河童が住まう狭間の川
護武 倫太郎
河童が住まう狭間の川
これから話すお話は、俺が実際に体験したことだ。ホラージャンルに入れるほどの恐怖体験ではなく、決して怖い話ではないのかも知れない。が、河童にまつわる不思議な体験で、俺にとっては懐かしい思い出話だ。
俺が高校生になるまで住んでいた町は、いわゆる田舎の過疎集落であった。山々に囲まれ、見渡す限り田んぼが広がる光景。国道から逸れた集落だったためか、道の多くは舗装もろくに行き届いていないアスファルトで、場所によっては砂利道すら少なくはない。なんなら、田んぼに水を引くための用水路の方が立派に整備されているような町であった。
今でこそ、大型スーパーやコンビニが並ぶようになり、道も綺麗に舗装されるようにはなったものの、田舎であることに変わりは無い。
そんな町にあってひときわ大きな存在感を示すような川があった。
子ども心にもなんとなく感じる程度に、集落間の仲は正直良くなかった。あの頃はよく分からなかったが、今ならなんとなく分かる。いわゆる差別意識というやつだ。俺らが住んでいた集落が
とはいえ、俺が子どもの頃というのは平成まっただなかなわけで、子どもどうしの関係性にとっては差別なんて関係なく、上地区にも仲の良い友達がたくさんいたのは確かだ。
迫川のことを
ひいおばあちゃんがまだ10代の頃、日本が第二次世界大戦のまっただ中の頃、ひいおばあちゃんは河童に祈ったことがあったそうだ。戦争が早く終わりますように・・・・・・と。もちろんそれが理由ではないのだが、実際にしばらくして日本が降伏し戦争は終わった。ひいおばあちゃんは、河童が願いを聞き届けてくれたのだとたいそう感謝して、川にキュウリのお供えものをしたらしい。そのときに、なんと河童と会うことができ、直接感謝を伝えたというのだ。
俺は小学生の頃、この話が大好きだった。ひいおばあちゃんの願いを叶えてくれた河童のことも大好きだった。だから、低学年の頃はよく川にキュウリを持って、河童探しをしたのだが、遂に出会うことは無かった。
5年生のとき、俺はクラスメイトからいじめられるようになった。理由はたいしたことがなく、運動が出来なくてダサいとか、頭が良いのがむかつくとか色々言われていたが、正直意味が分からなかった。いじめの中心にいたのは上地区の奴だった。実際のところは知らないが、下地区の奴に勉強で負けてどうする、とでも親に言われていたのだろう。俺はそんなくだらない奴らのせいで学校に行かないのは負けだと思い、意地でも毎日学校に通っていた。
けれども、いじめは少しずつエスカレートしていき、直接暴力を振るわれることも多くなっていった。少しずつ学校に行くことに恐怖すら感じだしていた俺は、学校をサボって迫川に行く機会が多くなっていた。迫川に行くときは必ず家で採れたキュウリを片手にしながら、俺は居るはずもない河童にだけ弱音をこぼしていた。泣きながら、学校になんて行きたくないと叫んだのを今でも覚えている。
妙なことが起こったのはそれからすぐだった。天気予報でも触れられていなかったにもかかわらず、突然のゲリラ豪雨が降り迫川が氾濫したのだ。更に不思議なことに、浸水被害にあったのは上地区ばかりで、俺をいじめていた奴やその親戚の家ばかりが特に深刻だったのである。偶然なのかも知れないが、俺は河童様が俺の願いを汲み取ってくれたのだと思っている。なにせ、いじめの中心にいた奴は氾濫した川に流され亡くなったのだから。もちろんその日を境に俺へのいじめはなくなった。
これが俺の体験した不思議な体験談だ。俺はその日から時々、迫川にキュウリをお供えするようになった。願いを叶えてくれた河童へ、純粋なお礼の気持ちを込めて。また、中学生になる頃、河童について更に詳しくなった。狭間の川に住む河童は人の肝を喰らうという言い伝えを、図書館にあった古い文献で見つけたのだ。それから俺は、キュウリをお供えするときにリストを川に流すようになった。肝を喰らっても良い、消えても良いと思う人間のリストを川に流すようにした。
それから俺は心穏やかな毎日を過ごせている。故郷を出た現在でも、河童へのお供えは時々おこなっている。もちろんキュウリとリストは欠かさない。
河童が住まう狭間の川 護武 倫太郎 @hirogobrin
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