有限の約束

 運ばれて、運ばれて、しばらくすると、緩やかに動きは止まる。

「そのままで待っていて。坊っちゃん呼んでくるから」

 返事をしたいのに声が出ない。指の一本も動かせない。

「坊っちゃーん! ……テントの中にはいないなぁ。もう、休んでって言ったのに」

 声が、遠ざかる。

 小さいけれど、聴こえる。

「坊っちゃん! 砂時計が落ちきったら休むって約束でしょう!」


「──まだ落ちてない」


「……っ!」

 けだるげな青年の声を耳にし、目を見開いていた。

 日光なんて気にならない、その声に全ての意識が向く。

「引っくり返したんでしょ。僕が街に着く頃にはとっくに落ちているはずだもん」

「……いつ休むかは俺の勝手だろう」

「坊っちゃんに任せると余裕で三日くらい寝食忘れて、最後ぶっ倒れるじゃないか! 介抱するのは誰だと思ってるの? 余計な仕事は……あ」

「アッシュ?」

「……ごめんなさい坊っちゃん。余計な仕事と言うと失礼に当たるけど、少し身体に負担を掛けるかもしれない」

「何かあったのか?」

「道中で、ふらついている女性を見掛けて声を掛けたら、その、吸血鬼だった。はぐれシェフィールドだと思う」

「スピカとは違うのか」

「全然似てない。あの方は冷ややかな美人だったけど、反対に可愛らしい方だよ」

「お前好みの?」

「坊っちゃん好みの」

「……」

「……」

 握り締めていた手を緩めれば、宝石が滑り落ちる。不思議なことに、暴れる気配はもうない。

 立つ気力はないから、這って、荷車から降り──ようとし、うっかり頭から落ちてしまった。

 驚かせたみたいで、馬が嘶く。

「バックス?」

「外に待たせているのか?」

「そうだよ。どうやらアシュリーに何かされたみたいで、その解除を」

「あのお転婆はまた何かやらかしたのか」

「うちの妹が申し訳ない」

「……俺の責任でもある。行こう」

 汚れることも厭わずに、地面を這う。

 向かう場所は声のする方。私は彼に会わないといけない。その為に、長い旅路を進んできたのだから。

 ゆっくりゆっくり、クリーム色のテントの横を通る。視線は真っ直ぐ前を、石造りの小さな建物の扉に向ける。

 あそこだ、あそこに彼がいる。

 坊っちゃん。若様。お兄様。アルフェラッツのスカー。──クロード・アルフェラッツ。

 扉が開いた。

「なっ……」

「君! 寝てなきゃ駄目じゃないか!」

 似たような服装の青年が二人出てきて、私の元に駆け寄ってくる。

 一人はアッシュさん。もう一人は知らない人。

 黒い短髪はボサボサで、見開かれた黄金色の瞳には覇気がない。鼻の辺り、一直線にざっくりと傷痕がある。この人だ。

 ──この人に、会う為に。

 先に傍まで来た青年の、伸ばしてきた腕を素早く掴む。

「お、い」


「──死が二人を別つまで、共にあることをここに誓う」


 口が勝手に動く。

「ブランカ・ホバート」

 名を口にすると、力を振り絞って顔を上げ、青年の茶色の瞳を凝視する。

 困惑を顔に浮かべる青年は、しばらく待っていると、その口を開いた。

「……クロード・アルフェラッツ」

 瞬間、宝石は輝きだし、あまりの眩しさに瞼を閉じると、胸元の重みがふいに消えた。

 代わりに、指に違和感が……。

 光が落ち着くまで沈黙が続く。それを破ったのは、私でも青年でもなく──アッシュさんだった。


「えぇっ! 二人とも指どうしたの!」


 指?

 確認したかったけれど、糸が切れたみたいに首の力が抜けて──地面に顎を打ち付けていた。

「君、君!」

 誰かに揺さぶられるのを感じながら。

「……ホバート、とは?」

 誰かの困惑した声を耳にしながら。


 私の意識は途絶える。


◆◆◆


「私はお兄様の婚約者だった」


 ミス・シラーの声がする。

 彼女が直接語り掛けているのか。

「取り潰した分家の娘は、無視できぬほどに魔法の才能に恵まれていた。それをどうにか本家に組み込みたいと考えた当主は、次男の婚約者にすることにした」

 違う。これはいつかの再現。

「できれば長男に嫁がせたかったみたいだけど、既に気性の激しい嫁がいたから諦めて、次男に。次男は……お兄様は、私にも兄さんにも良くしてくださって、本当に大好きで、この人となら結婚しても良いと思えた」

 でもね、と、


「キスはできそうにないのよね」


 場違いに甘い声で囁かれたその言葉に、背筋がぞくっとする。

「頬や手に、されるのは構わないけれど、自分がするのは考えただけでも無理。口なんてもっとよ。お兄様はお兄様だから。あの人だって、私を妹と思っているはず」

 だからきっと、スピカを選べたのだと告げる声は、徐々に小さくなっていく。

「恩知らずの婚約者から、せめてものお詫び。今度はキスできる婚約者を──お嫁さんをあげるの」

 拒絶の言葉は、何故か口から出ない。

「秘匿されるべきホバート、生まれ損ないのホバート。貴女達吸血鬼からすれば、人の一生なんてあっという間でしょ?」

 血をちらつかせながら、根掘り葉掘り訊かれて、喉がカラカラ。

「きっとお兄様は貴女の眼鏡にもかなうと思う。だから、だからね」

 囁き声に、祈りが混じる。


「死が二人を別つまで、お願い、クロード・アルフェラッツの傍にいてあげて」

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