07 月明かりの下

 満月の明るい月明かりに、頭上に広がる星空。


 夜だと言うのにはっきりと周囲の様子が見える甲板の上に出た私は両手をあげて喜んで、上を向いたままくるっと回ってしまった。人口が多くて飲み屋街が多い王都に住んでいると、こんなに見事な夜空を見れることはそうそうない。


 しかも、隣には夢にまで見た完璧な恋人が居る。浮かれるのは、どうか許して欲しい。


 夜になっていて冷たい外気に腕を出したドレスのままでは寒そうに見えたのか、シャーロックは黙ったままで自分の着ていたジャケットを貸してくれた。彼自身ではないというのにまだジャケットに残る温もりさえ、愛しい。


「……エレノア。大丈夫? 寒くない?」


 すぐ隣に居るシャーロックは、遠慮がちに尋ねて来た。ジャケットを私に貸して、今はもう白いシャツ一枚になってしまっているのは彼の方だというのに、心配性の彼氏はやることなすこと漏れなく心にときめきを連れてくる。


「うん。ジャケット、貸してくれて、ありがとう。あったかい。私が着ると、大きすぎてぶかぶかになるね」


 一応腕も通してはいるものの、私が体の大きな彼の服を着ると指先すらも袖口から出て来ない。そんなシャーロックの匂いのする大きな服に包まれて、なんだかすごく幸せを感じてしまった。


「俺の服着ている姿も、可愛い。エレノアは、何しても可愛いけど。そんなに可愛すぎると、すぐ誰かに誘拐されそう。早く俺の家で、帰りを待ってて欲しいな」


 そうしみじみと言ったシャーロックは、別に冗談を言って彼のことが大好きな私を揶揄っている訳ではなさそうだった。


 普通に思っていることをごく普通に言いましたという、そんな雰囲気。


 だから、この良い流れに乗って、私は彼と出会ったその夜からずっと聞いてみたいと思っている事を聞いてみることにした。


「ねえ。シャーロックって……どういう時に結婚したいって思う?」


 真面目な顔で聞いた私の質問に対し、シャーロックは特に嫌な顔もせず平静な様子で肩を竦めた。


「うーん。可愛い彼女が隣にいる間は、ずっと思ってる。会えない時や仕事中は、俺の家に居てくれれば帰ると会えるのになと思ってるから。要するに四六時中?」


 さらっと甘いことを言う美男は、本当に女の敵だと思う。だって、どんなに心に防御を固めようが、絶対に敵うはずが無い。


 すぐにノックアウトされて、秒で試合は終わっちゃう。まったく勝負にもならない。


「そういうのが、聞きたいんじゃないの」


 期待とは違う答えに口を尖らせた私に、落ち着いてと言わんばかりに、彼は背中を大きな手でゆっくり撫でてくれた。


「そういうことだろ? エレノアの言いたいことは、わかってるよ。俺も同じ気持ちだし、ちゃんと考えてる。けど、少しだけ、待っていて欲しい。俺も今は正騎士になったばかりだし、こんなに可愛い彼女がすぐに出来るとは思ってもいなかったから。もしそうなるなら、いろいろ準備したいこともあるから。ね?」


 聞き分けのない子どもを言い聞かせるような優しい口調で彼は言った。もちろん、言わんとしていることはわかる。彼も私も、イルドギァでは結婚適齢期に入ったばかりの年齢で、まだ出会ってからそんなに時間は経っていない。


 二人の気持ちはきっとずっと変わらないとは思うけど、もし自分が周囲の人間だったとすると若い二人は結婚までに時間をかけた方が良いという意見もわかる。


 けれど、私は一生を共にするなら、絶対に目の前に居るシャーロックが良い。もし結婚すれば、それでまるっと安心出来るかという訳ではないけれど、出来れば彼女より彼の妻と呼ばれたかった。


 一刻でも早く。


 きっと、誰しもが彼の隣に居たいと望むはずで、私は誰にもそれを絶対に取られたくない。


「……待ってても良い?」


 潤んだ目で見上げれば、何故か彼は眩しそうに灰色の目を細めた。


「良いよ。俺は今は新人だけど、頑張って早く一人前になる。だけど、エレノアが待つのは俺だけしか絶対にダメだよ。もちろん、それはわかっているとは思うけど」


 目の前に居るシャーロックは、約束したことはきちんと守ってくれる人だと思う。だから、他ならない彼がそう言ってくれるなら、私は黙って待つしかない。


「……あ、あのね。今って、ロマンチック?」


 月明かりが照らす夜の中、広い甲板の上には二人きり。穏やかな潮騒の音がする優しい雰囲気に背中を押されて、初めてのキスをねだるようにそう言えば、シャーロックは微笑んだ。


 心得ている彼は、私の望むように望む言葉を言ってくれる。


「……キスしたいな。エレノア。キスして良い?」


 そうして、彼は目を閉じた私の唇にふわっと触れるだけのキスをした。


 柔らかくて、想像したよりずっと気持ちの良い感触。大好きなシャーロックとの、初めてのキス。


 感動に胸がいっぱいになって、彼を見上げるとなんとも言いにくそうに、話し出した。


「ちょっと……引かれるかもしれないけど。エレノアと一緒に旅行しているってことは、そういうことになる可能性があるかもしれないと思って……仕事で使う部屋とは、別に部屋を取ってるんだ。もし、エレノアさえ良かったら、これから俺と一緒に」


「行く!! 絶対、行く!!」


 彼が言葉を言い終える前に食い気味にそう言った私に、シャーロックは安心した様子で笑った。


「そう言ってくれて、良かった。一番良い部屋は流石に無理だったけど、俺なりに奮発したからもし断られたらそこそこショックだなと思ってた」


「……シャーロックから、誘われて断る人なんて居るの?」


 私は心からの疑問を言っただけなんだけど、彼は一瞬だけ動きを止めた。そして、言いにくそうに口に手を当てて話し始めた。


「っあー……わからない。俺は、今までエレノアしか誘ったことないから。これが人生で初めて、女の子を誘ったから。意味わかる?」


 ちょっとだけ不安そうなその表情をなんとかしてあげたくて、私は胸の辺りのシャツを握った。


「うん。知ってる。合コンの時に、レオポルトくんから、聞いたから」


 シャーロックにとってはとても言い難かっただろう事に、すんなりと私が頷き理解を示すと彼は数秒固まってそれから、聞いた。


「……レオポルトに? あいつ、何て言ってた?」


「えっと、シャーロックは童貞で……好きな人以外とは、絶対そういうことしたくないみたいだよって、言ってた。私、そういうとこも……すごく良いなって思ったの」


「そっかー……レオポルトには、俺の方から今度よーくお礼しとくね。そうか……だから、あの時にエレノアは顔を赤くしてたのか。俺が次の銀狼だと聞いただけでは、あの反応は絶対におかしいから。ずっと、不思議だった。今、謎が解けてすっきりした……」


 よくわからないけどすごく良い笑顔になったので、首を傾げつつ腕を取って引っ張った。


「レオポルトくんのことは、もう良いから。ね。早く部屋行こう?」


「……あのね。本当に、わかってる? こんな夜にそこそこ良い船室取ってるから、そこに二人で行こうって俺が言った意味、本当にわかってる?」


 慣れていない様子のシャーロックは戸惑ったように、そう言った。


 もちろん。わかっている。それをわかってるからこその、この行動だ。


「わかってる! 早く私の処女を、散らして欲しい! だって、騎士だったら名誉を重んじるから、そうしたら責任は取ってくれるでしょ?」


 私ががっちりとした筋肉質の腕を取ってそう言うと、彼は大きな灰色の目を見開いて絶句してから、気を取り直すようにして言葉を口にした。


「いや……名誉とか、そういうの全く関係なくても、俺は元々エレノアと結婚するつもりだし。そういう意味では、責任は自ずと取るけど……エレノア。誰からそんな悪知恵聞いたの。女の子って、皆そんな事思ってるの……?」


「合コンの時に、ルイーズが言ってた。私は早くシャーロックと結婚したいから……そうしたら良いのかと思ってた。もしかして、違うの?」


 ずっと勘違いしていたのかもしれないと不安に思って彼を見ると、愛しげに目を細ませた。


「ううん。何も違わない。じゃあ、後々の責任を取るために、これから俺と一緒に夜を過ごそう。あ。明日って朝から何かある?」


「ないよ。明日は夜に、パーティーとかもないし。マクラーレンさんからも、明日は好きにして良いって言われてる」


「……そっか。良かった」


 にこっと機嫌良く笑ってくれたことが嬉しくて、私は彼の腕に両手を絡ませた。



◇◆◇



「広い!」


 私はシャーロックが二人で過ごす為にわざわざ取ってくれたという船室に入った瞬間に、見て思ったままを言った。私の仕事上の経費で取って貰った船室の十倍? 二十倍? くらいの広さがある。大きなベッドがあって、思わずはしゃいで飛び込んだ。


「柔らかい~! ここで寝たい~!」


 両足をバタバタさせても、まだ余裕がある。


 一人用の船室の狭くて固いベッドと比べてしまうと雲泥の差だ。本当に。比喩じゃなくて。ふかふかで雲に乗ってるみたいなベッド。


「往復で同じ部屋を取ってるから、そうしたら良いよ。荷物は、また後で持って来よう?」


 シャーロックは苦笑しつつ、ベッドに寝転がっている私の隣に腰掛けた。とっても柔らかいベッドなので沈み、私の体は自然と彼の方へと転がる。


「嬉しい! 良いの?」


「もちろん。俺がお金払って取っている部屋だし……いきなりだったから、一等は流石に金額的にちょっと難しかった。ごめん。俺は……エレノアのことを大事にしているって、ちゃんとアピールしたいんだ。君のことが、本当に好きだから。俺が君をお姫様にしたい。俺だけの」


 と、言う台詞を世界一好みの男性に言われた時の私の気持ちを表そうと思っても、どうにも表せない幸せ過ぎて。


「え……王子様だっけ? ううん。騎士様だった。嬉しい……本当に幸せ過ぎて、もう死んでも良い……」


 私が上半身を起こし感動したあまり勝手に出てきた涙で目を擦ると、シャーロックは灰色の目を細めた。


「死なないで。人の寿命分は、俺と一緒に生きて。ただ、お金をかけているだけとは違って……エレノアとの初めては、特別が良いから。色々考えた。本当は景色の良いところにでも、旅行しようかなとも思ったんだけど……よく考えたら一緒に出張って、旅行みたいなものだよね」


「私は……シャーロックが居ればそれで何処でも良いけど、私のことを大事に思ってくれてこの部屋を取ってくれたのは嬉しい。ありがとう」


 ふふっと微笑みつつ、そう言うとシャーロックは近づいて来た。


「俺は、君に誰よりも大事にされていると思っていて欲しい。何も……不安を感じないくらい」


 まっすぐな真剣な眼差しで、物語るものは雄弁だった。


 そして、今にも始まりそうな、何か。


「……待って! ちょっと待って!」


「……え?」


 私が両手を胸の前に突き出したので、今しもその体を抱きしめようとしていたシャーロックは凄く戸惑っている様子だった。


「すぐはダメ。お風呂! する前のお風呂は、絶対入りたい! 時間かかるかもしれないけど、待ってて?」


 事前のお風呂だけは、譲れない。雰囲気重視だというのなら、さっき雪崩れ込んだ方が良かったかもしれないけど、こちらは初めてだし色々と準備がある。


「……あー。ごめん。一応、俺も案内された時に確認したけど、入浴に必要なものは揃っているみたいだよ。バスローブとかもあったから……」


 シャーロックはそう言いつつ苦笑して、私に近づけていた体を一旦遠去けた。


「うん。じゃあ。待っててね」

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