、ようやく俺は思い出した。


「…………ああ」


 もう何回、何十回も。

 自分が死んだ事も忘れて。

 俺はここで、崖から飛び降り続けていた。

 そうだった。もう終わった後だったのだ。


「あなたの予定通り、保険金は奥さんの元へ渡る事になっています。そして予想通り、奥さんも娘さんも癒えない傷を負ってしまった」


 ああ、俺はなんという事をしてしまったのだろうか。

 もう二度と、取り戻せないのだ。

 あの日常を。


「捜索願いが出されたのは、もう数ヶ月前の事です。あなたの遺品も、生前の体も、この場所にはもう無いんですよ。あなたの後悔の念が自身を縛り付けていただけ……」


 俺が早まった行動をとらなければ、もう少し耐えていれば。

 取り戻せたのだろうか。あの日々を。


「だからもう、帰るべき場所へ帰りましょう」


 だんだんと自分の体が透けて、溶けていくような感覚に陥る。

 それは穏やかで、心地よいものだった。


「いずれはあなたのご家族もそっち側に行く事になるでしょう。その時まで気長に待っていて下さい」


「……ああ、そうだな」


 不思議な青年だった。

 俺が亡霊だと認識したうえで、変わらず人として接してくれる。

 この青年に、もう少し早く出会っていればとわずかな後悔をしながら。


「ありがとう。助かったよ」


 俺はぼやける視界の中、感謝を述べた。


「ええ、ご冥福をお祈りしますよ」


 そして軽く手を振りながら言う彼を眼に納め。

 俺はこの世を後にした。



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